第6.5回〈小休止〉

10/27から少しずつはじめた新しいこと。これからも教育者として気をつけながら、18年間「学校」という場で学んできた者として、そして院生でもない、教員でもない、無職の立場の今の自分が、職探しをしながら、何が出来るのか考えていきたい。

つくっていくのは、価値観で、
思考で、つまりそれは、言葉だ。そして、そのためにはきちんと過去を(過去の価値観を、過去の出来事を、過去の文献を精査し、そのコンテクストの中でまたは外で考え直して)積み重ねなければならない。
この間、友人と、結局、倫理観も道徳も価値観も、宗教とは切れないよねっていう話をしたけれど
やはり今度、阿満氏の本とかも含めてちゃんと、再考した方が良さそうだな…と先日公開された、古市氏と落合氏の対談読んでいて思いました。
(ちなみにこの対談に関しては、批判や指摘も多く行われているけど、落合氏自身も、自分の落ち度となる部分に関しては考え直すべきことはあったと、よく言えば"釈明"はしているし、それでもなおやはり、落合氏と古市氏の討論においての知識やデータの正確性に関する指摘はあれど多くの人が、様々な人が、ふたりの言葉の端々をとって様々な問題点は指摘したとしても、この対談に対してこれだけの人が反応している時点で、落合氏と古市氏にとっては対談成功と言えるのだと思う。何を話したかよりそこに人々を反応させたかなのかなと。)

「前提」が何か、何を前提としているのかって、研究でも議論でもすごく大切だと思うんだよね。研究においては、自分は何を知っているのかが中心なのではなくて、何を知っているかによって、何を知らないのか、を知ることだと思っているから、知識を披露したり、批評家であるうちは研究にはならない。
今、言葉を紡ぐ時は、無職のボンクラが戯言を言っているといえるんだけれど、そこに教員という職務が、研究者という地位が、または批評家という名前がついている自分になってしまうと書けないんだよ戯言は。だから、「思いつき以上思考未満」というタグをつけているんだけど。色々なことを整理しながら、考えてきてこの年明けに、研究者とは、教員とは、専門家とは、って考えた末に、今までにないほど「スタートラインに立つ前、の修士卒で、整理し終えたと思えた段階で道は断ち切った方が良いのかもしれない」と思うようになった。思考するのは自由だけど、職分にするのか趣味にするのかは天と地ほど違う。

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