見出し画像

強弱の往還

病理医と切っても切り離せないのが、顕微鏡です。
病理医の仕事の大部分は、ミクロ像を見る時間に当てられますから、顕微鏡は体の一部と化しているといっても過言ではありません(僕はまだまだなんですが)。

小中学校の理科で習ったように、顕微鏡には接眼レンズ対物レンズの2つのレンズがあります。ふつう接眼レンズは倍率10倍のものしか使いません。対物レンズは病理医によって色々と異なるでしょうが、例えば、2倍、4倍、10倍、20倍、40倍、100倍をつけていることが多いと思います。つまり最終的には、20倍(2×10)、40倍(4×10)、100倍(10×10)、200倍(20×10)、400倍(40×10)、1000倍(100×10)の倍率で見ているということです。ただし、100倍の対物レンズを使う場合は油浸という特殊な方法で見なければなりません。100倍の対物レンズを使うのは細菌を詳しく観察したいときくらいです。

理科の教科書には片目で覗く顕微鏡が書かれていることも多いですが、病理医の顕微鏡は双眼顕微鏡です。顕微鏡は自在にピントを合わせることができるので、長時間見ても目にはそれほど負担はかかりません。むしろ、パソコンの画面を長時間見ている方が疲れます。そういった意味では、放射線科医の方が目の疲れを訴えることが多いのかもしれません。

病理診断を行う場合、病理医はどのように観察しているかを書いてみましょう。
まずは、対物2倍もしくはルーペで全体像をよく観察します。医学生の実習を見ているといきなり拡大を上げて観察をする姿がみられますが、これは病理診断という観点からはおすすめできません。そもそも全体を眺めて初めて病変がどこにあるかがわかるからです。病変のありかもわからないのに、拡大で観察を始めると、病変を探すのに途方もない時間がかかってしまいます。

しかし、僕には医学生の気持ちも十分わかります。彼らは実習に際し、病理組織アトラスというミクロ写真が多数掲載された専門書を携えて臨みますが、アトラスには拡大された写真だけが載っていることが多いので、それと合致する像を必死で探そうとします。かくいう僕も学生時代はそうしていましたしね。ですが、せっかくの病理実習です。病理医になりきった気分でやってみるのもおすすめですよ。

病変の全体像を把握した後は、拡大を順次上げて(対物4倍→対物10倍→対物20倍→対物40倍)観察をすすめます。この時に、構造異型や細胞異型が少しずつ姿を現してくるので、それを見逃さないように捉えます。また、少し専門的になりますが、病変部の近くにどんな細胞が集まっているかというのも大事な情報になるので、気をつけて見ていきます。『はたらく細胞』の流行により、色んな細胞が一般の方にも広く知られるようになってきました。好中球、リンパ球、マクロファージあたりはすでにご存じの方も多いと思います。これらをまとめて炎症細胞といいますが、炎症細胞の種類が診断の重要な情報となるので、細胞の判別を丁寧に行います。

拡大を上げたまま観察を続けると、全部悪い細胞に見えてきてしまうという現象が起こります。一種のゲシュタルト崩壊ですね。「あれ、これもひょっとすると癌細胞か? そうすると浸潤範囲が変わってくるな。もしかして最初病変と思っていたところが違う!? なんかだんだん不安になってきたぞ・・・」そんな気分になります。これは強拡大の罠です。そんなときはもう一度拡大を下げて元に戻していきます。そして、全体を把握しなおすのです。弱拡大で眺めてみると、癌細胞に見えたものが、実は炎症細胞だったというのがわかります。

病理医は弱拡大と強拡大の間を往復しながら診断を行っています

ベテランの病理医になってくると、対物40倍はほとんど使いません。対物4倍、対物10倍くらいで診断ができてしまうことがほとんどです。彼らの眼球自体が優れたレンズと化しているかのように、若手が対物20倍、40倍でしか判別できないような細胞を対物4倍くらいで見抜いてしまいます。すごい観察力だなあといつも恐れ入っています。

今日のまとめ
・まずは弱拡大でしっかりと眺めましょう
・強拡大にしすぎると、全部悪く見えてしまう錯覚に陥ります
・あんたの目は高性能レンズか!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?