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はじまり

1973年(この年号に深い意味はありません)には、「病理医」という言葉はなかったそうです。今でいう「病理医」はすべからく「病理学者」と呼ばれていました。その当時には、病理に携わる人々は医療現場の最前線で仕事をしている人だとは思われていなかったようですし、自らもそう思っていなかったようです。医行為にかかわる人というよりは、病の本質を解き明かす研究者というイメージあるいは矜持が強かったのでしょう。

では、現在はどうでしょうか。
もし、あなたが「病理医」と出会う機会があったら尋ねてみてください。

「病理学者の方でしょうか?」

きっと彼らは、あまりに身の丈に合わない称号で呼ばれたことに驚き、全力で否定すると思います。

多くの病理医は自分たちのことを学者とは思っていません。もちろん特定の病気については、かなり深く研究していることがあります(それは臨床医も同じです)。だからといって、自分のことを学者だと思いながら働いている病理医は少ないと思います。

病理医はまぎれもなく、医療の現場で働いています。内科医が外来をしているときも、救急医が急患の対応をしているときも、外科医が手術をしているときも、病理医だって負けず劣らず働いています。ただその働きぶりはなかなか目に見えません。目に見えないということが病理医という仕事の特性といってもいいかもしれません(なにせ顕微鏡を扱う仕事ですから)。

実に様々な人々の努力によって、病理医という名称は確実に市民権を得てきたように思います。例えば、『フラジャイル』という名作が人口に膾炙した今、ほかの誰かが病理医について語る意味があるでしょうか。

まあだから僕は、世に大声で病理の存在を認知してもらうために働きかけるわけではありません。もうそのフェーズはすでに過ぎ去ってしまっていますしね。そうではなくて、僕は病理医の単なる日常と病理学についてここに記していこうと思います。

アリが巣穴を作る様子って可視化するとおもいしろいじゃないですか。地下にあんなに広大な世界が広がってるんだ!ってなりますよね。いわば僕はアリみたいなもんです。アリがせっせと巣穴を掘っていく様子を見ていただいて、へぇーと思っていただけたらそれだけで成功です。だからこのマガジンは「病理が見える」と題します。

では、次回からゆるい感じで語ってゆくこととします。

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