初回から、いわゆるメンヘラがなぜ加速度的にヘラっていくのか考えてみた。
初めまして、patentです。
初投稿です。タイトルの通りです。単刀直入となりますが、冒頭文無しになりますが、ぶっこんでいきましょうか。メンヘラについての考察をしていきたいと思います。
僕自身が何を隠そうメンヘラであった。
1年前は、いろんなことに対してクヨクヨして、何も手につきませんでした。僕は22年間、何だかんだでとても甘やかされてきたんですね。
そこから急に「ポイッ」と外に投げ出された。
その瞬間が僕にとっては就活でした。すべては自分次第という世界。何もできなかった。何も選択できなかった。一番大変だったのは、自分がどうなりたいのかさっぱり分からなかったこと。
今までの人生でサボったツケが全部回ってきた感じですね。
毎日家に籠ってお酒飲んで泣いて、「こんな自分は嫌だ~」とか「自分が〇〇だったら~」とか「親の教育が~」とか考えて自分の人生に嘆いて過ごしていました。
いや本当に自分でも驚くくらいに赤ちゃんみたいな人間でした。
今もまだまだそーゆう部分が完治しているわけではないのですが、それでもあの時に比べたらだいぶマシになりました。
当時自分の性格で嫌いだった部分がたくさんありました。例えば
・問題の対処能力が弱い
・人が少し苦手
・夢中になれることがない
・興味の幅が狭い、故に行動力が弱い
とざっくり書けばこんな感じですかね。
えーっと、一言でいえば、僕、メンヘラだったんですね。
タイトルに生意気なこと書いていますが、僕が何を隠そう、「自分で不幸に陥ろうとする人間」でした。
結構多いですよね世の中に、メンヘラ。
「メンヘラ」とは
突然ですが、僕の中でのメンヘラの定義は「自分で自分の機嫌を取れない人」です。
なぜ取れないのかと言うと、取る能力がないから、ではありません。
「取る気がないから」です。
取ろうとしない動機は主に二つです。
・自分をネガティブな意味でもいいからとにかく「特別な存在」に高めたい
・傷つきやすいので自分から自己開示する勇気がなく、結果遠回りな表現で他人に自分の悲惨な状況を伝えて心配してもらいたい
(典型的な例が自傷行為)
メンヘラは、実はとてもプライド高い人が多いですね。
自分を特別な存在に仕立て上げたい。それが努力への動機に昇華されればいいですが、メンヘラは自己管理能力が低いので、楽な方法で自分を特別に仕立てます。今風に言えば、「かわいそうな自分」にブランディングする。
また、プライド高いが故に傷つくのが苦手なので、上記のように、遠回しな表現で周囲の感情を振り回していきます。つまり、「周囲をどうコントロールすべきか」にエネルギーを使うんですね。
なぜなら、繰り返しになりますが、自分で自分をコントロールする気がないから、自分のなかに軸となる評価基準がなく、周囲からの評価を重視しているからですね。
メンヘラ改善
では、メンヘラを克服させるにはどうすべきか。
これは難しい課題ですよね。改善の方針としては
・努力して「かわいそうな自分」になったとしてもメリットが無いと知らしめる or デメリットで自分が損すると知らしめる
・努力の動機を見出させる
みたいなのが浮かびます。
ちなみにこれは言葉で伝えるのではほぼ効果ないですね。周囲の貴重なアドバイスを都合良く解釈してどうにかして「自分ではできない」「がんばっても自分には効果が無い」という結論に至るのがメンヘラの得意技だからです。
結局のところ、「もはやメンヘラになるだけではどうにもできないくらい自分で頑張らないと辛い状況にソイツを投げ込む」が一番だと思いますね。
同情はもっての外です。1gの「かわいそう」の一言で彼らは500kgくらいまでブクブク太れます。一縷の同情も与えてはいけません。
一つの懸念は...。
ここからが本題です。
メンヘラをいじめるような形で書きましたが、僕はメンヘラ全員に対して「打たれて強くなれ!」みたいな暴論を書きたいわけではありません。各々事情はあると思うんですよね。
というのも、「隠れメンヘラ」と僕が呼称している人々の存在があると思うんです。
「隠れメンヘラ」は、他人を振り回すことはしません。するのは、「無意識に自分を諦めてしまうこと」です。
自分で自分の管理を止めてしまったという点では、通常のメンヘラと共通しています。
結構周りにいませんか?
中学時代、僕が所属してたバスケ部に二人ほど、死ぬほど憧れていた先輩がいたんですね。
勉強もできる、バスケもべらぼうに上手い、イケメンーみたいな人たちでした。
どうしてもこの人たちみたいになりたいという思いでいろんなことをがむしゃらにがんばっていたわけですね。ものすごくキラキラしてました。
でも僕が高校に入学してから久しぶりに再会したとき、なんか二人とも「翳りのある青年」になったなあなんて思ったんですね。
高校生ながらその変化にとても不思議でした。
またちょっと違う話をします。
塾講師として中学生の勉強を面倒見ていたときもあるのですが、一番頭の良いクラスの生徒のはずなのに、なーんか暗いなあって子がものすごくたくさんいた代とかあったんですね。
もちろん元から大人しい子が多かったってのもあるんですが、うまく説明できないくらい、どよんとした閉塞感のある空気に飲まれてるクラスだったんです。
そのクラスに対しては、「受験がんばろうぜ!」っていう激励はせず、「自分たちのペースでやろう」「受験がすべてじゃないから、受験がすべてだと思ってるやつはすごく価値観が狭い奴だから」「勉強を楽しんでみようぜ、そうなれるように俺が少しでも勉強の仕方教えるから」みたいに接するようにしました。
で、意図的に「型破りな先生」キャラを演じるようにもしてました。閉塞感を少しでも打ち破るように。
「なんでそうしたの?」と聞かれると、正直、具体的な裏付けがあってそうしたわけではないんです。ただ、こうすると空気が変わるんじゃないか、みたいなのが直感的にあったんです。
100%改善されたかと言われれば全然そんなことはないけど(むしろ僕が原因で一人生徒が退塾した)、私立受験を直前に控えた12月の頭、急に空気が一変したな、て思える瞬間があったんですね。それまでは授業中に絶対に発言なんてしなかったある女の子が、手も挙げず、急に「先生、その○○の問題の解説間違ってますよ。」て指摘してくれたんですね。
衝撃でした。
こんなこと言ってはいけないけど、「志望校合格しました!」て知らせを受ける以上に嬉しかった。
で、この話から言いたいこと。
こんな風に、何となく周りの空気に共感できるわけではないけど、何らかの心理的・物理的原因から、声をあげたり、行動したりすることもできず、心にポッカリ穴を作ったまま大人になってしまう人っていて、
この「隠れメンヘラ」が、少しでも、周囲と自分とのギャップを無視して、自分の望む方向へ歩む勇気を生み出せる環境作りをすることは、とても大事なんじゃないかなってことなんです。
これが、僕が教育に関心がある理由の一つだと思います。
特に、子供ほどかわいそうかなぁなんて思います。限られたコミュニティしか与えられず、しかもそのコミュニティは自分で選べないことが多く、そのコミュニティの方針の影響を人格形成の重要な時期にモロに受けがちだからです。
自分が見てきたもの、感じてきたものー。これらが、いつかどこかで、世の中を良い方向に動かせるようにしたいと思っているんですね。
まずはミクロなところから言えば、お互いにお互いの考えを尊重するところから。
「これが当たり前らしいよ。」と押し付けあわないこと。「常識」という言葉は子供にとって最も毒だと思っています(傍若無人な振る舞いを何でも許していいとか言っているわけではありません)。
ぶつかることはあっても構わないから、相手の目線に立って、言葉をかけてあげること。これくらいなら、今からでもできるんじゃないでしょうか。
ほら、今いる目の前の大切な人に対して。
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