もともと存在の意味はなかった。

会社、家、会社、家
毎日繰り返されるルーチンでマンネリに陥り、意欲のない人生を住んでいる。
そして
なぜ生きているか?
私の存在の理由はなんでしょうか?
私はどうして生まれたんだろうか?
といった根源的な質問が頭の中に漂う。

[時期的観点]

初めて存在した時の私の存在は誰かの息子だった。
愛する男女が会って付き合って、それに対する結実として私が出た。
その男女にとって私はだれでもかまわなかった.
そのお腹の子が自分の子どもであることが一番大切なことだ。
その子に取って存在の理由はない
ただ偶然に生まれたのだ。

[歴史的観点]

歴史的に人間の存在は労働力だ。
狩りをする人力、農作をする人力など、多様な革命を経て労働の多様性が行われ、業務も多様だ。
では、現在でも仕事をすることが私の存在の理由なのか?
過去の場合、一人一人が重要だった。
部族社会における一人は重要で必要とされている。
しかし、現代は会社からも一人抜けても、さほど問題にならない。

[義務と必要の観点]

存在は必要性と多くの関連性があるようだ。
たとえば、ある家庭のお父さんになった場合、愛する家族、子供のために私は死ぬことができない。
生きて幸せな家庭を作るために努力しなければならない。
少数の優秀で能力を持った人も同じだ。彼らはより良い世界のための義務と必要性が生まれ、存在価値が高まる。

それでは、必要性のない人間は存在の価値がないのか?


人間は偶然生まれたものだ。生まれた時から存在の理由は決まっていない。ただ仕事をして趣味を楽しみながら週末に友達同士で集まって遊んでも全然問題ない。それなりの人生があり、そこでの楽しみ、怒り、悲しみ、喜びなどで存在の意味がある。 あるいは特別な何かになるために努力し、他人にとってなくてはならない必要な存在となり、自分の存在的価値を高めることもできる。

存在の理由はもともとない。 ないまま暮らしていい。 自分だけの存在的価値を作ってもいい。

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