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正解はわからないが、FIRE卒業というパワーワードを見て、"仕事"について思うこと

少し前のツイートでも触れたのですが、"FIRE卒業"というパワーワードが世間を賑わせ、そのスレッドには「失敗、見積もりが甘い、ただ少し休んでただけ」等の辛辣な言葉が続いているのを見かけました。

私個人はFIREとは無縁ですが、所帯持ちではあるものの仮に独り身だったら数年でFIREできるぐらいには回せてたなとも思うぐらいに、消費をしない人間であります。
なので、FIRE自体もそこそこ、このワードが出てきた当初は興味があったんですね。
趣味の絵や楽器に無限に専念できる!と。

ただ、FIRE卒業のトピックを見て、改めて果たして本当に自分がFIREできたら、幸せなんだろうか?と考えてみました。

結論から言うと、自分にはFIREは無理。と現時点では考えます。

仮に一定の暮らせる額を手にした状態で仕事を辞めて、日々の生活ができるか脳内シミュレートしたのですが、どのパターンにおいても1か月持ちそうにないのです。

今の仕事は楽ではないが、誇りを持っているし、やりがいもあります。
勿論ストレスフルなことも多々あるけども、(死にかけたこともあったが)それでも仕事をしてない自分をどうしても想像ができません。

自分の存在意義や価値のウエイトが仕事に偏っているせいかもしれないし、
1年程前に5日間程入院しただけでも、大分不安に襲われました。

絵を描く時間も楽器を弾く時間もゲームをする時間も、家族との時間もすごくほしいのも事実ですが、日々仕事のスケジュール管理をしてオンオフの時間確保をそれぞれ行っており、これが、仕事が全くなくなって全部オフとなると、一見趣味に全振りできて良いように見えますが、
自分はそこまで意思が強くないので、どれも中途半端になりそうと判断しています。

仕事という適度なストレス(緊張)があることで、メリハリとなり、休日、余暇の貴重さと有難さに気づき、そしてその時間をいかに有効に使うかを
考え、対処ができます。
このため、自分の場合は、FIREになると絵(創作)もゲームも楽器もどれも「別に今日じゃなくてもできる」という状況(甘え)となり、何一つこなせず、ただスマホをだらだら眺めるだけの人に成り下がることが容易に想像できてしまうのです。

何かしらの制限や制約があってこそ生まれる作品やスキルは光ると考えてます。
ファミコン時代の容量が足りないことへの工夫で文字数やタイトル画面を削ったり、コードを書き直して収める執念も制約制限=ストレスがあってのことと考えています。
これが容量がほぼ使い放題のギガ、テラになったら、名作が生まれ放題かといったら全然そんなことはありません。
極端な例でしたが、これは時間や精神状態にも当てはまり、特に締め切りが無く、仮に作らなくても生活も何も困らない状態での作品やスキルは生まれるものなのか?甚だ疑問なのです。

私は、そういう状態で作品を作れたり、スキルアップができる人はごく少数であり、故に天才だと思っています。


仕事がなくなったら、暇が与えられたら、最初の数日はとにかく遊ぶとは思いますが、その先に何かを生み出せるか、自分自身がスキルアップできるかと言ったら、否かなと。
FIREならスキルアップ不要かもしれませんが、何も成長しないでただ生きていくというのは、拷問に近いものを感じます。

そしてそれは必ず家族へも影響します。

私は今の仕事は完全在宅勤務なので、常に家族が私の仕事や私自身を見れる状態にあり、
これは、恩着せがましいかもしれないが、家族を一人で養う身としてその背中は見ていてほしいし、お互いに良い刺激にもなると考えています。

逆に言うと私は、これぐらいしかしてあげられないとすら思っています。
今の技術が家族子供に役立つかというと、専門すぎるし、他に教えてやれることなんてたかが知れており、
その仕事の姿勢すら、FIRE等をした場合には崩れることになります。

ただ、そもそものFIREの前提が異なっている可能性もありますね。。。
資産運用等そこそこの作業(仕事)はするから、完全に無職のような時間のふるまいはできないとする人もトピックを見ていると伺えました。

また、私自身も勿論ですが労働者気質の考えから抜け出せないので、上記思考となってます。
経営者や使う側の人ならこのような考えにもたぶんならないのでしょう。

Twitter界隈は基本"働きたくない"が横行しており、勿論、月曜日がしんどいのは同じですが、本当に働かずに生きている人たちは、逆に凄いとすら思っています。

仕事の大変さがあるからこそ、休みが楽しめる。そう思って明日は少しばかり仕事しようかなと思ってます。


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