日記、12月中旬
道を尋ねられた。
カタコトの日本語で、英語表記になった乗換案内アプリを僕に見せて、不安そうに聞いてきた。
目的地とアプリを照らし合わせると、そもそも出発地点が違うようで、ここからは徒歩で駅を移動しないと提示されたルートに乗る事が出来ない。
それらを日本語で説明してみたけど、5秒くらい話した後に、彼が、僕の話を理解していないのが分かったし、雨も降っていたので、その雨の中を歩かせるのも案内するのも面倒くさくなり、話すのを途中でやめて、遠回りのルートで目的地まで案内する事にした。
彼から見たら、僕はなんて親切に見えたんだろうと思うけど、僕からするとそれはただの気まぐれで、見ず知らずの外国人である彼に優しくいたかった訳でもないし、なんとなくバツが悪いし、自分だってこんな風に、誰かに助けられた事があったわけだからと思いつつ、実際に移動中の電車内で、彼に構う事はなかった。
例えば彼が資産家の息子で連絡先を交換しお礼にお駄賃をくれるかもしれない、もしかしたら世界で一番有名なラッパーかもしれない、と考えないわけではない。現実の別れ際は軽い会釈で終わった。そんなに遠くまで付き添った訳ではないし、お金持ちである事も有名である事も期待してた訳ではないから、まあ、強いていうならもう少し笑顔かなと思ったけど、あんまり嬉しそうな表情もしてなかった気がする。東京の郊外であるここまで1人で来れてる訳だから、そんな付き添うこともなかったか、となんだか自分のした事はあんまり意味のない行動に見えて、ましてきっと笑顔で喜んでもらえるのだろうかと期待した自分の浅ましさに落ち込んだけど、不思議と嫌な気はしなかったし、帰りの上り電車は僕しか乗っていないような静けさで、最寄駅に着いてからは雨も止んでいて、最後にはとっても前向きな帰路になっていたと思う。
見返りの求めない優しさが苦手で、怖くて、不思議で、それを優しいと表現するのが苦手だったから、理解できなかったけど、誰かの気持ちに寄り添った行動は自分も前向きにしてくれると思いました。
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