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無産階級・無産人間の俺

帰り道、スマホの充電を切らしてしまって、ボーっと考え事をしながら帰った。そういう日も必要だと思う。
大学時代のぼくは、電車移動をする際になるべく本を読むようにしていた。いくらでも選択肢がある中から選び取ることって確かに素晴らしいことかもしれないけれど、それしか選択肢がないものに仕方なく向き合うことも忘れてはいけない。
本をある程度読んでいると、あるとき「これは自分のために書かれた本だ」と思えるようなものに出会う日がくるという話はよく聞くと思うけど、今回はその話でもしようかな。それこそ大学時代のぼくはまだまだ厨二病真っ盛りだったから、ロシア文学なんかを読み漁ることに熱心だった。文学サークルに置いてある、魔術書かと思うような装丁のロシア文学全集をウキウキで借りて、古くて読みづらい訳で書かれたチェーホフとかトルストイを読んでいた。(恥ずかしいね)
ぼくがその中で出会ったのはドストエフスキーの『地下室の手記』で、初めて読んだとき、これは自分に向けて書かれた本だと思った。ざっくりいうと、プライドだけ高い引きこもりが、屈折した自分語りをしている本、とでも言えばいいと思う。青空文庫で読めるから、眠れない日に検索して読んでみて。
別にぼくはこの主人公ほど歪んではいないんだけれど、大事なのは、次のような点だと思う。それは、自分のために書かれた本のように感じるということは、ぼくが抱えている悩みだなんていうのは実に普遍的なもので、自分だけが特別苦しいだなんていうのは自惚れだということだ。自分は周りと違ってしまっているから頑張って合わせようとしてきたつもりだけれど、そもそもお前自身別に特別でもなんでもないから気にしすぎだよという現実を突きつけられるような気分になる。別にぼくは特別ではなく、人間を描こうとしたら出てくるような、ありふれた何かのうちの一つなのだということ……。
ただ、普通に考えれば、喜ぶべきことだよねと思う。小説や、占いや、歌詞の断片が、まったくぼくなど眼中になかったとしても、自分に向けられたものだと思えるのだから、ぼくの中にある普遍的な悩みは普遍的な処方箋で間に合うというわけで、安心するところだろうと思う。

こんなことを書いていたら眠ってしまって、翌日になるとまるで文章が続かなかったから、おしまい。もう少し色々書きたい話もあったんだけれど、繋がりそうにないしまた今度。
この文章も例に漏れず誰に向けて書いたのかという話ができてしまうし、あなた宛てですよって言えばそうなってしまうと思うんだけれど、これはどう見ても自分宛てで書いています。

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