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鯉が泳ぐ夢

 怒りに震えている。なぜあなたにこちらから言葉をかけないといけないのか。あなたがこちらに話しかけるのだ。僕は怒っている。あなたが無様だから。こんな言葉を使うような統合失調症めいた感性で終わってしまうのが悔しくてならない。あなたは僕の幽霊だ。僕は呪われている。ますます統合失調症めいている。あなたを語れば語るほど僕が馬鹿に映るのはわかっている。だからあなたを語らないように自分を語る。そこで折に触れて思う。僕は見抜いている。病気かどうかじゃない。幽霊かどうか。幽霊に着目しても霊能者は信じるに値しない。だからここで直談判する。いつか僕がかわいそうだってことを証明してくれ。それと今僕を報いてほしい。インスタントに報いてほしい。そんな真似はあなたの矜持に反するかもしれない。だけどそんなこと言えた口か? 貴様が惨たらしくて醜い奴だと薄々気づいてるけどな。さて、なにかかける言葉はないんですか? 成功している人間を代表するな。そして大人ぶるなよ。ただ聞きたいのはどんな本音があるかだけだ

 長いこと時間をかけて生きてきたつもりだ。それでもまだ自分が10代だとは。その事実を直視する度にうぅっと心臓が締め付けられる。どれだけ丁寧に生きても取りこぼしがあるように、どれだけ懸命に生きていても余地が残されている。
 僕には好きな子がいる。名前は知らない。そんなことどうだっていい。まぶたを閉じれば、その子は現れる。言葉遣いが女性的だから、多分女だと思う。それ以外わからない。もしかしたら過去から来た人かもしれないし、未来からの使者かもしれない。宇宙人かもしれないし幽霊かもしれないし悪魔かもしれない、天使かもしれない。そういうのが色々と不確かな人だ。
 それでも僕は彼女のことが大好きだ。この子のために人生を貫きたい。でもこれから先の未来は漠然と長いようだ。かつて僕が今まで生きてきた道のりも長かった。変なやつに説教されて、嫌なやつに気に入られて、本当に地獄のような日々。これをあと四回くらい繰り返す。と言っても、いきなり五年が一秒で過ぎ去るかもしれない。未来なんてわからない。今進路調査票を書いているけど、どこの大学に入れるかすらわからない。果たして僕に受験ができるのか?

 天から水風船がぶちまけられて、ワイパーで掻きわけても掻きわけても次の風船がやってくる。僕は店で甘ったるいヨーグルトティーを飲んでいた。僕は予習も提出物もそっちのけで、女の子のためにラブレターを作る。僕の作風は「悩んだら駄作」というポリシーがある。何も考えずに浮かんだことをばっと書いたら、振り返ると案外面白かったりするけど、悩み出すと後々どこで悩んできたのかが恥ずかしくなる。今日はなんだか調子が出ず数文字も書けない。悩んでいるというよりは調子が悪くてなんにも文字を書けない。梅雨の気温に未だに身体が馴染めてない。ブレザーをなんとなく着たい気持ちになれない。
 女の子が「もう頑張らなくていいよ」と言う。そういう訳にはいかない。女の子をナンパすることこそ僕の人生の華なのだ。なんて。一日に一作できないと今日は駄目だと思ってしまう。だから懸命にナンパしていく。でも最初の一文字が出来上がらない。何から喋ろうか。
 ヨーグルトティーのこってりとした後味のせいでいつまでも喉が渇くけどお金がないことをどうにかして恋愛に発展できないだろうか。それともしみったれた日常について嘆き節を披露するか。今から帰っても特に何もやりたくないとたそがれてみようか。全部今までにやった。何にも面白くない。

 午後七時を回る。まだ外は明るい。顔につーっとした温かいものを感じて拭ってみると、鼻血が出ていた。今日は寒いのにどうして僕はのぼせているんだろう。今日はそういう気温なのか。雨は降っている。頭は痛い。それもこれもなにかの糸がほつれているだけなのだろう。
 鼻血をハンカチで拭いながらぼんやりとしていると、天井の角から板目の隙間から雨漏れしていた。水垂れはぼとぼとと零れ落ちこの空間を侵食していた。外の雨はたっぷりの水が溜まったバケツをひっくり返したような勢いに変わり、水量の嵩が増した。足元をずぶずぶに浸した。ゲリラ豪雨という言葉があるけれど、今となってはこんな次元にまで達するようになってしまったのだろうか。二階席でこのような状況なので、一階は一体どうなっているのだろう。
 ざぶざぶと水を掻き分けて、窓の外を見る。見たところ、通常通り。誰も水量で慌てている様子はない。この空間だけ水が溜まっていく。腹まで浸かっている。僕の眼差しを少し上に変えた時、ひとりの人と目線がかち合った。途端、僕の鼻血は滴った。
 他の客といえば、残って一心不乱にパソコンを打つ客もいれば、この水量に全く気付いていないのか、零れてなくなったコーヒーカップを必死に傾ける人もいた。おしゃべりを続ける人もいた。全く能天気なことだ。
 僕と言えば、目の前の女の子の出方を見つめていた。下品になるかもしれないが、彼女が出て行くならあとをつけようと思っていたし、彼女が残るならいつまで経っても僕も居てやろうと思った。つまりは他の客の能天気ぶりに助けられていた。
 やがて水流ができ、ぐるぐると構内が回転して渦ができる。女の子は意を決して水の中に潜り込んだ。僕も倣って、ざぶりと飛び込んだ。水の中に入ってしまえば、さっきの店よりずっと広大な敷地が広がっていた。家具を避けながら、覆いかぶさる観葉植物なんかは蹴ったりして、僕たちは一階を目指した。
 どこまで息が続くのかはわからないけれども、続くと思う限り続きそうな気がした。いつまで泳いでも僕は全然苦しくないから。彼女の方を見やる余裕もあって、彼女の方を見たら一生懸命に前だけしか見つめていなかった。
 黒い円があった。そこを目指して進み、やがて近づいたところで、その円めがけて突っ込んだ。女の子より先に僕が辿り着いたし、こういう時はこっちが先んじないといけない気がしたので、思い切って黒い穴を押した。
 黒い穴を開けると、勢いよく僕たちは飛び出された。そして他の洗濯物と一緒にそこら中に散らばった。僕たちは洗濯機の中にいた。

 バスタオルやボクサーパンツが自分に貼りついていたのでひとつひとつ取り除く。洗濯物の内容を確認したところ、これは僕の実家の洗濯機ということがわかる。ふと女の子を見やると、状況を飲み込めていないのかきょろきょろするばかりだった。僕は彼女から洗濯物を取り除いた。
 その時、嫌な予感がした。彼女に触れそうになると、身体中の細胞が危機を感じる。なんだかこの子に触ったら僕か彼女が消えるかのような。直感的に断定できた。
 彼女と僕はすこし話をすることにした。
「大丈夫ですか」
「まあ、はい。ありがとうございます」
「恐らく、ここは僕の実家です」
「そうなんですか」
「洗濯物が僕のものです。家具の配置は、全然違うけど」
 今真っ白い部屋に洗濯物と僕たちが散らばっているけど、美術館のアートギャラリーみたいな広さの空間には、四隅に冷蔵庫とかオーブントースターとか掃除機が直立している。僕の実家はこんなスタイリッシュなものではない気がするが、ここは僕の実家なのだ。
「私たちは、夢を見ているんですね」
「そうなんですかね」
「だってそうとしか考えられない」
「もしこれが夢だとしたら、僕の場合、気づいた時には醒めてしまうことが殆どです」
「へえ、そうなんだ」
「これは夢なんですかね」
 僕と女の子は意思疎通をしているようで実は対面していない。僕は彼女の背中を見つめて、彼女は部屋の窓の向こうの陽のひかりを見つめている。彼女が僕にコミュニケーションを承認してくれている確証はなく、言うならばいつものようにテレパシーを感じているだけ。それに僕が勝手に解釈してるだけ。いつも瞼の裏に彼女の気配を感じるので、そこに問いかけるとこだまが帰ってくる。全部僕の身体の内部で起こっている。僕はなにひとつ彼女に触れていない。
 いつもは僕の身体の中にあのこだまのような意思を探して、くだらないナンパ口上を量産していたし、それが僕にとって生き甲斐みたいなところまで感じていたのに、今はどんなに彼女に問いかけても虚しい。彼女はそこに居て、見えるのに、見てくれない。
 こんな気持ちも彼女には見え透いている。だからこっちむいてくれよと思うが、もったいづけているのかこっちを見ない。
 僕は勇気を出して声を出した。しかし声は出なかった。やっぱ夢だからか、と落ち込んでいると彼女が振り返った。陽のひかりの逆光で見えなかったが、それが安心した。もし、彼女の顔が露わになったとして、彼女の顔面の中央に大きなクレーターで抉れていたらショックだ。彼女の目や鼻や口が存在していなかったら、彼女が人外だと認識でもしてしまったら、僕は彼女を見限ってしまうかもしれない。僕ははっきり言って人間じゃなかったら相手を好きになれないと思う。それが外れて、たとえば宇宙人だとしたら、この肝は震え縮み上がり、カチコチに硬くなることだろう。
 彼女のことはよく知らないけど長い付き合いではある。昔から自分について悩みだしてきた時、彼女は僕の考えにいちいち舌打ちをよこしていた。精神科を受診するくらいに悩みだしたのは中学卒業の時。思えばその頃僕は大きく天狗だった。田舎の中学校で一番成績も良くて生徒会長だったし態度もでかかった。その鼻を挫いたのは彼女だ。僕は高校受験に失敗したのだが、そこから立ち直ることができたのは彼女のこだまによる指導のおかげである。高校受験に失敗したくらい、あんな田舎で恥をかくくらいのことは、三年経ったらそこに拘っていたことの方がよっぽど恥ずかしいくらいなのである。
 彼女が僕に通信できる、という事実が大変強烈なので、彼女が宇宙人であることくらいは大して不思議ではないかもしれない。ただ、見た目の問題がある。どうせなら可愛いものであってほしい。できれば人が良い。僕は人という見た目に欲情するらしい。
 以上のことを体感三秒で振り返った時、彼女が
「私が宇宙人だったらどうする?」
と聞いてきた。
 女の子は答える前からにやにやして僕を遊ぶような様子だった。そんなの、決まっているじゃないか。
「顔を見てから考えます」
「顔なんてさっき見たじゃない」
「え、そうかな」
「忘れたの? 喫茶店で見たじゃない」
「覚えてないんだ」
「だったら、心の瞳で見ればいいじゃない」
 あの合唱曲が頭の中を駆け巡った。僕は心の瞳を開眼した。やっぱり、瞼の裏にあたたかな光があるだけで、僕にとって彼女はこだまでしかないんだなあ。

 冷蔵庫に麦茶があるはずなのでそれを手に取り、コップに注いで飲んだ。大して喉も渇いてないのにそうした。彼女も飲みたいと言うので、新たにコップを持ってきて注いだ。彼女は「ありがとう」と言ってコップを受け取った。そういえば今顔を見た気がする。全く狙った魂胆の上で麦茶を飲んだわけじゃないのに、たまたま彼女の素顔を知ることができた。僕と、彼女がこだま以外でコミュニケーションをした気がする。可愛かった気がする。
 僕が思っているよりずっと可愛かった。というか、ちゃんと目と鼻と口があるだけでこんなに感動するとは。
 ふと、彼女が咳込んだ。
「大丈夫?」
 そう言って、洗濯物からハンカチを渡すと、ハンカチが赤く染まった。死だ。
「麦茶に毒が入ってたのかな」
「私宇宙人だから、地球人の知恵とか産物がやっぱり駄目なのかもしれない」
「やっぱり宇宙人だったんだ」
「あなたって何でも鵜呑みにするね」
「そうでもないよ」
「本当に?」
「でも目の前にそれしかないなら信じてしまうんだ」
「ああ、そう」
 素っ気ない態度をするけれど、彼女は不安そうだった。それを見つめているのもあんまりだから、色んなところに視線を逸らしてみてわかったけど、彼女から漂う生命力はとても薄い。足が透けるとか幽霊みたいにわかりやすいことではないけれど、嵐に似た強い風がここに吹いたら、すぐ消えてしまいそうな。
「やっぱり、地球は生きづらかったかな」
「そうね」
「自分の星にでも帰るのかな」
「帰れないわ」
「どうして」
「法を犯したから」
「家出がそんなに悪いことなのか」
「それだけじゃないけど」
「そうなんだ」
 僕はそれからぷつりと黙りこんで、じっとしていた。
 でもアイデアは不躾な急にやってくるものだ。アイデアというものは、誰かの問題を解決するために出てくるのならかっこいいけど、僕は大抵の場合、思いつきのアイデアを言いたいだけに過ぎない。実現可能かどうかは気にしてない。ただ僕の思いをアイデアに乗せて言うだけ。突発的だ。瞬発的だ。発作的だ。そこには本当に相手を思いやる裏付けはない。自分本位だ。それでも。
「僕も法を犯したい」
 すると彼女が振り返って僕を見つめた。唇を固く結んだまま、彼女は僕に語りかける。
「は? 例えば」
「ごめん、何をしたら地球にとって不利益になるかわからない」
「私もわからない」
「でも僕が地球にとって都合の悪いことをしたらおあいこじゃん」
「前から思ってたけど」
「うん……」
「君って、受験失敗するし、頭良くないよね」
「……傷ついた」
「そう。そういや地球って、どこにいてもいつでも、他の意識に邪魔されるよね」
「言われてみればそうかも」
「そうじゃなかったから、私は、ここに憧れてたのに」
「他に、昔の地球みたいな星がないかな」
「そうだね」
「一緒に探そう!」
「……そうだね」
 それから僕はいかにして地球を脱出するかを考えた。例えば銀行強盗。他には金閣寺を焼いたり、食紅工場を乗っ取って海を紫色に変えたり。色々とアイデアを思いついては、彼女に却下された。不良な感じに悪いことをすればどうにかなるという道筋にシフトしていった。何故かはわからない。彼女は僕のアイデアの量にうんざりしたのかかなり序盤からやる気を失い空返事だった。
 宇宙に行くにはどうすればいいのかよくわからない。まずアメリカに行ったら話が早いのかもしれない。なんといってもNASAがあるし。
 僕はパスポートを偽造することにした。部屋の引き出しから親のパスポートを取って、ワードソフトで真似して、プリンターで良い感じに厚みのある紙を探してコピーした。生徒手帳の顔写真を切って綴じて、カバーは親のものから外して偽物に装着させる。ハンコみたいなのは彼女に消しゴムを渡して彫って作ってもらった。宇宙人だから何でもすぐにできた。
 僕たちは家中から必要になりそうなものを漁った。一番大きいのにこれからの旅を考えると頼りないカバンの中へぎゅうぎゅうに詰め込んだ。彼女のカバンのファスナーが閉まらないでもたもたしているので、僕がカバンの中身をチェックした。
「タロットカードとか要る?」
「いや、道に迷った時に役立つかなって」
「地球でも役に立つのか問題になっているのに、宇宙で占術が通用するんだ?」
「単純に、物として好きなの」
「はあ」
「家に持って帰りたいんだよね」
「お土産か」
「そう」
「僕としては、万華鏡とかビー玉とかぬいぐるみにスペースを取られるよりは、宇宙を漂う時に消耗する食糧とか電池をたくさん持っていこうとして欲しいんだけど」
「何かあったとしてもどうにかなるよ」
「怖い」
「そう?」
「お土産はどれかひとつにしてください」
 結局彼女は万華鏡もビー玉もタロットカードも詩集も図鑑も、全て妥協しなかった。ファスナーは閉めずにガムテープで封をした。

 僕たちは家を出て、バスに乗って都心を目指した。不思議なことにバスには僕たち以外誰も乗車しなかった。一時間バスに揺られて都会に着くと、空腹でイライラするようになった。彼女がずっと隣の席で僕に「赤と青ってどちらが不吉だと思う?」とか「木と鉄ではどちらが今必要だと思う?」とか特に重要な問題とも思ってなさそうな質問をずっと矢継早に質問するから本当にうんざりした。それに彼女の分まで僕は荷物を持っていて疲れた。僕たちは安いご飯を探して腹ごしらえをした。彼女はジュースばっかり飲んで、僕はスパゲティを二種類食べた。僕が一生懸命食べている間、彼女はあらゆる手段で僕に嫌がらせをした。まずトマトとガーリックがマシマシのスパゲティにメロンソーダを流し込む。テーブルの下で思いっきり脛を蹴る。何度も呼出ボタンを押しては僕が不自然な注文をする。地獄だった。終始涙目になった。
 店を出た。眠気が強烈だったのでどこかに寝泊まりしたい。
 しかし僕はまだ高校生でお金も持ってないので、ホテルという選択肢は有り得ずカラオケでひとまず早朝まで時間稼ぎすることにした。

 カラオケに行くと、彼女は人数としてカウントされなかった。宇宙人って目に見えないものなのか。寝るときに邪魔かと思って、フロントに確認を取りカラオケ機器の音声をオフにした。すると他の客の歌声がいたたまれなかった。
 僕がカチカチに硬い椅子に凭れてうとうとしていると、彼女は心底つまんなさそうに僕をガン見していた。
「どうした?」
「つまらない」
「眠たくないの?」
「そういう気分じゃない」
「僕は眠たいです」
「私は眠たくない」
「困ったなあ」
「歌って」
「えっ」
「何か歌って。そしたら眠れるかも」
 僕は仕方なく、眠たくなるような歌をデンモクで探した。
 僕は恥ずかしながらテンションの高い曲しか知らない。パンクロックとか、ぽこぽこ怒っているようなポップなロックが好きで、そんな曲を歌ったらもっと疲れてしまう。
 変にムードのある曲を選びそうになって、最後の理性でやっと止める。洋楽とか歌ったら駄目だろう。僕は英語の発音が壊滅的にダサい。どうあがいてもジャック・ホワイトにはなれない。どうせ、女の子には足蹴にされるんだろう。そこにドラマティックなPVは生まれない。結局ゆらゆら帝国を歌えばいいのかと閃いて、そればっかり歌った。彼女は虚空を見つめていた。いつまで経っても寝てくれなかった。リズムがわからない曲まで歌ってしまった。僕の中では爆殺級に失敗していることなのだが、僕は極限まで眠たいし、彼女の反応が全くないので時間がただ流れていくだけだった。もしかしたら彼女は会話がしたいのかもしれない。そう思ったけれど僕は口を開いて提案してしまう。
「目をつむることから始めない?」
 彼女は無反応だった。困った。
 別に僕は彼女の機嫌を取る理由はない。すでに努力はした。それでどうにもならないことは、早めに諦めるものだろう。何しても彼女の気が済まないこともある。そこに意気消沈しても、結局彼女は変わらないだろう。僕は僕の感情があり、彼女には彼女の意思がある。
 僕は横たわり、上着を脱いで、身体にかけた。寝息が整いだすと、彼女は僕から上着を剥ぎ取った。
「何するんだ」
「つまらない」
「きっと何してもつまらないよ」
「そうかもね」
「僕は眠たいんだ」
「そうだろうね」
「おやすみ」
「地球最後の日だよ」
「……そうだね」
「最後くらい、面白いことしたいよ」
 そう言われても困るはずなのに、僕はすっかり納得してしまい、眠ることをやめた。面白いことと言ったらこれしかない。きっと共通するものはこれだろう。いつものナンパ。僕の場合、メルヘンチックだけど。
「よかったら、僕の作り話を聞いてくれますか」
「どうぞ」
「昔々、地球には砂漠が一箇所しかありませんでした」
「はい」
「だから砂漠は美しかったのです。人々は砂漠を求めて各地から観光しに行きました。砂漠はからからとした空気に覆われていますが、乾いた砂のずっと向こうにはずっしりとした水分を蓄えていて、砂漠で一株だけ花が根付いていました」
「それは薔薇よ」
「そうです、それは薔薇です。薔薇は、なかなか他の生き物に見つかりませんでした。それほど珍しいし、有り得ない状況に生きているのでした」
「それで」
「薔薇は今度枯れた時、この生涯を閉じようと思っていました。満開の時、折しも薔薇はなにものかに発見されました」
「それは人よ」
「そうです、それは人でした。彼は、墜落した飛行機から彷徨って砂漠のどこかに辿りついたのです。彼は薔薇を目にすることができました。彼にとってこの薔薇は最期の夢に映りました」
「そうね。意識があるうちは全部夢だもの」
「そうです、生きていることは全部、死からすれば夢なのです。彼はいつまでも薔薇を見つめました。生きている限りは、意識ある内は、薔薇を見つめることに全てを費やそうと思っていました。そもそもやることがそれくらいしかないのです」
「それで」
「その内薔薇が枯れてきました。彼は焦るようになりました。でも考えてみれば、彼にとっても命は幾ばくかなのです。リュックに入っていた食糧はもうすぐなくなるし、周りをどんなに見渡しても薔薇以外には何も見えない。薔薇と共に自分も枯れてしまえばいいと思います」
「それで」
「薔薇は……最後の力を振り絞りました。彼が寝ている隙に、用意周到に準備をしました。翌朝彼が起きると、身体中に細い蔓が巻かれていました」
「ふうん」
「蔓を解き、薔薇の元に近づくと、花がない。摘まれた跡どころか、咲いていた証もない。男は、不思議なような、悲劇を味わっているような。お腹が空いたので、リュックサック目掛けてきびすを返すと、うっかり蔓が足に絡まり、薔薇の株を引っこ抜いてしまいました」
「あら」
「薔薇の根が土から剥がされると、目にもとまらぬ速さで一気に枯れました。その一部始終を見てしまった男は、うっかり泣いてしまいました。目から水が流れるたびに、身体中のエネルギーが涙として放出されました、男はからからに干乾びていきました」
「あーあ」
「しかし、薔薇の咲いていたところから、泉が湧きました。男は命の危機を感じていたので、泉が目に入ると本能のままに次から次へと手で掬って飲み続けました」
「そして、男は助かるんだ」
「そうです、泉が枯れそうな時、ヘリコプターがやってきて、男を救助しました。生命力を獲得した男はそれから長生きします。その人生の間、やはり砂漠の薔薇を追い求めました。絵を描いたり、薔薇を育てたり、世界中を旅したり。やっぱり、あの薔薇が一番には変わりないけれど、それから出会った薔薇もそれはそれでいいものでした」
「ふうん」
「最後、年老いた男が息を引き取って、その亡骸が腐食するのですが、人が彼を発見する前に薔薇の芽があちこちに伸びていきました。今となっては彼は墓の中で骨となり眠っていますが、彼の生家も、墓さえも、蔓薔薇だらけです。それは、幸福のしるしとして、今もなお人々に好まれつづけています、おしまい」
「なかなか執念深い薔薇だね」
「そうだった? 喋ってると、何を喋って作ったのか全然把握できないんだよね」
「楽しかった」
「そうか、面白くはなかった?」
「楽しかった」
「そうか、……そうなんだ」
 僕は面白かったと言ってくれなくてショックだった。

 一睡もせずに朝を迎えた。カラオケを出て、ハンバーガー屋に入ってパンケーキとナゲットを食べる。彼女がなぜかパンケーキに興味津々だったので、食べかけをあげたら、少し齧って、全部吐いた。虹色の吐瀉物の一部を見て、宇宙を感じた。ハンバーガー屋からいつもの喫茶店に乗り換える。信号を待って横断歩道を渡ろうとすると、彼女を見失った。きょろきょろ辺りを探していると、彼女が羽交い絞めにされてワゴンに詰め込まれそうになっていた。たまらず僕は、ワゴン車に持っていたクソ重い荷物を投げつけて、見事暴漢と窓ガラスに命中させた。もう一人の暴漢に飛び蹴りをして、彼女を取り戻す。危ない、今触れそうになった。
「お前が何をしているのかわかっているのか!」
 割れたワゴン車のライトが怒った。知るか。
 暴漢は街のいたるところからとボコボコ増えてきてこちらに向かい歩きだしていく。僕らを目指して、捕まえようとしている。僕はパニックになりそうなのをぐっとこらえて、次の瞬間何をすれば打開できるかを考えた。すると、彼女が叫んだ。
「こっちに行くよ!」
 僕たちは森のある方向を目指してひたすら走った。森の中を通り抜けると、大きな池があった。ここは大きな公園だった。池の中には鯉がうようよと泳いでいた。
「ここに隠れるよ」
 そう言って彼女は池の中に飛び込んだ。僕は一瞬たじろいだ。しかし、彼女のない世界に興味はない。僕もこの世界におさらばすべく、鯉の泳ぐ池に飛び込んだ。
 身体中が水に浸かると、その瞬間僕の身体は泡になった。僕の泡と彼女の泡は混ざって、水面向かって上昇し、その経緯をパクパクした鯉が食べて飲み込んでしまった。

 僕は布団を蹴って起床した。
 ずいぶんと臨場感のある夢を見ていた。窓が開けっぱなしで、風が強い。窓の向こうはまだ真っ暗だった。かれこれ五年書き続けている小説がある。それは、いわば日記と呼べるかもしれない。でも僕は、その小説の中に生まれた女の子を心の瞳で眺めていることだけしかできない。小説の中の女の子がたまに、夢の中で登場するのは珍しいことではない。僕はそれからいつも通りに学校に行ってきた。
 しかし、この夢からパッタリと夢の中であの女の子が出てくることがなくなったし、小説の類いの文章が書けなくなっていった。小説が、次に続かない。前から日を追う毎に彼女に抱いていた詳細なイメージが欠落していくのがわかった。彼女への想像力が涸れていくのだ。考えてみたら彼女は実在しないのだ。僕の中で育てた架空の記憶がなくなったとしても、僕の人生には、進路には、これから待ち受けている大学入試には全く関係がない。僕にとって全てだと思っていたことは、実は僕を生かす為には全くの無力だったんだ。
 この頃、模試が散々だ。あの無音の状態に放り出されると、訳もわからず絶叫したくなる。気が狂いそうなくらい僕は大学受験に参ってる。この期に及んで高校という仕組みから脱落しそうになっている。なんだか、行ったこともないのに戦争に駆り出される前の戦士ってこんな感じなんだろうか。現代文の日本語が、いつも使っているはずなのに入ってこない。まあそういう問題形式だし。選択肢を選んだらつまらない文章が解答だったりする。途方に暮れて教室を出る。
 駅までの街路樹を歩く。雨がもうすぐ降るような気がする。携帯で確認すると降水確率が9割で、バスにすぐ乗れば安全だ。でも、田舎へのあの一本に間に合う自信がない。ムカつくので喫茶店に入った。

 案の定雨が降った。僕はそれから紅茶一杯で二時間過ごした。
 終盤、隣に座ってきたおばあちゃんが僕を見つめているので、首をかしげてみる。
「あんたは守護霊が強いね」
 それだけ言われて、おばあちゃんは席を立った。不気味だ。そもそも守護霊なんて、何のために僕に憑りつくのだろうか。
 書いていた小説を眺めている。池から飛び込んだ後何が起こる? 文字を読んでも何も浮かばない。僕には夢があった。それは小説を完成させることだったが、今となっては想像力がなんにも働かなくなってしまった。そもそも小説の落ちがひらめいても評価されても、実はどうでもよく他に本質があって小説はその芯を食わないのだろう。それでも。小説が書けなくなったことは僕から野望を剥いだ。僕には野望があった。小説を書く理由が。それは。今となっては実にくだらない理由だ。でもなんとなく僕は理解した。守護霊なんていない。僕には書いていた小説があるだけ。完成を挫折して、どこにも褒めてもらえないだろうし誰にも見せるつもりはない。
 バスを降りると、紋白蝶がぶんぶん飛んできて、僕の唇に止まった。驚いていたらすぐにどっか行った。

 結局僕は大学に入学できたし、小説も書けるようになったのだけどそんなことこの時確信している訳がない。わかってたまるかって話なんだ。

 あれから数年経った。僕はそれまで風俗に青春を費やしていた。もちろん大学には行った。地元の私立に通って、そこそこコンプレックスを植え付けられた。本当だったら有名大学に行きたかったけどな。でも落ちてしまったものは仕方がない。
 僕は適当な大学に行って、適当に日々を過ごして、なんとなく手持ち無沙汰だったから、大学の近くの繁華街のキャバクラに通ったのだった。そこで知り合った人妻の花江さんはエロいとか可愛いとかじゃなくて、情報通だった。ヤクザとも警察ともパイプがあって、この子が危ないとかいう情報を僕に伝えては、僕にお勉強代と題してそれはもう面白い話をたくさん教えてくれたものだった。次この株がくるとか、あの政治家は眉唾だとか。僕は花江さんの手駒になって動いた。その一環で風俗に行って花江さんの元同僚とかを助けていた。
 僕はたくさん人を助けてきた実績はあるけれどどういうわけか全然もてなかった。まあそういう僕も訳ありの風俗嬢とかにつけいる気は湧いてこないけれど、それにしてもなんで素人童貞なんだろうとふと考える時がある。クリスマスシーズンなんかは、誰とでもいいから一人暮らしの部屋に呼んで二人でケーキを分け合って食べてほっとしたいという気持ちが出てくるのだが、結局フジパンのケーキを買ってもそもそ口にして、新年までの数日間、今だけのカップルたちに苦虫を噛み潰していく。

 花江さんと待ち合わせして、ロイヤルホストで御馳走してもらう。花江さんの息子は高専の落ちこぼれ。学費を熟女キャバクラと清掃業と株で稼いでいくらしい。花江さんは面白いか面白くないかで生きている。会話の随所で笑わせにかかる。最初は愛想笑いをするのに疲れたが、長い付き合いとなっては省エネしている。
「さっちゃん、あんた彼女まだいないの」
 さっちゃんとは僕のことである。小岩敏。23歳童貞。ちなみに一浪。今度もあと一個単位を落とすとおしまいである。
「彼女ってどうしたらできるんですか。こんなに世のため人のためをやってももてない」
「なんでもてないんだろうね。たまに被害妄想が激しいからかもね」
「えぇ……僕って厄介じゃないですか。そこは認めておきたいです」
「あんたのことを悪く言うやつなんかこの世にいません。私が保証する」
「花江さんはボーイに結構嫌われてますよね。セクハラしてるんですか?」
「ざけんなよ。多分私はADHDだからだと思う」
 話が脱線して脱線して、ドリンクバーのおかわり七杯目くらいで花江さんがようやく本題を切り出した。
「あんたの話をして、どうやら付き合いたそうな女の子がいる」
「え。まじすか」
 話半分に聞いていく。人が取り持った縁は脆いからだ。でも話を聞いていると、悪い話じゃないことがわかっていく。
「その娘はとある電力会社の幹部の娘さんらしいんだけど、地味なのに骨のある子でね。私の客の原発管理者があんたを気に入っててね。あんたを会社に入れたいらしいよ」
 ああ。就活しなきゃいけなかったなあ。僕はすっかり、すっかり今の状態が永遠に続くかと思っていた。実家に帰って、コールセンターでバイトして、そのお金で風俗行って、花江さんのお金で飯を食う。でも僕は働かないといけないらしい。電力会社かあ。僕は高校の数学は全期赤点だった実績を持つ。電力のいろはのいの字も読めない僕が電力会社に入社して何になるのか。でもまあ今のようなことをすればいいのかもしれない。
「その人僕の大学にいます?」
「他の大学に通ってるよ。あんたの二個下かな」
「あーじゃあ来年就活ですね」
「まあどうせ。縁故で事務職は決定してる。あんたは? この話乗らないの」
 はいはい、乗ります、と、言えない自分がいることが不思議でならなかった。なんで?

 花江さんに奢ってもらい、ロイホを後にして、帰宅。僕は書けない小説を眺めていた。大学に入ってからすっかりインスピレーションがなくなっていた。3万字ある小説を読んでいくと、ところどころ誤字がありそれをちまちま直していく。断片的なエピソードは増えていく一方だけど、それらがわかりあえずに絶望している。かわいそうに。でも僕にはどうすることもできないぜと思って、それ以来書けない。たとえば、どっかの風俗嬢がホストに貢いだ金を返せないという時には家計簿をつけてもらって、収支を出してその分出勤してもらい、ホストへのツケは例えば愛情弁当を差し入れするといった小技を使ってチャラにするなどといったアイデアは浮かぶが、日本をぱっくり解決するといった知恵は僕にはない。がんばれば思いつきそうなのに。何度もパソコンを立ち上げて試みるも文字はひねり出されない。
 僕はおもむろに収納庫からカップ麺を選んでお湯を注ぎ、ずるずる食べた。小説を読み返してこれはもうこれでいいんじゃないかと思う。しかしどの賞に出せばいいのだろう。こんな中途半端なぶつ切りが評価されることはないだろう。っていうか。賞に出したいと言って、僕は小説家になりたい訳じゃない。この小説を終わらせることができればいいんだ。しかしどうしたらこの話は報われるのだろう。賞ではないんだきっと。
 カップ麺を食べ終わると猛烈な眠気がやってきて歯みがきもせずに寝てしまった。いつものように夢精をしていた。パンツの替えは大量にある。夢の中で僕は大気圏まで飛んで行った。風船のように意識が飛んで、僕の街を見下ろし、オゾン層の範囲内で僕は不安になっていた。そんな中でもむくむくと僕の僕はいきり立ち、いつの間にか霧散していく。今回はパンツが汚れなかった。また二度寝の夢で僕はお経の話を聞いていた。お経はすすり泣いていて、女の子の声でか細くて、お経のように聞こえるが実は呪詛で、解読するのが大変だったけどうんうんうなづいているだけで満足したのか今回はすぐに機嫌が直った。夢の終盤で僕は女の子の靄にくるまれて、ぼけーっとしていた。女の子は僕の構内に入ったり出たりして、僕はそういうの慣れっこだった。
 気が付いたら昼になってて、今日も授業をサボってしまったなあと感慨にふける。こういうのも織り込み済みで僕は大学生をやっている。一年オーバーして大体単位は揃えた。今日も今日で繁華街に行き女の子をナンパする。
 ドトールで英気を養っていると、女の子から話しかけられた。
「小岩敏さんですね」
 警察かと思ってビビる。「そうですけど」
「私のこと知ってます? 真田歩診です」
 知るかいな。「真田?」さなだむし?
「花江さんから聞いてないですか。国崎って人、私の叔父なんですけど」
「ああ! あの人ね」
「いつも女の子をつかまえてコメダ珈琲でこんこんと説教してるらしいですね」
 うわああ。そう言われると汚職に聞こえてしまう。許して。
「それ、私にもやってくれませんか」
「えっ。でも君はなんていうかその」
「はい?」
「罪業がないじゃん」
「……」
 すると真田ちゃんはニヤニヤが止まらなかった。
「確かにまあ、そうですけど」
「でしょう? 僕といてもつまんないよ」
「あなたは私を救う義務があります」
「でも。明日も明後日も先客がいるからな」
「待ちます。これ、前払いです」
 そうすると真田ちゃんは僕にビザのカードを渡した。
「これで何回もロイホ行ってください。コメダよりはおいしいでしょ」
「は? なにしてくれてんの。そういうの君が介入する問題じゃないでしょ」
「花江さんの指示です」
 それから僕と真田ちゃんは週に二回飯を食うようになった。それは……もちろん僕のお金で。

「真田ちゃんは彼氏いたことあんの」
「ありませんよ。申し訳ないです」
「なんで謝るんだろう。ストーカーにも遭ったことない?」
「ありませんよ。申し訳ないです」
「だからなんで謝るんだろう。近親相姦もない?」
「ありませんよ。申し訳ないです。だって小岩さんは罪業が好きなんでしょ?」
「それはそうだけど。何食べるの」
「私はとっくに決まってますから。茄子とベーコンのトマトソースです」
「あっそう。ここ具が多すぎて胸やけするよ。おれはツナのミートソースで」
「胸やけするんじゃないんですか?」
「ツナで胸やけしたいんだよ」
 注文した後、僕と真田ちゃんはしりとりをするのがもはや定番となっている。
「夏目漱石」
「霧島酒造」
「楳図かずお」
「押見修造」
「宇梶剛士」
「島田角栄」
「江夏豊」
「河島英五」
 ここまでやっておいてなんだけど、もう飽きた。
「ごめんなさい、やめましょう」
「なんでですか。窮屈でしたか」
「あ、飯も来たし。食べましょう」
 真田ちゃんと僕はずるずる麺をすすった。ああツナ。どろっとしたソース。おいしすぎる。
「小岩さんは彼女いますよね」
「なんでぇ? おれもてないんだよね。初めて告白されたよ」
「今までのクライアントには目もくれなかったんですね」
「いやあ。そうでもない。タイプの子とかいたけどなんもならなかった」
「小岩さんは。なんていうか、高尚な人なんだと思いますよ」
 興商な人か。なるほど。第一興商的な人なんだな。げっぷを堪えて、店を出て、本当はケーキも食べたいけど先に真田ちゃんを帰して一人でショートケーキを食べる。うめえ。いちごってどうして食べるとくらくらするんだろう。目が覚めそうだ。
 家に帰ってテレビを見て、やめる。どうも共感性を刺激しすぎてしまう。慈恵病院の慈悲なんて、受容される訳がないだろ。風呂はフランス人とか四日に一遍らしいし今日も入らなくていいだろ。寝る。

 ひたすら罵倒される夢を見た。バカ。アホ、ボケ。ブス、ハゲ、カス、ダサい。キチガイは言われなかった。何言われても心当たりがないのでうんうん頷く。わたしのこと好きだよね? うんうん。 結婚してくれるよね? うんうん。 あの、君って、4歳の息子がいるママだっけ? 違うよバカ。 じゃあ誰なんだろう。 さなだむし! ああ。真田ちゃんなのか。 違うもうバカ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 知らねえ。まあこの場をやりすごしていけばいいだろう。君が誰とか知る訳ない。だって産まれてからずっとこんな感じだもの。いつも通り夢の中でオナニーして果てて朝がきて授業をポシャった。もう僕は卒業しない!
 今日は繁華街に行く用事はない。一人で部屋でぼけーっとして、溜まってた洗濯物を畳んだり、冷蔵庫の中の腐ったやつを捨てたり、水回りで致命的なカビを漂白したりしていた。夜になり、柿の種を食いながらテレビをみているとうたたねしてしまった。風呂に四日くらい入ってないので、足がやけにベタベタするのが嫌で起きると、この短時間でニキビが数個できている。膿を出そうと思っても出ない。ますます風呂に入る気合が決まり、入ってみるけど顔に何かが当たる度に痛くてつらい。
 風呂から上がって、これはしばらく眠れんなと感じた。そういう時は書いていた小説を眺めるが、ますます眠れなくなる。ブルーライトのせいか。それとも。
 目の端でピンクと緑の靄が僕を包む。昔からよくあることなので気にしてなかったが、どうして義務的な意識が動くのだろう。何かしなければならないがそれが何かわからない。しばらくして、どうしようもなく暇が許せなくなって、カップ麺を三個食べて、市販の風邪薬を飲んで、強制的に寝た。すると、目の前で緑とピンクがないている。はあどういうことか。
 私があなたのことなんて呼んでるか知ってる? なんども呼んでるから、次呼ばれたら返事してね。びちゃ。びちゃ。 なにそれ?あられちゃん? 違うよバカ。 びちゃは、いいお父さんになるね。 え?そうかな。 絵が浮かぶもん。子どもにバカにされる未来図が。 そんなあ。 びちゃ。 なに? はっきり言ってくれないかな。 へへへ。 びちゃ、だーいすき。 そうか。そうなんだ。 ……きらい。 えぇっ。 びちゃ、どうして、不安そうなの。 それは……。 それは? なんだか胸やけがするよ……。 じゃあ吐いてよ、なんとかしてあげる。 なんとかするって何。ビニール袋探さなきゃ。 あるある。楽になって。 わかった、じゃあ、吐く。

 うええええ。ひとしきり吐くと、朝になっていて、めずらしくめざましテレビが終わってなかった。僕は何事もなかったように準備をして、あ、これは一大事。久しぶりに学校の授業を受けた。
 社会心理学の授業は、サボってるくせになかなか好きだが、行くと必ず寝てしまう。こんこんと睡魔に襲われて、首がぐらぐら動いていると、つい座席に寝そべりたくなるくらい本格的に寝たくなるが我慢する。びちゃ。びちゃ。……なにがおかしくて舌打ちするのだろう。瞼に窓の向こうからレーザーのような光が差し込み、薄目を開けたら、ありえないほど近くて熱い呼気が僕の頬を覆った。びちゃ。びちゃ。
 もしかして……キスされてる? そう思ったら急に眠気が冴えて、授業で要点が語られ、レポートの概要をメモし、チャイムが鳴った。
 頭の中の芯がぼうっとしてくらくらする。しかしそれどころではなくなった。
 僕は真田歩診と結婚するんだった。

「考えてくれていますか」
「え、何を? 就職しますよ。営業っていいながらひたすら温泉街の喫茶店でコーヒー啜ってればいいんでしょ」
「まあそれもそうですけど、大きく出ると『結婚』です」
「結婚、ねえ。僕童貞なんだよね」
「まあ私もそうですけど」
「わかんなくない? 結婚、を与えられてもさ。恋愛結婚って結局うまくいかないっていう人もいれば恋愛しないと道が開けない人もいるわけだし」
「我々はどうなんでしょうね。そもそも働いてもいないんですよね」
「真田ちゃんをエロい目で見ようと思えばそれはできるけど、別にそうする必要はなくない?」
「ちょっと何言ってるんですか。今の問題発言です」
「およよ。真田ちゃんは僕のこと好きなの?」
「さあ。どうでしょうね。これは正直な気持ちです」
「でしょ。きっと花江さんのお計らいってやつでしょ」
「でも、小岩さんに認められなかったら、ちきしょうくやしい~! って感じです」
「はっ。何それおもしろ」
「なにがですか」
「真田ちゃんに感情ってあるんだ。ずっと無表情だから事務的かと思ってた」
「小岩さん。私の秘密教えましょうか」
 真田ちゃんはフォロワー数1万のツイッターアカウントを差し出した。
「これ、私です」
「……。女子大生なのに、風俗レポやってるんだ」
「芸当は小岩さんをまねてます」
 これは、もう僕のこと好きなんだな、とありありとわかった。
「新婚旅行どこにする? 君の親の金で行くようなものだけど」
「ヨーロッパとか行く気しないですね。アジアがいい」
「真田ちゃん体格いいからアオザイとか似合いそう」
「うわ。エロい目で見てるんですね。サイテーです」
 途端、喫茶店のガラスのコップがひとりでに割れた。一気に、僕たちの空気は冷めきってしまった。
「また、誘ってください。こんどは気を付けます」
 真田ちゃんはそう言うけど、そんなこと言わなくていいのに。
「じゃあ、またね。なにかあったら連絡して」
 そう言って、違う喫茶店に向かい、ケーキを2ピース頼んで平らげた。財布を出して中身を見るとお金が足りない。頭を下げて、荷物を担保に、近くのATMで下して、手数料取られて、戻って支払う。この店には恥ずかしくてもう行けない。

 数日後。花江さんから電話があり、ロイヤルホストへ向かう。コーヒーだけ啜って話をきくと、僕が世話していた女子大生の嬢が捕まった事を知る。結婚をちらつかせて複数の客からお金をくすめていたらしい。僕は信じていることの愚かさについて考えるようになった。
「でもまあ、よくある話だよ」
「それにしても、僕の助言を悪用したのは悲しい」
「そんなことでくよくよされても困っちゃうね。大なり小なり、今までにもあったことでしょうに」
「そうなんですか? ……わからない」
「さっちゃんが気づいてないだけで、さっちゃんを利用して甘い汁吸ってんのばっかだよ。女ってそういうものだよ。私も含めてそうだよ。私なんかさっちゃんを利用していい思いしている第一人者だからね。さっちゃんは正義に酔ってるところがあるから解せないと思うけど、世の中いろんな人がいていいんだからもっと大きな目で見た方がいい」
「正義に酔ってるって……あんたがやらせたことでしょ? 僕はどうしたらいいんですかね」
「別に軌道修正する理由じゃないと思うけど。人が全て悪意を分解出来たら警察はいらない」

 コーヒーを八杯くらい飲んだら、胃が荒れて胃が荒れてどうしようもない。胃薬を買って見たけど二包のんでも複数種類飲んでも効かないのでどうしてか検索したら胃薬には分野があるらしい。そんなの初めて知った。ムカムカしながら家に帰りついた瞬間メールが着て、アルバイトに対する調査依頼がしたいらしい。僕のやっていることが悪事かどうかなんて、考えもしなかった。確かに金払いとしては嬢や花江さんのポケットマネーだしな……。
 朝目が覚めると腹がしんしんと痛くて、べろっと服をめくったらテニスボール状の痣がぼこぼこできている。唖然として栄養失調を疑い、レバーとか食べようと思った。学食でレバニラ定食を食べると、急に大学生活の刹那を感じるようになった。なんていうか、やめちゃおうかと思った。法律を学んでもたのしくない。レバーを咀嚼する度に筋肉の繊維がぴきぴきと痛む。
 大学職員から面談室に席を通されて、僕のアルバイトについて根ほり葉ほり訊かれた。僕はうまく答えたつもりだけど、事前になんでも知ってる感じだったからどうしようもなかった。金払いのいいバイトもこれで終わりか~と思って、構内の松林を抜けると、真田ちゃんがたまたま通りがかった。
「真田ちゃん。なんでここにいるの」
「小岩さん。こんにちは。図書館に用があって」
 僕は近況を話した。
「大学自体やめちゃえばいいんじゃないですかね」
「え、そうかな」
「大学は自分の敷地内を荒らされるのが困るだけで、小岩さんのやってることが間違っているとは思わないですけど。でもそういう女の人相手だと注文が際限なくてやってることが永遠に変わらないと思います。不毛な戦いだと思いますよ」
「でもこんなに実入りのいいバイトはない」
「うちで働きましょうよ」
「そんな……、すぐってわけにはいかないだろうし」
「訊いてみます。多分小岩さんなら大丈夫です」
 神様かと思った。と同時に「んなバカな!」とも思った。そんなに人生うまくいくはずがない。とはいえ窮しているからすがれるものにはすがるしかない。

 夜、電気を消しても消えなかった。水を流しても流れなかった。ウンコを放置して、3日目にして風呂に入らず、そのまま寝ることにした。すると、コツコツ音が鳴る。窓ガラスに石でも当たってるのかと思って覗いてみると、エアコンが壊れた。微妙に暑い夜を過ごしていかなければならない。
 シング……シガーソーン……。シング、シガーソーング。真夜中の二時にミュージックフェアが映っている。なんでかわからない。このテレビ、録画機能あったっけ? ぶつりと消えては、また映り。次は音量マックスでバカうるさい。
 大家が怒って、部屋に上がり込んできた。
「前々から思ってたんだけど、夜中本当にうるさい。他の住民も迷惑してるから、出てってくれない?」
 僕は家がなくなった。最初に花江さんに電話したが、つながらないので、その間真田ちゃんと喋っとこうと思って、いきさつを離したら、真田ちゃん宅に行くことになった。
「大丈夫ですか」
「いや、困ったよ。ごめんね上がりこんじゃって」
「ここは私にまかせてください」
 僕は真田ちゃん宅で温かいお茶を入れて出迎えられた。女の子の一人暮らしに転がり込んではみたものの特にやましいことをしようという気持ちは出てこない。それは、普通に、まいっているからだ。
「どんなことが起こりましたか」
「なんかね、怪奇現象? が起こっているんだよね。ラップ音に、機器の故障に……」
「昔から、女の子の気配を感じたりしませんか」
「女の子? 店の子とか? 後腐れを感じたことあんまりないけど」
「まあなんでもいいので、夢精とか頻繁に起こりますか?」
「夢精……まあ頻繁にあるけど……。それとか、朝起きたら顔が舐められたようにしっとり濡れている時もあるし、夢精してるはずなんだけど跡がないんだよね。布団汚れたりとかするはずなんだけど」
「ああ。まあとりあえず身元がここにあるのが一番です。ここはとりあえず安全なので、しばらくここにいてください」
「え、ありがとう」
「大学は辞めるからもういいですよね? ここを留置所と思ってしばらく静養してください」

 その日僕は夢を見た。
 はじめて自慰をした時のことが鮮明に思い出される。もともとずっと身体の中心がもじもじしていたのを感じている。なにかとそこに意識が向くのだ。そしていざ触ってみると、この世のすべての道理を得たような多幸感が溢れ出してくる。はじめて自慰をした時、世界が、神様がほほえんでくれたような感覚を得た。それは小学校に入って間もない時の話だ。
 生まれてはじめての記憶は、たしか風呂の場面だった。父親の股間をじっと見つめてもブツがないのが不思議だった。真っ黒な炎のような森には、どす紫の般若の顔があった。僕はそれをいつも不思議に思っていた。
 幼稚園に入ると、友達ができないことにびっくりしていた。どう頑張っても友達ができない。話しかけようと思って、いざ話しかけても僕の考えていることはみんなの考えていることの何周も先を言っていて、何一つ会話が嚙み合わなかった。そんな時、かくれんぼをして僕が隠れていい範囲内を出て恐竜の滑り台の中に隠れていると、その間中ずっと頭の中で住所と名前と電話番号を繰り返していた。名前、小岩敏。住所、福岡県……。といった具合に。
 幼稚園での一番の思い出は孔雀が開いた瞬間に立ち会ったことだ。それ以外は全然楽しくなくてつまんなくて、その一瞬だけものすごく楽しかった。
 小学校に入る前に、顔がものすごく不細工になった。それまでは均整のとれたなかなかの顔立ちだったのに、小学校に入るときに三枚目の路線になってしまい、美形への道が頓挫した。さっそくいじめられてばっかりだったが、家に帰るとテレビが点いているし、何も困らなかった。一回小便を学校の裏庭で漏らしたことがあるが、一大事はそれくらいだ。
 小学校六年くらいに初恋をした。相手はピアノの教室で一緒の女の子だったけど、年下で、なのにちゃんと意志のある子だった。僕はどういうわけかその子の前で本来の自分を発揮することができなかった。というのもその子の前だとお腹がぎゅるぎゅる鳴るのである。それが恥ずかしいなあなんだかなあと思っているうちにその子はいつの間にかいなくなっているのである。他にもお腹が鳴る以外に急に歌いだしたくなったり鼻がむずむずして鼻くそをほじりまくってあちらこちらに飛ばすしかなかったりして大変な目に遭った。
 友達もいろいろな人がいた。僕の財布を盗んだやつもいれば、僕や他のやつらを従えて、軍隊のようなものを作るやつもいれば、僕と同様いじめられているが、放課後場所を変えて会うと大人に通用するブランド品のものをくれるやつもいた。全員中学になる前にどっか行ったけど。
 中学になると、僕は変化した。いじめられっこから一転、クラスの人気者になったのである。一年生のころはぼーっとしていたけれど、二年生になって、いろいろな人を味方につけた。例えば、えんがちょと呼ばれていたやつに人権をあたえてみたり、不登校になったやつの家を放課後毎日訪れてみたり。先輩にも可愛がられて、僕のムーブメントはとどまることを知らず、結局生徒会長になった。僕は生徒会長をやってから一年間図に乗りまくっていた。そんな時、高校の推薦入試があって、僕は見事に惨敗した。それから地道に塾に通って私立の高校の特待生を勝ち取って、高校に進学した。
 高校に入ってから、小説を書くことに情熱を注いでいた。というのも、夢の中でしか会えない人がいて、その人に向けて小説をおろしていくのが唯一の生き甲斐だった。その夢の中の人は、大学受験以来、そのパンドラの箱のようなものを開けてみようと思う気にはなれなかった。大きな夢を一回見てから、一区切りがついたのか、もう一度あの頃に向き合う自信が未だもてない。花江さんと組んで女衒のブレーンみたいなことをしているのも自分に自信をつけるためというのだろうか。とにかく何かに邁進して、僕のもう一つの人生を忘れたいなと思っていた。
 僕はあの女の子について描写できないでいる。女の子が誰か特定できないからだ。あの子について掘り下げていけば自分の歪みがわかるし、もともと僕がどんな像だったのかがわかるのかもしれないが、僕は僕で満ち足りていて、卒業ができなかったり怪奇現象に悩まされていて困ったことがかなりあるほうだとは思うけれど、僕はそれでもそんなに困ってないなあと思い至るのであった。女の子について知りたいことはあるし、女の子はいつから僕のことを知っているのか、どこまで掌握可能なのか知りたいところではあるが、なすすべないのであった。

 朝起きると一一時だったので、真田ちゃんの冷蔵庫を物色した。ロールパンとヨーグルトを食べた。
 そういえば昨日は夢精の感触がなかった。だけど頬に一筋の跡があったので、しかも縦ではなくて横だから、一体何なんだろうと思った。思うようでわかっているようで何もわかっちゃいない。
 真田ちゃんは普通の女子大生といった感じで、本棚の本もハンガーにかかっている服たちも、浮ついてなくてどっしりと構えたような品が勢ぞろいしているのだが、シンクタンク周辺にどういうわけかアダルトビデオが山積している。確かに、こういう仕事、ああいうツイッターをしているからにはこういうことになるのはわかっているが真田ちゃんがアダルトビデオをブツとして持っているとカルチャーショックが大きい。
 真田ちゃんの机に、大学の参考書とかあって、一個だけ刺さっているアダルトビデオがある。「初体験をいただきます/初川杏奈」である。僕はそれを手に取ると、なんだか妙にそそるのを感じた。初日からこんなに好き勝手やっていいのかわからないけど、とりあえずパソコンに入れて再生してみた。

 冬めいてからめったに雨が降らなかった。しかし葬儀が始まるとぽつぽつ雨が降り、あっという間に地面をぐちゃぐちゃにした。
 どっぷりと肥えた僧が経を読む。口を開けば金歯が見える。木魚を叩く音がますます激しくなり、おりんが鳴る度に喪主の女が小さく驚く。おや、喪主以外には人がいない。喪主の女のうなじには茶髪がバチバチと溢れ立っているが、肌がやけに白くて粘り気がある。
 隣の座敷に布団が既に敷いてある。この後、僧と喪主の女は一発決めることになっていた。それで代済という暗黙の了解で葬儀が成立していた。
 簡略化されても経は退屈だ。僧がぽくぽく木魚を叩く後ろで、女はこっそり骨壺に手を伸ばした。僧の面前にも骨壺があるがそれとは別の骨壺だ。女は音を立てずに蓋を開け、骨のようなものをひとつ摘み、口の中に放り込む。ぼりぼりと、ラスクのような歯ごたえが聞こえる。またひとつ、もうひとつ、と次々に女は骨を食む。
 女がふと視線を上にした時、僧はとっくに読経を終えていた。
「あ、ごめんなさい」
「いや。その、その壺は何かね」
「これは、カルシウムです」
「えっ」
 僧には、女の持っている骨壺の中身がよくわからなかった。
 二人には隔たりがあった。互いが互いを全くわかっていない。それでも僧の魂胆は野性味溢れて獰猛だった。さっさとやっちまいたかった。
「まあいい。こっちに来なさい」
「はい」
 二人はふすまを左右に開けた。布団の上に、誰かいた。
「杏奈、俺だ」
 布団の上で正座をしていた男は全身真っ黒のジャージに身を包み、フードを被って雨を凌いできたようだ。ところどころ服は破れていて、頬は痩せこけていて、目の下は真っ黒だ。
 見かねた僧は「人探しですか。間違えていますよ。それに不法侵入ですし。お引き取りください」と突っぱねるが喪主の女はどこか心を射抜かれた様子で
「パパ……」
と呼んだ。畳の上には女の涙がぽたぽたと落ちていく。
 落雷により、忽ち停電した。フードの男は喪主の女を担ぎ、雨の中の山奥を駆けていった。

 僕の名前は茨城文雪。小説家志望だけどいつもオナニー前の想像力しか発揮できない。すぐに墜落して捨てる。僕は大学入試に失敗していて学歴をつけに予備校に行くけれど、あの施設の作りが嫌でいつもサボっている。サボる手段を作るのに必死だ。ドトール行ったりベローチェ行ったり。カラオケはうまくいかないし図書館の夏は空調が効いてない。
最近親からの弁当代の1000円を少しずつ浮かせて貯金している。だいぶ貯まってきたのでドーンと何かに使おうと思っている。かれこれ3ヶ月分貯まったのでなにか贅沢をしたいと思った。僕ができる贅沢を考えた。3万では立派なものは買えないし、3万もする美味しいものを食べようとは思わない。しかし3万で切実な願いを叶えることができる。それは風俗だ。僕は激安店を検索して童貞を捨てようと思った。僕は風俗で童貞を捨てることに希望を持っていた。それは数々の文豪がそうだったからではなく、単純に女の子を知るのが楽しみだった。クラスメイトにいるキラキラした女の子より、現実的である女の子のほうがしっくりくる。
 電話して予約を入れて、その日までワクワクしていた。女の子の名前は杏奈。検索してみるとブログがまず出てくる。あまり更新してないようだ。検索ワードに「初川杏奈」と薦められるので検索するとアダルトビデオに出ていたらしい。もちろんお金を払わないと見れないのでスルーしていたが、他の検索ワードに「初川杏奈 呪い ビデオ」とあった。恐ろしいというよりは、アンチがいて大変な思いをしたんだなと思って、これまたスルーした。杏奈さんの画像を見ると、凡庸な顔立ちで真っ白な丸にどかんと赤い唇が浮かんでいた。それが強烈で眉がどうとか目がどうとかはわからなかった。
 予約当日、店に行ったら杏奈さんが欠勤していた。ものすごくがっかりした。店員さんは何度も謝っていて「数日前から連絡が取れないんです」と言っていた。僕は3万円をどうしようか再度考えた。中洲を出て、清流公園でラブホを眺めながら家から持ってきた麦茶を飲んでいた。ラブホの窓が急に開いて黒ずくめの男が出てきてトランクケースが那珂川に投げ出された。窓はすぐに閉まって、どやどやっとした物音が伝わった。トランクケースが開くと、ばらばらになった女の人の体が一部閉じ込められていたことがわかった。流れる前に僕は那珂川にとびこんでトランクと中身を手にした。右手と左脚が入っていた。僕はその日から死体に話しかけられるようになった。私は杏奈、誰かに殺されちゃったあ。お願いだから助けてくれない。もう死んじゃったけど。夢枕で何度も呼び掛ける。僕はそれを小説にもできず、しばらく怯えて震えて眠れなかった。

Q それじゃあ杏奈ちゃん、自己紹介をお願いします
A 初川杏奈、19歳です
Q スリーサイズは?
A 84 60  86です
Q なんでエッチしようと思ったの?
A 彼氏が監督だからです、この作品は違う人だけど
Q 今まで何人彼氏がいた?
A いちいち覚えてないです
Q 初体験はいつ?
A 小6に酔っ払った叔父さんと車の中でしました
Q 叔父さんのことは好き?
A 今は連絡取れませんが、ああいう大人もいるんだと思います
Q 一作目からアナルやスカトロ始めちゃうんだ?
A 彼氏といつもやってるから抵抗ないです
Q 彼氏はAVに出るってわかってるの?
A 言ってません。いつかわかるでしょう
Q 早速始めちゃいますか
A さくっと終わらせましょう

 やわらかい肉。私はお肉。ピンク色でいいにおいがするエッチな物体。今からいっぱい刺激されていっぱい反応する。私はモルモット。性欲に関して敏感になっていく実験をする。どこまであなたの極限になれるの? 私どこまでもがんばる。なんでも飲み込んであげる。あなたの嫌なこと辛いこと全部出して。私が飲み込んでなくしてあげる。あなたがついた嘘は黙ってあげる。私はあなたのこと救いたいの。そう思って、セックスして、ビデオの前でして、オナニーもして、友達連れて同じことして、彼氏の友達ともして、際限ないなあ、愛とか救うとかに上限はないんだ? 私は、いつまでも飲んでばっかで、あなたはいなくなって……あなたを拡大解釈するようになった。あなたを救うのも誰か大勢を救うのも一緒だよね。本当は、本当は。本当は、あなたなんてもう要らないしいないはずなんだけど。なんで男優の背中にあの刺青を幻視するんだろうか。
 痛かった。ローションかけても痛かった。稼がないといけない。借金ばっかだから

 僕は初川杏奈の呪いのビデオを見た。なぜ呪いといわくついてるのかというと、サブリミナルがちょっと入ってるからだ。序盤のインタビューでちらっと杏奈さんが「大好き」と吹き出しついている画が挿入されているらしい。全然そそらない。ビデオを見ていて杏奈さんの内的心象が痛いほど伝わる。そこ突くとうんち出そう、とか、乳首ばっか触ってて痛いとか、ありありと伝わる。杏奈さんはしきりに「私を探してね」と言うけれど、どこに行ったら杏奈さんの死体があるかまるでわからない。清流公園でまた麦茶を飲んでいたらものっすごい異臭がした。振り返るとゴミ箱があって、空き缶を掻き分けてみたら、ビニール袋に内臓が詰まっていて、ハエがたかっていた。あと、300円のラーメンを食べていたら、ラーメンの中に手のひらくらいの骨が入っている空き皿があった。迷いながらも回収した。あと、映画のDVDを検索したら、なぜかアマゾンに初川杏奈の脳味噌が売られていた。1-clickで購入した。3万円を温存していてよかった。
 300円のラーメンを食べている時、どこからともなく輩に囲まれた。恐ろしい。だけど逃げられずひたすらスープを啜っていたら、
「骨、黙っといてくれる?」
と言われた
「ええ……もちろんですよそんなの」
「ラーメンの代、要らないから、勘弁な」
 300円で済まされない問題だけどな、と思いつつ、帰ろうとした、だけどうっかり疑問を反射的に訊いてしまった
「誰の骨ですかね?」
 空気がピリッとしたのを感じる。ヤーさんは答えた。
「ちょっと、ウチの女でして」
 もうちょっと切り込みたい。
「風俗嬢ですか?」
「まあそんなところだな。あんた、あいつを知ってんのか」
「初川杏奈」
 空気がまた一段とピリついた。
「それ黙っといてくれる?お金出すから」
「別にいいですけど、何で殺されちゃったんですか」
「俺が訊きたいわ。回収する前に死んで腹立つわ」
「そっちの都合で死んだ訳じゃないんですね」
「大体目星はついてるけどな」
「誰ですか」
「言えるかバーカ」
「初川杏奈、呪いのビデオ出してますよね」
「ああ、あれか」
「僕あのビデオに呪われてるんです」
「はあ?」
「あのビデオ見てから、初川杏奈が語りかけてるんです」
「そんなバカな」
「助けてください」
 なんやかんやで僕は初川杏奈を殺した犯人を教えてもらった。

 死にたい。死にたい。そんな時にはとっておきのおまじないがある。たっぷりのミルクをあっためてお砂糖をまぜる。それだけで明日も元気!
 いつの間にか夢と現実の区別がつかなくなっている。仕事と思ったら眠り、休みたいのにセックスしてる。人と会話にならなくて、どうしてなんだろうと思う。やがて仕事できなくなり、頼るところは唯一になる。いつものやつお願いと言ったら、あのホテルが待ち合わせになった。
 ホテルで一人待っていた。いつまで経っても来ないのでうたたねしていたら、急に電気がついた。びっくりしても、完全に起きることはなく、ぼーっとしていたら、身体を持ち上げられて、頭を掴まれ、浴槽の水につっこまれた。水責めに合い、鼻からツーンとした。鼻血が出てきて、何がなんだかわからない。鏡を見ると、私の顔は無理矢理化粧されていて、オバQみたいだった。男は、ビデオを回していた

Q 今何されてるかわかる?
A わからない。砂糖は?
Q 乳首つねって感じる?
A 感じるわけないじゃん。やめてよ
Q こういう無理矢理なの好きだったじゃん
A そうだったかな
Q はい、これ砂糖だよ

 上から砂糖をぶっかけられた。私はしあわせだった。しあわせになった瞬間、二度と私に戻れなくなった

 これが本当の「呪いのビデオ」だよ、と教えてもらった。僕は精神科病院に行った。僕がおかしくなったからではない。
「薮内先生をお願いします」
「薮内は外出しておりまして」
「いつ戻ってきますか」
「もうすぐ帰ると思いますが」
 僕は薮内を待った。いつまで経っても来ないので帰ろうとしたら、来た。
「初診ですか」
「いいえ。病気じゃないんで」
「じゃあお帰りください」
「呪いのビデオ」
「何て言った?」
「呪いのビデオ、完全版、見せてくださいよ」
「妄想ですか? やめてください」
「警察には言いません」
「は?」
「杏奈が僕に語りかけるんです、死体を回収してくれとか。私を助けてくれとか」
「幻聴ですね」
「だから、最後の死体をください。お願いします」
「死体なんか集めてもなんにもならないよ」
「あなたがアマゾンに初川杏奈の死体を出品したりしてる訳じゃないんですか」
「とりあえず薬出しとくから。お金ある? 高いかもしれないけど」
「お金ないです」
「じゃあ後日口座に振り込んでね」
 僕は病院を追い出され、言われるがままに薬局に行った。処方箋の中に、ロッカーと地図があり、その通りに向かったらロッカーに残りの死体があった。
僕はばらばらの死体を集めることに成功した。僕は死体をこれからどこに埋めようか考えながら眠ると、夢枕に初川杏奈が出てきた。
 杏奈は急いでどこどこにあるなんとか寺に向かってくれと言った。僕は起きてから寺に向かった。
 バスを乗り継いで有り金はたいて目的地に向かうと、お経が聞こえてきた。中を覗くと、半裸の女の子と、どっぷりと肥えた僧が布団を挟み込むように座っている。

 経をよみおえた僧が、身支度をして、女の子に貪りつこうとするのをスライディングで止めてみせた。
「何やってるんですか」
「こっちのセリフだよ」
「僕は……弔いにきました」
「ならそこにでもいなさい」
「この子を食い散らかすのはやめてください」
「あんたに何が言えるか」
「杏奈さんが語りかけるんです」
「はあ?」
「娘を頼むって」
 僧はすっごくへそ曲げたけど帰ってもらった。僕は杏奈の娘を見た。うわあ。杏奈そっくりだなあ。
「ありがとうパパ!」
そういって抱きついた。
 ははは。パパじゃないよ。三つ上なだけだしよ。それにパパに半裸で抱きついちゃ駄目だよ。
 それから僕は小説を書くのも忘れてばりばり働くようになりました。おしまい!

 なんていうか、アダルトビデオというよりはVシネマのような趣があると思う。その余韻に浸っている時、真田ちゃんが帰ってきたので、初川杏奈のビデオについて「見たよ」と報告したら、
「その人は私の担当なので、それ以上入り込まないでくださいね」
と言われた。釘を刺されている、と思ったけどそれ以上何もしようと思うつもりはなかった。

 真田ちゃん宅に三日過ごしてきて、なんとなく馴染んできた頃、真田ちゃんが帰ってきてこう告げた。
「花江さんが捕まったらしい」
 それを聞いて、とうとうやったのか……と感慨にふけった。花江さんはヤクザの組員を家に匿ったりしていた。資金繰りを手伝ったりもしていた。その経緯で何かやりかねんと思っていたけど、ついに捕まったか。
 街がどんどんきれいになっていく。天神ビックバンによって夜の街の豊かさの秘訣であった黒い泡がなくなっていく。
 僕は花江さんが捕まったときいて、これでもかなりショックだった。これでもとの居場所には戻れないことが確約したから。花江さんの話を聞いていると、僕が世話してきたほとんどの店が潰れたりリニューアルしたりすることがわかった。あの頃は戻ってこないんだなと感じた。
「でもあなたのやってきたことは無駄じゃないです」
と、真田ちゃん。
「あなたのやってきたことをそのままに、私の会社でやってください」
 真田ちゃん、気が付いているか。僕がうつろな瞳で君を見ていることを。三日経つと君がどんな時にどんな匂いがするのかわかってしまう。
「処女、散らしましょうか」
 ふと真田ちゃんがひとりごちた。
「なんでわかるの?」
「ムードってやつですかね」
「やってくれるの」
「赤の他人の男女が一つ屋根の下でいるなら、何か起きない訳がないと思っています」
「そういうけどなあ。僕は自信がないよ。何か起こしたら居場所を失うこともある」
「下心がないんですか」
 そう言われて、悩むけど……。
「ないと思う」
「そんなあ」
「だって真田ちゃんにムードがあるように思えないんだもん」
「そうなんだ。そう言われたらそうとしか言えないですね」
「まだわかんないんだよ。肉欲のよろこびとか。寂しいときにセックスをすれば大丈夫とか。嬢はけっこうそんな話してたけど、そこにつけこまれたら一生台無しになってしまうような気がする」
 すると真田ちゃんはぼんやりとした顔になって、
「知らないあいだに、肉欲を知っていることもありますよ……」
と言ったのがすごく引っかかった。
「真田ちゃんは、自慰とか好きな訳?」
「私は、別にそういう趣味はないですけど」
「セックスできれば僕はもう完全体なんだ、みたいな気持ちになることない? そう思っていながら童貞なんだけど……」
「結構、30歳過ぎてもそのまんまの人いっぱいいますよ。だから気にしないで。セックス、したら変わるんですかね。私は小岩さんはそのままでいいと思いますよ」
 真田ちゃんはどこか奥歯にものが挟まってそうな口ぶりでとつとつと話す。できればあのことも言いたいんだけど、と言ったような具合。僕もそれについて問い詰めるか切り上げて寝るか悩んでいる。
「小岩さん、明日考えれることは明日考えましょう。なによりあなたは少しの間自由が保証されています。半年くらいの自由を満喫しましょう」
 僕たちはそのままそれぞれ寝た。お風呂上りの真田ちゃんのいい匂いは、これが発情ポイントなのかもしれないけど、立ち上る靄を前に問答無用だった。

 また夢を見た。

 びちゃ。……びちゃ。
 なんだよ、びちゃって……。
 びんちゃん、って呼んでるの。
 びんちゃん……敏だからね……。
 ――――セックスしたいの?
 セックスしたいよ、誰のせいだよ
 だったら私を探してよ
 繁華街にいなかったらどこにいるんだよ
 甘いよ、探し方が。東京にどうしていかないの
 そういう状況にないでしょ
 やっぱり受験に合格したら世界も違ったのかなあ
 君はいつから僕のことを操作しているんだ?
 いつだっていいでしょ。そんなことより今すぐここにこないの?
 ここってどこだよ……。
 びちゃ、は、わたしのことわかってくれないから嫌い……。
 なにか、あったの?
 遅い。遅すぎる。察しが遅すぎる。気が付いた時にはもう手遅れ
 君がなにものかがまるでわからないんだよ。モデル? アイドル?
 AV女優。だからモデルでもあるしアイドルでもある。あのねえ、わたし、捕まるんだよ。高いシャブをタダでやってんのバレたんだよ。汚い親父とカラオケに行って、バイブあそこに突っ込まれながら椎名林檎を歌ったりしていると、いろんな景品をもらえるんだよ。わたしはそれが自分の生きる道だと信じて疑わなかった。だけど、びんちゃんのお嫁さんになれるなら~と思って今まで心を無にしてきたけど、それも叶わないんだね。
 君はかんたんに諦めるのか?
 さあね。生きるか死ぬかはさておき。あなたは結婚するんでしょ。どうせ逃げられないじゃないこの籠城から。牢屋にぶちこまれる私がどうやってあなたを攫っていけるのか全然わからないわ。

 僕は目の前でわんわんと泣き喚く女の子についてどうしようもできなかった。苛立ちながら話を聞いた。

 大体、僕君の名前も知らないんだよね。その状態で助けてと言われてもどうしようもないよ。
 君の頭は真田ちゃんでいっぱいなんだよね。いいよね、安心に囲まれて。
 君の名前はいったいなんなんだ
 名前すらない女の子の気持ちわかりますかぁ? 私は杏奈よ。初川杏奈。あんたの三歳年上。でももうその名前は通用しない。私は若くして落ちぶれたから。とことん行きつくとこまで行きついたから。
 その先はなにもない?
 びんちゃん次第だよ。
 おれ次第と言われても……。
 セックスしたくないの? 日々の悩み解決したくないの?
 少ない情報をふっかけて責任追及するのは好きじゃない
 わたしを悪者にするつもりなの!?
 だって君悪霊じゃん。話ならいくらでも聞くから除霊してよ

 それから僕たちはずっとこんこんと話をしていたがなかなか解決の糸口が見つからないままであった。

 もうすぐ朝だよ、びんちゃん
 わかってるよ
 真田ちゃん起きちゃうね。わたしあの子に会ったことあるよ。静かに睨むのね。わたしがそんなに悪いことしてるのかって話だよ
 人の人生呪ってることに罪悪感はないのかよ
 ないわけないじゃん。でも仕方ないの。呪うしか手段がない。真田ちゃんと結婚するならすれば。私はずっと見てるよ。
 諦めて、諦めないんだな……。
 真田ちゃん、多分、いや絶対、びんちゃんのこと好きだから……。そして何でも知ってるんだよ。あの子は見えるからね。優秀な家族のもとに生まれた人間だからなんでもお見通し。わたしのことも織り込み済みでびんちゃんに話しかけたんだと思うよ。
 うん……、僕真田ちゃんと結婚するよ。

 そう言った途端、女の子はくしゃくしゃにしおれた顔をした。

 びんちゃん。わたしに足りないものってなんなのかな。何があればびんちゃんを手に入れたと思う?
 そんなん勇気だろうがよ。いくらでもここに来るチャンスはあっただろう
 わかってない。そっちに行きたくても足元をすくわれるの。きっとみんなあんたなんかびんちゃんにたどりつくわけないってせせらわらうのね。一生懸命やっても、なんにもならなかったな。
 人のこと呪うから道がふさがるんじゃないの。いい加減やめてほしい。アパート追い出されるし
 でもそうじゃないとびんちゃんを知れなかった。……知ったところでなにもないけど
 よくわからないまま夢が覚めるんだな。なにが起こったのかわからないまま多分死んでもわからないんだろうな。
 わたしばっかり、空回りして、ほんと嫌になっちゃうな……。いつからこうなったんだろう。昔はわたしが主導権握ってて、びんちゃんが追いかけてくれたのに。
 僕としては何やってるか判明してないままだったから、すごく疲れたよ。真田ちゃんと話してるとすごく落ち着くんだ。

 真田ちゃんが起きたみたいだ。そのまま顔を洗って、歯みがきして、トーストを焼いている。

 真田ちゃん起きたよ。
 そうみたいだね
 行きなよ。安心のある所へ
 そっちはそれでいいの?
 いいわけないだろ
 だよね
 ずっと、見てるから
 いい加減、ちょっかいかけるのはやめてね。
 わかった。

 女の子はいつまでも僕をじっと見ていた。悲しみのような憎しみのような怒りのような赤黒い感情を煮詰めたまなざしで、のっぺりとそこらへんに漂っていた。僕は唾を吐いた。ここは真田ちゃん宅ではあるが。するとそこらじゅうにあった赤い靄が消えた。
「おはようございます」
 真田ちゃんが僕に声をかけた。ピーナッツバターを手に取り
「これ、賞味期限二か月前なんでよろしくお願いします」
と言った。
「僕のところ、うるさくなかった?」
「いや、特に」
「そう、ならよかった」

 以降、怪奇現象はなくなったし、夢に女の子が出てくるのもなくなった。僕と真田ちゃんはそれから何年か同棲して、そのうち僕も働くようになり、真田ちゃんも就職してから一年くらい経ったとき、僕たちは結婚した。
 結婚して間もなく、引っ越してマンションを構えた。大きなテレビも買って、ワイドショーで事件が報じられるのを見ている。それを横目にツイッターでタイムラインを追っていたら、大麻発覚によって、逮捕されたとかなんとか言っているが、ぼーっと眺めていたら見覚えのある顔が出てきた。
「容疑者・深川奈月 33歳」
 まごうことなく初川杏奈だった。初川杏奈、捕まったんだなあ、と思った。こういうまがまがしいことが他にも起こったから、結婚した快気が失せてしまうのである。それでも結婚はしたかったから籍は入れたけど、祝おうとすると怖気づく。

 新婚旅行には行った。これを新婚旅行と呼ぶのは申し訳ないが、別府に行った。とにかく温泉に入りたかった。
 僕は真田ちゃんこと、歩診の会社に入ってからというものの、簡単に言えば原発を作るにあたって地元住民を説得したり、現場の人の話をひたすら聴く係をやっていた。それ以外に仕事を任されることはなかったし、電力を供給するにおいて僕は何の知識もノウハウもない。ただ人の話を聴き、そこで出た事象を他の人に喋り、そこで起こった利害の帳尻は僕の上司や同僚がやる。毎日喫茶店でパフェを食べてそれも経費で落ちる。僕は体重が増えるのが嫌になって防風通聖散を飲むようになったけど、あんまり割のいいダイエットではないことを最近感じている。
 歩診のことを呼び捨てにするようにはしているが、本来なら真田ちゃんと呼びたいし心のなかではそう呼んでいる。だけど結婚して真田ではなくなったので、歩診と呼んでいるが、どうもしっくりこない。変換すると歩診って一発で出ないしイライラする。だけどまあ、歩診なのだ。本人を前にすると「歩診ちゃん」と呼んでしまうけど、夫婦ならではの空気感が大事なのかもしれないと思う。生涯には一度、ロマンティックなことやってみたいと思うし。歩診と呼ぶことでなにか魔法がかかるはず。家も職場の延長戦上みたいな生活だけれど、どこかで歩診を女として見る時がくるはず。そもそも、女として見るとはなんなのだろう。例えば、やれ、ヤレそうだとか、やれ、おれのことをかっこいいと思ってくれそうだとか、そういうのだと思うんだけど、すでに結婚しているし、実際に僕のこと高く評価してくれてると思う。だけどいまいちロマンティックに欠ける。それを別府の温泉でどうにかできないかなあと思っていた。
 僕は誰かの話をきいてばっかりなので給料が他の人よりは少ない。だけど人事異動もしないし出世もしない代わりに、それなりに重要な価値をもつポジションだと思う。というわけで現時点の僕の給料はしょぼい。バスで5000円くらいでいける別府がちょうどいいだろう。
 歩診は謎が多いし手がかりも少ない。はっきり言って処女だろうしそもそも恋愛に関して興味なさそうな感じの女の子である。まあ僕も童貞なんだけど。
「今日行く旅館、相部屋でよかったよね」
「うん。それでいいけど」
「歩診ちゃんは、今日何が起きるかとかわかってんの」
「え、初夜ですか」
「なんていうか。高まったりしないの」
「そういう敏さんはどうなんですか」
「僕は君の反応が怖くて何も考えられないよ」
「……なんていうか。多分うまくいきませんよ」
「うまくいかないって。どういうこと」
「多分敏さんが勃たないとか、そういう方面で頓挫すると思いますよ。でもわたしは別にそれに付き合っても構いませんよ」
「君僕より年下だよね。どうしてそんなに余裕があるの」
「実はわたし処女じゃないんです」
「え」
「処女っていうか。まあ物理的には処女なんですけど。条件としては敏さんと一緒です」
 バスの道中、歩診の生い立ちを根掘り葉掘り聞くことにした。謎が多すぎる。
「なんていうか。わたしもわからないことだらけなんですけど、悪霊がついているんですね。昔から。それは父親にも見えてて、誰かは特定できなかったんですけど、高校を卒業したあたりに妙にすっきりしたんで、霊媒師に診てもらったら生霊のもとが死んだらしいんですよね。死んで解決したんだと思ってですね」
「生霊がどんなやつかのあたりはついてたの?」
「遠い親戚で、元プロ野球選手あたりなんじゃないかなと思います。体力が牛のようでした」
「生霊って歩診ちゃんに何ができるの?」
「どこまで自覚できてるかわからないですが、セックスはできました。あとは思念が伝播するのもあるらしいです。この思念は霊か自分の意志か曖昧になるってのはよくある話だと聞いています」
「もしかして、僕も憑りつかれているのかな」
「そうだと思いますよ。周りから話を聞いていると明らかにバイタリティが過剰ですもん。もっと人は悠然を楽しむもんだと思います」
「相手って、あれだよね、初川杏奈……」
「初川杏奈、見たことあります。別件なんですけど、クラブに呼び出されて呼び出しておいて相手が来なかった時があるんですけど、その時に初川杏奈がDJやってて、くだらない音楽やってましたよ。まあクラブ自体はじめてだったし何もかも合わなくて全部ネガティブなイメージでしたが」
「なんか喋ってたりしてた? どういう人柄だった?」
「からっぽな人でした。いい意味で」
「僕のことどう思っているのかな。呪ってるのかな」
「実刑判決ですよね。刑務所にいるんでしょ。いいかげん改心しないものですかね」
「なんだ、もっと早くこの話をすればよかった」
「黙っていることでもあるんですか」
「そうじゃなくて、心のもやもやがこうしてストレートに解消できるなんて思ってなかったんだよ」
「わたしにはわかんないです。わたしのやっていることが正しいかどうかもそうですが、初川杏奈の正体もぜんぜんわかんないです。今回の旅行が新婚旅行なの、とてもいいです。私たちみたいな夫婦がここぞという節目にお金をかけたら大きく頓挫するもとだと思います。処女だったり童貞だったりするのも、まあしばらくって感じですが、ゆっくりぼちぼち行きましょう」

 僕たちは銭湯に行き、温泉たまごを食べて、街を散策したのち、ホテルでだらだらゲームをした。酒を飲んで、ご馳走を食べて、うとうとしていると、夢枕に女が立った。

 やあ。お久しぶり。わたしのこと呼んでくれた?
 刑務所の暮らしはどうだい
 退屈よ。寝るか、考えるしかない、わたしは作業がろくにできないみたい
 刑務所に入ったら邪気が取れるもんだと思ってたけど、まだ僕に憑りつくの?
 あんたの心をわたしが読めてもあんたにはわたしがわからないでしょ。だからそこら辺はわからないままよ
 悔しくない? 僕めちゃくちゃしあわせだよ
 よろしくやってりゃいいんじゃない
 あんたに青春を捧げてた日々がばかばかしいくらい、他の世界を知れて、しあわせ……
 わたしはあんたがつらいときもしあわせなときもただ眺めるしかできないから
 ひとつお願いがあるんだけど
 なに……。嫌な予感
 歩診ちゃんとセックスしたいんだけど、邪魔しないでくれる?
 セックス、やっぱりしたいんだね。そんな楽しいもんじゃないよ
 お願いします。
 歩診ちゃんとセックス、してもいいよ。いいけど、これから三つの謎をあげるよ。それを解く、完全に解決するまでは望んでないけど、解こうとしてくれるんだったら、いいよ
 ありがとう。じゃあ、今から誘ってみるよ。

 僕はその後、歩診を起こして初夜を始めた。歩診のアソコはブカブカで、その広大な土地に比べて僕の木はなさけなく小さかったけれど、悪霊だろうか? 乳首を常時攻めてくれたので、どうにかフィニッシュできた。
 息も絶え絶え、足がもつれて、うとうとまどろみ、夢枕に女が立った。

 小岩敏。ミッションを課します。まず、私の人生を知ること。そして、私の仕事を知ること。さいごに、私の居場所を知ること。

 僕は生返事をして、深く眠った。

 結婚自体は特に変化のあるものだという自覚は生まれなかった。式をなんだかんだ言って挙げてないから。それはなぜかって、結婚からしばらくして、僕の両親が次から次へと亡くなったこともあるし、式がないほうがリスクがないような気がして挙げていない。
 僕の実家は比較的田舎にあるのだが、久しぶりに帰った時、あんまり変わってなくて安心した。僕の同級生はみんなさっさと島から出てるか、地元で公務員になって管理職になっているかだった。だから再会することもなかった。喪主をして、葬式が終わると、空っぽになった実家をどうするか悩むことになった。
 裏山を散策していると、ふと池をみやると鯉が泳いでいた。一度金魚を飼っていたことはあるが、死ぬ間際に両親は鯉を飼っていたのかと驚いた。鯉に触れてみると、鯉はたちまち女の腕になり、僕を水の中に引きずり込んだ。
 僕は水の中に入ると、正座して、さっきまで聞いていたお経がリフレインした。一匹だけと思っていた鯉は内部に入ると何十匹もいて、それらが僕の股間あたりをぐるぐる、もぞもぞしていた。「つらかったでしょう……」「つらかったでしょう……」と鯉はささやくが、そんなにつらくないんだけどなあ、でもつらいのかなあ? と思っていた。
 僕はどういうわけか、葬式で疲れてちょっとうたたねをしてしまったらしい。思えば裏山は誰かの所有地になっていてもう入れない。鏡を見ると白髪が三本生えていた。
 遺物整理をしていると、大量のアルバムが出てきた。先祖代々の記録がここに残っているが、思い入れがないのでとことん捨てていった。ふと写真がアルバムから出て飛んで行ったので拾い上げると、見覚えのある顔があった。…………初川杏奈じゃん。
 杏奈はお祖父ちゃんの愛人だった。厳密にいえば、その孫とかにあたるのかもしれない。ちょっとだけ夢に出てきた様子と違う。だから僕につきまとってきたんだなと思っていた。アルバムを捲っているうち、僕のお祖父ちゃんはもらわれっ子だということが分かった。お祖父ちゃんを取り巻く関係は、近親相姦まではないけれど親戚内で完結することがわかった。初川杏奈は僕のはとこにあたるらしい。会った覚えはないけれど、おそらくひいお祖父ちゃんの葬式かなんかで蜂合わせることも可能だろう。
 裏山から帰ってくると、歩診が心配していた。
「なんか起こらなかった?」
「なんで?」
「いや、なんとなく」
「変な夢見た。あとおじいちゃんの愛人の写真を拾ったりした」
「おやまあ。大変でしたね」
「はあ。まあ。そうですよ、葬式ってやつは」
 いろいろやっているのにいまいち記憶に残らない、忙しい時間だった。僕たちは葬式を終えてから距離ができた。葬式を経て他人は他人、という意識が強まってきた。せっかく新婚旅行で初夜を迎えたのにもったいないな、と思わなくもない。

 ひとつ不思議な事件があった。
 僕が通勤しようとしている時に横断歩道を渡っていたら、車が止まらずに僕に突っ込んできた。ドン! と音がしたけど僕自身は無傷だった。その時期、なぜか車と歩行者の接触事故が多発していた。地縛霊の仕業だろう。僕は生きている。しかもその恩恵に預かる自覚はひとつもない。
 だから歩診にいうのもずいぶんあとになってしまった。
「え。そんなの早く言ってくださいよ。一応警察にも言わないといけないんですよ」
 警察案件を逃したことが社会人としての勤めに欠けるような気がして、まずいなと思い黙っていると、歩診はしみじみとこう言った。
「拾う神に祟りなしって感じですかね」
 それ以来、なんだか妻がよそよそしい感じになった。

 結婚していると、あらゆる方面で子どもを授かることを期待される。まあいつかどうにかなるだろと思っていた事柄ではあるが、こうも執拗に詮索されるものなのかと辟易していた。三年目の冬の終わり、頑張ったご褒美にと唐津旅行を企画した。子どもを作るとしたらここだなと思っていた。
 唐津旅行を企画したものの、慌ただしい中無理やり旅行に行く羽目になり、双方テンションは低かった。それでも唐津銀行や唐津バーガーやら散策したけれど、特に盛り上がる気配はない。
 そのまま旅館に入って、就寝した。僕はなかなか寝つけず、近くを散策していたら、中古のビデオ屋さんがあって、閉店セールをやっていた。僕は中に入り物色した。アダルトビデオばっかりで、知らないマイナーなものばっかりだった。それがいい。だけど僕は初川杏奈のビデオを発見してしまう。しかも前見たやつ。
「ここで見ていくかい?」
と言われて、しぶしぶ個室で見ることにした。
 改めてみると、不思議な筋書だと思う。これをドキュメンタリーと思うかフィクションだと思うかだが、初川杏奈は2015年以降から出たくらいの女優だ。ビデオでは死んで五等分になったけど、実際は生きていて刑務所にいるはず。ビデオを見返しながら検索していろいろ見て回るけど、これといった手がかりはない。大麻やってたとかはそれはそうだけど、僕の人生に絡むような出来事ってあるのだろうか?
 部屋に戻ると、妻が起きていた。
「なにしてたの」
「個室ビデオ屋行ってた」
「あるんだ、唐津に」
「もう閉店するけどね」
「すっきりしてない顔じゃないですか」
「初川杏奈のビデオがあったんだよね」
「ああ、初川杏奈出所したよね」
「え、出所したの」
 なんだ、ここに初川杏奈の事情通がいたじゃん。
「今マッサージ屋やってるらしいです」
「風俗ウォッチから足洗ったのにまだ詳しいの」
「旦那さんにまつわることはやりますよ」
「なんで初川杏奈は僕に絡むんかね」
「それはシンプルなようで細い糸みたいな問題だと思いますよ」
「は? シンプルに言ってよ」
「初恋だったんじゃないですか」
「え~、嘘だあ。初恋がこんな形で続くかね?」
「その人次第なんじゃないですか」
「歩診ちゃんは、その、嫉妬したりしないの?」
 すると歩診ちゃんは黙った。僕が冷蔵庫から水を取り出して、キャップを開けたり閉めたりしている間、ずっと考え込んでいた。
「あの、離婚しませんか」
 いきなりすぎる申し出に僕は狼狽えた。
「なんで? 僕が頼りないから?」
「私、そんなに敏さんのこと好きじゃないんですよ。他に好きな人がいるわけでもないけど、杏奈さんより敏さんのこと好きじゃないなって思いました」
「初川杏奈ってそんなに僕のこと好きなの?」
「わからないですよね、敏さんは。私は悪いことしちゃったかなと思っています。敏さんのこと確かに憧れていて、熱心な気持ちで見ていたけど、相手が悪かったのかなと思います」
 それから僕たちは離婚した。僕だけ何も見えていないようだが皆僕のことを気遣ってくれているようだ。でもそれは僕にはわからないのだが。
 それから妙に夢を見る時テンションの高いものを見るようになった気がする。

 原発事故が起こり、会社の上の体制ががらりと変わってしまったため、僕の役目がなくなり会社を首になることになった。
 自分は新しい技術に対応できないし、転職できる見込みがないし、ガラスに映るスーツ姿はダサい。死に際を見極められずに長生きしてしまうくらいなら今スパッと死んでしまいたい。
 今までと変わらずに洗濯ものをして、家事をして、掃除をして、家計簿をつけて、生活をやる。三十路を不安定の中過ごして、家事をやってるだけ頑張ってるって誰か認めてほしい。これ以上頑張れっていうのはスパルタが過ぎると思う。
 そんなことを考えながら、仕事をさぼり、いつものコンビニに行く。
 コンビニに行くとエロ本を漁るのだが、その時初川杏奈をまれに見つける時がある。復帰したのだ。復帰して、新たにAVを撮っているらしいのだ。しかも監督・脚本・撮影は初川杏奈。もともと、クリエイティブなことをしたかったらしい。
 今回は男性誌で初川杏奈が官能小説を書いている。

 長いこと時間をかけて生きてきたつもりだ。それでもまだ自分が10代だとは。その事実を直視する度にうぅっと心臓が締め付けられる。どれだけ丁寧に生きても取りこぼしがあるように、どれだけ懸命に生きていても余地が残されている。
 僕には好きな子がいる。名前は知らない。そんなことどうだっていい。まぶたを閉じれば、その子は現れる。言葉遣いが女性的だから、多分女だと思う。それ以外わからない。もしかしたら過去から来た人かもしれないし、未来からの使者かもしれない。宇宙人かもしれないし幽霊かもしれないし悪魔かもしれない、天使かもしれない。そういうのが色々と不確かな人だ。
 

 バスタオルやボクサーパンツが自分に貼りついていたのでひとつひとつ取り除く。洗濯物の内容を確認したところ、これは僕の実家の洗濯機ということがわかる。ふと女の子を見やると、状況を飲み込めていないのかきょろきょろするばかりだった。僕は彼女から洗濯物を取り除いた。
 その時、嫌な予感がした。彼女に触れそうになると、身体中の細胞が危機を感じる。なんだかこの子に触ったら僕か彼女が消えるかのような。直感的に断定できた。
 彼女と僕はすこし話をすることにした。
「大丈夫ですか」
「まあ、はい。ありがとうございます」
「恐らく、ここは僕の実家です」
「そうなんですか」
「洗濯物が僕のものです。家具の配置は、全然違うけど」

「薔薇の根が土から剥がされると、目にもとまらぬ速さで一気に枯れました。その一部始終を見てしまった男は、うっかり泣いてしまいました。目から水が流れるたびに、身体中のエネルギーが涙として放出されました、男はからからに干乾びていきました」
「あーあ」
「しかし、薔薇の咲いていたところから、泉が湧きました。男は命の危機を感じていたので、泉が目に入ると本能のままに次から次へと手で掬って飲み続けました」
「そして、男は助かるんだ」
「そうです、泉が枯れそうな時、ヘリコプターがやってきて、男を救助しました。生命力を獲得した男はそれから長生きします。その人生の間、やはり砂漠の薔薇を追い求めました。絵を描いたり、薔薇を育てたり、世界中を旅したり。やっぱり、あの薔薇が一番には変わりないけれど、それから出会った薔薇もそれはそれでいいものでした」
「ふうん」
「最後、年老いた男が息を引き取って、その亡骸が腐食するのですが、人が彼を発見する前に薔薇の芽があちこちに伸びていきました。今となっては彼は墓の中で骨となり眠っていますが、彼の生家も、墓さえも、蔓薔薇だらけです。それは、幸福のしるしとして、今もなお人々に好まれつづけています、おしまい」

 なんだこれ。僕の小説パクってるんじゃん。別に賞に出さなかったからいいけど。憤慨しそうでしないモヤモヤした気持ちを胸に、仕事に復帰するがなかなか手につかない。いいんだ、もう僕この仕事辞めるし。そう思ってなあなあにこなしていく。CADとか難しい。拡大と縮小の切り替えがわからないし、それがわからない内に僕はこの仕事を辞める。定時きっかりに仕事場を出て、外食をしに行く。
 会社がある裏通りを歩いていると、電柱やそこかしらにステッカーが貼ってある。その中にふと、テプラかなんかで小説の言葉が刻み込まれているのを見た。

「それでも僕は彼女のことが大好きだ。」「この子のために人生を貫きたい。」「でもこれから先の未来は漠然と長いようだ。」
「僕の作風は「悩んだら駄作」というポリシーがある」
「昔々、地球には砂漠が一箇所しかありませんでした」
「赤と青ってどちらが不吉だと思う?」
「生きていることは全部、死からすれば夢なのです。」
「宇宙に行くにはどうすればいいのかよくわからない。」「まずアメリカに行ったら話が早いのかもしれない」「なんといってもNASAがあるし」

 街じゅうのあちこちにテプラが貼ってあって、呆気に取られた。僕のポエジーが転用されている。僕の陰部の写真がばら撒かれているような気持ちになった。
 他にもテプラには初川杏奈の告知なども印字されていて、ユーチューブのQRコードが載っているものがあった。そうでなくても、僕はなぜかユーチューブからリコメンドされていて見ていない動画がある。その動画をクリックすると、抽象画を次々に映していく動画だった。その多くが男女がくんずほぐれつまぐわっていることを示唆するかのような絵だった。他にも夜桜だったり、チューリップだったり、血まみれの雪景色だったりをモザイクのように描いている。動画の最後には、展示会が近々開催されるみたいで、ギャラリーの場所が書いてあって、割とすぐ近場だった。東京かと思っていた。
 ということは、初川杏奈は福岡にいるのだろうか。
 横断歩道を渡ると、ティッシュが配られた。そこに初川杏奈の顔がプリントされていて、「あなたを待ってる」と印刷されていた。すぐそこを広告宣伝車が走って、初川杏奈の顔がでかでかと映し出されて大々的に宣伝している。街中初川杏奈じゃん。初川杏奈が売れすぎて、僕は怖気づいた。

 しばらくして、初川杏奈のVシネマが完成した。

 前々から死ぬなら今しかないと思っていた。
 自分は新しい技術に対応できないくらいバカだし、転職できる見込みがないし、ちんちん小さいし、服もダサい。まあ砂漠化が始まっているのに世界中の人口は増加しているし、僕ひとりくらい死んだってしかたないのかもしれない。死に際を見極められずに長生きしてしまうくらいなら今スパッと死んでしまいたい。
 今までと変わらずに洗濯ものをして、家事をして、掃除をして、家計簿をつけて、生活をやる。三十路を不安定の中過ごして、そのうえ子どもがいるのはとても恐ろしい話である。家事をやってるだけ頑張ってるって誰か認めてほしい。これ以上頑張れっていうのはスパルタが過ぎると思う。
 どうせなら楽に死にたい。手首切るのとか電車に突っ込むのとか本当に嫌だ。痛い割に確実に死ねない。理想は、ツイッターで知ったのだが、ユリの花を部屋中に敷き詰めて眠って死ぬという方法だ。ちなみに、ユリ一本だと五〇〇円くらいする。今何故か二万円しか残っていない。ギリギリ死ねないところか。金欠は不幸だ、練炭自殺も睡眠薬でのオーバードーズもできない。お縄も買えない。不幸だ。
 そんなことを考えながら、仕事をさぼり、いつものコンビニに行く。いつもの、しろーい腕に痛々しい根性焼きが残った万年アルバイトの姉ちゃんにファミチキを渡してもらう。光あれ、と思いながらコンビニを出て、ファミチキを齧り、ふらふらと歩いて帰る。もう家に着きそうだ。あの禿げた銀杏の街路樹の列が終わるところを、右に曲がれば我が家だ。家に帰ったらアニメの録画溜めを消化しよう。その時であった。
 街路樹の向こうから、ひとりのコンビニ店員が自転車でやってきた。どこかで見たことがあるような。手に何か持っている。思わず立ち止まるも、彼女はぐんぐん近づいてくる。彼女は鉄パイプを持っていて、それを僕にぶっ刺した。一瞬で思考回路がショートした。僕の意識はぶっ飛んで、脳味噌を噴いて地面に倒れ込んだ。なぜか僕の意識はその姿を見下ろしていた。後ろを振り返ると、彼女はすでに遠いところまで行ってしまった。ふと、彼女が振り返った。目が合うと、初川杏奈だとわかった。軽やかに微笑んで、向き直り、見えないところまで行ってしまった。地面には散らかった僕の死体。いろんなものが手が透き通って触れない。
 きゃぴきゃぴしたカップルが銀杏の通りを歩いてきた。僕の死体を無視して。握ってる手と手に静電気流れたりしないかな? とふと考えた。すると、カップルは急につないでいる手を放して二方向に離れた。え、何が起こったんだろ。もう一度気を取り直して手をつないで、二人は歩きだし、それから日常が再開した。今度は、通りの向こうで子どもが泣いている。転んでしまったようだ。「びぇえーん、びぇえーん」と泣いている。痛いの痛いの、飛んで行けと念じた。すると、急に子どもは真顔になり泣き止んだ。「あれ?」とでも言いたげな顔をして、母親の手につかまるとすぐに笑顔になり、歩き去って行った。なんだコレ? どうやら、命令がすべて現実になる。神は私を見捨てはしなかった。この要領で、家に帰って秘密を抹消しよう。ひとまず家に向かった。
 テレポーテーションできるかと思ったけれど、できなかったのでちゃんと歩いて家に着いた。一目散に部屋に駆け込み、ベッドへ向かった。布団を捲ると、そこにはエロ本の数々。あとパソコンのエロ画像も消していく。紙はシュレッダーにかける。その前に一枚一枚、念じることによって剥がす。すると、ある号に、初川杏奈がいた。ありきたりな顔。しかし美少女だ。どうせカラコンと目頭切開で作られた代物かもしれないけど、それでも綺麗な大きな瞳。栗色の髪の毛はふんわりと巻かれていて、肌はきめが細かくて白くてチークが映える映える。ほっそい体に嘘みたいなバスト。まぁフォトショップの合成によって作られた偽物かもしれないけど。
 やる気が途絶えて本を床に投げ捨てた。シュレッダー作業はいったん中止。テレビを点けた。アナウンサーが粛々と今日起こった殺人事件の経緯を説明した。事件現場から、テロップだらけの画面に切り替わった。そこには犯人の特徴があった。〝犯人はコンビニ店員の格好をしているが、女性とは断定できない。事件現場では自転車を漕ぎながら鉄パイプを振り回している姿がよく目撃された。〟あいつじゃん。いい加減対峙したい。僕を殺して幽霊にした時点で失敗している。復讐してやる。待ってろよエロ本の販売元、シャングリ・ラ出版!

 一念発起した僕は自身の透明度を活かし、無料で交通機関を利用し続けてやっと東京に辿り着くことができた。何度見てもため息が出る。初川杏奈の高飛車な言動の数々に。ユーチューブで検索してみたら〝かわいくなければ生きる資格なんて無い〟〝これからはかわいい子だけが生き残ってブスは死ねばいい〟とかちゃっかり言ってるし。ウィキペディアで経歴を検索してみたらお嬢様学校である聖条高校に通っていたらしい。高校入試で頑張りすぎた反動で高校三年の時に一桁学年ダブったエピソードを見て、魂が共鳴してしまった。すっかりファンになったところで、目的のシャングリ・ラ出版を探すことにした。今は朝の七時くらいか。肉体はなくとも、朝はすがすがしいものだ。
 シャングリ・ラ出版は風前のともし火状態で、大変な経営難である。もともと、官能小説とか、黄色系雑誌とかそういうのしか置いていない零細出版社だ。そういうわけで、たぶん建物が非常に小さい。グーグルで検索しても、マップが出てこない。シャングリ・ラ出版はイメージ的になんとなく新宿の歌舞伎町にありそうな気がしていたので、とりあえず新宿駅までなんとか来た。もし僕が幽霊でなかったらありとあらゆる人にぶつかっては謝り倒し、舌が回らなかっただろう。いかにもその筋であろう方が一斉に押し寄せた時は胆が冷えたが、そこは「僕は死んだのだ!」と思いだした。とにかくすごく迷った。あんな駅意味がわからない。そう憤りながら歌舞伎町一番街を歩いていた時だった。
「キャ―――――ッ!」
「通り魔だ! 逃げろ!」
 まさか、と思った。しかし奴は来たのだ! 自転車鉄パイプ根性焼きが! 僕は感動していた。やっと会えた、初川杏奈……。
 彼女は鉄パイプの指す方向にいたブスを仕留めようとしていたが、ふと僕の顔を見た。ニヤリ、と一たび笑うと。すぐに鉄パイプを捨て、自転車をものすごいサイクルで漕ぎ出した。気味の悪い笑みを浮かべてはいたけれど、嬉しかった。幽霊の僕を見つけてくれた人間なんて一人もいなかったから。しかし、逃がすわけにはいかない。心を静める。そして、こう念じる。〝バイクのように早く飛べ!〟僕の意識は一気に加速して飛んで行った。
初川杏奈は右に左に曲がりくねって行った。「人間か?」と疑いたくなるくらい自転車は早かった。しかし幽霊で最強な僕は負けなかった。初川杏奈は途中で自転車を捨て、また右に左に駆けまわり、ついにとあるビルに入った。ビル案内図を見ると、なんと四階にシャングリ・ラ出版があるじゃない……。僕は来るべくしてここにたどり着き、会うべくして会ったのであったと思わずにいられなかった。
 エレベーターに乗り、四階に着く。〝シャングリ・ラ出版〟と書かれたドアを開けて入る。するとそこは廃墟と化していた。でも、ギラギラとした廃墟だった。天井には壊れたミラーボール。配線が剥き出しのカラオケ機器。何であるんだこんなもん。さすがエロ本出版社と思ったのは、デスクの上には空気人形とか卑猥物猥褻物がたくさん陳列されていて、壁や窓はグラビアのポスターで埋め尽くされていたところだ。そのため部屋は真っ昼間だというのに薄暗かった。奥に進むにつれ、他社のものも含めた大量のエロ本でいっぱいでぜんぜん進めない。
息が苦しい。埃まみれだ。しかし僕は死んでいたのだった。埃なんてこんなもん平気だ。とにかく、初川杏奈。どこなの? どこなの?
「おいカス」
 振り返るとそこには初川杏奈がいた。栗色の髪の毛も、きめ細やかな白い肌も、華奢な体に似合わぬダイナマイトバストも、フォトショップで作られた幻想なんかじゃなかった。
「あ、え、はあ。こんちは」
「きっしょいな、死ねや」
 あら? よくきいてみると声がガラッガラ。クソババアみたい。もしかしてバストはヒアルロン酸なのか。
「初川杏奈って何者なの?」
「ただの天使❤」
 天使なんだ。だから幽霊が見えるのね。
「天使なの? それ余計萌えるなぁ。なんならさっさと僕を殺してよ」
「アンタなんか殺す価値もない」
「何でよ、杏奈ちゃんのためならこの命いくらでも差し出す差し出す」
「薄っぺらいこと言わないでよ。アンタ杏奈の何なの?」
「ファン。大ファン。」
「杏奈の情報のソース、ウィキペディアでしょ。あんたは一体杏奈の何を愛してるのよ。共感とか同情とか、ほんとやめてよね、あんなの全部ウソだから」
 事務所の戦略? どこからどこまで? またもや大人の事情が露わに。その上非歓迎的なムードは僕のテンションを急速に冷ます。必死になって追っかけてきたことが間違いだったように思える。
「ほーら、冷めてきたでしょ。アンタにとって、初川杏奈ってそんな程度のモンよ」
「うっさいなー。っていうか、何で僕に付きまとうの?」
「カスだったから」
「なんでカスを生かすの?」
「カスなんて放射線廃棄物より害悪だよ」
「カスの何が悪いの」
「ん~~。自覚と努力がないし」
「僕も?」
「そうだよ。薄っぺらいくせにメサコンこじらせて死ねばいい」
 なんだそれ。でも納得してしまった。
「人間増やし過ぎちゃったから、これから人間も自然淘汰の時代なのよね。殺そうかと思ったけどアンタには死なれると困る。何故なら私の運命が狂ってしまうから」
「えっ、僕初川杏奈と結ばれるの」
「ただし、アンタが転職したらね」
「転職……」
「まずは何にも考えずにサイト登録しなさい。そして先入観捨ててコラムまでちゃんと読みなさい。片っ端から面接受けて自分に磨きをかけなさい」
「は、はあ」
「期限は2年後まで。それまでせいぜい頑張りな。じゃ」
初川杏奈、もとい天使は手を振った。腕には黒い点々があった。なんだろうな、と思っていると急激に怠くなって、体が痛み始めて、溺れたみたいに息苦しくなってきた。その時、今まで寝ていたことに気付いた。気がついたら昼の二時だった。僕はベッドに横たわっていた。手元には大量の錠剤がばらまかれていた。瓶が足元にあった。ラベルには「ベンザブロック」と書いてある。全く記憶にない。生きている、と気がついた瞬間、ベッドの上の布団を剥いだ。
 残骸を見るに、昨日帰宅した後、常備薬である某黄色の風邪薬をオーバードーズして今まで二日間も昏睡していたらしい。全然覚えていない。もう少しで入院するところだったらしい。どっぷり寝ていたので、会社からこってり怒られた。
 それから一年みっちり転職活動した。エロ本は思い切って捨てた。今頃土手あたりでアホな小学生が鼻水垂らしながらそいつを見ていることを願う。見事そこそこいい感じの会社に受かった。
 会社にも慣れてきた二年目の春。飲食店で、いつものように、馬車車のように働いていた。すると、いつものように客がやってきた。でっかいサングラスのわりとでっかい女。
「いらっしゃいませー。店内で食べられますかそれとも」
「店内で食べます」
「注文はお決まりでしょうか?」
「じゃあこれ」
「かしこまりました。少々お待ちください。」
 なんだか無愛想で気に食わないけれどもこれは仕事。鉄の笑顔を崩さない、絶やさない。
「お待たせしました。ベーコンレタスチーズバーガーとコーラとポテトのセットですねー。」
「あっつ。」
 そう言って、客が悠長にサングラスを外した。いや、その前に受け取ってくれよ、こっちは忙しいんだよ……。そう思ったが客の腕を見て衝撃を受けた。こ、根性焼きだ……。思わずそれから顔の方に目が行った。するとなんていうことか、初川杏奈がいた。
「あっ……」
驚いて何も言えない。茫然としていた。すると、
「あっ、店員さん。どっかで会いましたっけ?」
なんて言われちゃった。だから言ってやった。
「ええ、夢の中で!」
 それから主人公と初川杏奈は、ハンバーガーショップの店内を闊歩しながら、ひたすら立ちバックをするのでした。それを無視しながら、客はフライポテトをむしゃむしゃ食べるのでした。

 
 またも呆気にとられた。初川杏奈に僕はこうしろ? とでも言いたいのかと思った。転職活動をして、ギャラリーに足を運べ的な。まあ転職活動はしてるけど。
 初川杏奈のもくろみがわからない。ただこうなってほしいな、という将来を描いただけかもしれないし、ここまでやってくださいね、という指南なのかもしれない。どちらにせよ、転職活動はしないといけないので頑張るが……。

 転職活動をした結果、ひとまずコールセンターでフリーターとして働くことになった。事業所が狭くてイライラする。弁当を食べる時孤独ながらもフラストレーションが増しそう。しばらくは貯金を食いつぶしてぼちぼちやってくか、って時に初川杏奈の個展が始まった。行くかどうか迷ったけど、僕の意思で決めていいなら行くに決まってる。くんずほぐれつの絵を何枚も見て、価格は全部4万以下と安かった。あんだけプロポーションやってるんだからお金ないだろうに。
 画集を買って、サイン会に臨む。初川杏奈と初めて喋る。何喋ろう。何から訊けばいいんだろう。
 僕に憑りついてますよね? 何で僕を選んだんですか? どうしていまだにつきまとうんですか? ――――いかんいかん。こんなことを訊いたら気がくるっているのがバレる。
「次の方どうぞ~」
 僕は意を決して、ブースに踏み込んだ。

「どうぞ、ご購入ありがとうございます」
「あの、小岩敏と申します」
 念のため、自己紹介の挨拶をしておいた。
「ああ。どうも」
 ああどうもってなんだ。ああどうもって。
「あの~。僕のこと知ってますか」
「知ってるって、何を?」
 すっとぼけやがって。毎晩搾取してんだろおれを。
「えーと……遠い親戚なんですけど……」
「ああ。そういうの省いて生きてるんで」
 なんだと。こっちはお前に左右されながら生きているのになんていう対応なんだ。でも反論のしようがない。確証ないんだもんこっちだって。むこうがこっちに何か思っているなんてことは。ましてや夢精した精子をかすめ取るなんてことは。しかも根拠が幽霊になるとは。
「もうお時間よろしいですか?」
「あ、はい、わかりました……」
「次回からちゃんと話すこと用意してきてくださいね」
 そう言われて、次回の個展のパンフレットを貰った。次は神戸、松本、新宿らしい。

 すっかり落胆して帰路に就いた。
 道のりは遠い。僕のミステリーの謎を解くまでは。

 私の名前は初川杏奈。本名は深川奈月。スリーサイズは81、64、 89。初恋は親戚のおじちゃんだったけど、それからずっとそのおじさんの息子のことが好き。おじさんが私に教えたように、私もおじさんの息子にちょっとした魔法をかけてあげた。そしたらその日以来息子は私にメロメロ。だったと思うんだけど、そう思っていたのは私だけかもしれない。
 おじさんは私にとっておきの魔法を教えてあげた。それはシンプルなものだ。好きな人ができたら、その人のことを念じるだけでいいんだ。そしたらなんでもしてあげられるよ、って。おじさんはなかなかにハンサムであった。私は最初おじさんに向けていろいろ試行錯誤した。何度も念じた。こっち向いてとか。私を触ってだとか。実際効果はなかった。試しに息子に念じてみた。そしたら何でもいうことを聴いた。それから、実際に目には見えなくても息子の一挙手一投足は手に取るようにわかった。幽霊で解決してもいいけど、これは第六感の力というよりは五感を総合して研ぎ澄ませた結果がこれだと思っている。
 私は処女だ。売女でいながら、AV女優でいながら処女だ。中出しとか何とか言ってるけど、あんなもん企業努力の賜物に過ぎない。今私は35だが、それでも処女だ。処女は野暮ったいから、いかに野暮ったくならないか研究している。その結果編みだされた格好は私からしたらもはやコスプレなのだ。処女であることを隠すからにはいろんな手を尽くしてきた。大麻だって吸った。全然おいしくない。けどなんかまたやっちゃうんだよね。刑務所に入ったけど、何の禁断症状も出ない。
 私は長崎の島に生まれた。母子家庭になった時ひとまず福岡に移り住んだ。福岡は良かった。何よりびんちゃんが近い。あの平野のあたりにびんちゃんがいると思うと力がみなぎる。高校を卒業すると、なんとなく上京して世渡りできないかなって時に割のいいバイトに恵まれ、その傍らシナリオライター養成講座に通った。私は享楽的な仕事とは無縁の人生を送ろうとしていたのである。
 AVは昔から好きだった。AV女優のイベントに行ったことがあるし、見ていて最も元気をもらえるタレントがAVだった。学生時代にイベントに行って、ツイッターのフォロワーさんと会って、終電逃しておごりでホテルに泊まったけど何事もなかった。
 やがてバイトをクビになり、シナリオライター講座を卒業したそのつてでAV業界に入ることにした。その際、いかに抜けるAVを作るかを考えたとき、物語あってのことだよなと思い、自分の脚本をAV監督に渡した。すると採用されて撮影することになったのだが、女優が事前に大麻で捕まってしまい、代役を探している時に私が指名されて何も抵抗できずこのような結果になってしまった。つまり、痛いことはしないからおままごとに付き合ってくれない? と言われ付き合わされたのだ。
 結局AVはそこまで売れることはなく、私も身内バレとかは気にせずに済んだのだが、それでも地方の個室ビデオ屋には私の作品があるみたいでゾッとする。
 作品解説だが、ここまで私をつぎ込んだ作品はないと思う。いろいろと設定をないまぜにしているのでわかりづらいかもしれないが、男女反転させると私とびんちゃんになる。過去も、そして未来も。

 びんちゃんのことについてだが、びんちゃんと私がホットだったのは高校3年生の頃で、その時びんちゃんは私に対して建設的な未来を設計していた。しかしびんちゃんは繊細なので大学受験を日和ってしまうが、別に失敗はしてないと思う。だけど、変なおばさんにひっかかって変な仕事をするようになったと思ったら、不気味に家柄のいい女と結婚する羽目になって、人生ってこんなにしっちゃかめっちゃかになるんだなと思った。それでも良かった。びんちゃんの人生のそばに私の目線があることがしあわせで、相手に家族がいてもしかたないやと思っていた。
 そんな時に大麻で捕まった。大麻はイケイケな監督から渡されて、持ってるだけじゃ捕まらないとやたら言っていたけど……。結局はパクられてしまった。監督は捕まらなかった。私はこのまま死ぬのは嫌だなあと思った。社会的にこのまま死ぬのかなと思った。刑務所は一日中暇だったので、一日中びんちゃんを見ていた。大麻で捕まる前、怪しげな方面とも連絡を取っていて、霊体を自由に操れるようになっていた。一日中びんちゃんを見る暮らしは、普通に働くよりそっちのほうが理想的な暮らしであった。すぐに刑務所から出てきて、母親に迎えに来てもらって、しばらく実家で暮らしていたけど、運よく仕事が舞い込んできた。
「Vシネマ撮ってみませんか」
 私は、願望をありったけ詰め込んだ。びんちゃんの馬鹿な頭をぶちかましたいなと思っていた。びんちゃんのことは馬鹿だと思っている。一個一個に本気になって、全部に責任取れなくて、結局裏切られたり断絶されたりするのだ。私だけは、まなざしを差し入れるという点においては裏切るつもりはないけど。それはびんちゃんの願った話ではないから別にうれしかないんだろうけど。
 Vシネマを撮って、私はびんちゃんに追いかけまわされたいんだと自覚した。だけどびんちゃんは馬鹿なので追いかけなくちゃと思うまできっと時間がかかるだろう。
 並行してシナリオを描いたり、ライターをやったりしていた。ある日、びんちゃんの奥さんが私を訪問したことがある。先にアポを頂いて、訪問理由のところに「取材」とあったので、ただの一介の兼業主婦に取材されることなどあるだろうか? と思いつつ承諾した。
「はじめまして。小岩歩診と申します。以前、クラブでDJやってた時にお邪魔させていただきました」
「ええと。覚えてないです。でもよろしく」
「実は会社を辞めて風俗ライターをやっているんですが、新しい名刺をまだ持ってなくて」
 それは知らなかった。そこまでの価値が風俗ライターにあるとは思えない。
「初体験のビデオについて制作秘話をお聞きしたいんですけど」
「あー、あれは初期衝動でしたね。私シナリオを勉強していたんですけど、AVが抜けるためには物語を作りこむべきだとあの頃は勘違いしていて、がっつりドラマ仕立てのビデオを作っちゃいましたね」
「あれは実体験を元に作られたんですか?」
「あれは、そうですねー、子どもの頃から温めていたアイデアを全部つぎ込みました」
「突飛な質問をしますが、初川さんにとって初恋とはどういうものですか?」
「初恋ですか……」
 それを妻から聞かれるのか……。まあ。不倫ではないから、なあ……。別に後ろめたいことないか……。
「初恋は、小さい頃に、まず親戚のおじさんを好きになったんですけど、そのころはよくわかってなくて、よくわからないままに、本当に好きになる男の子にいろいろいたずらをやったわけなんですけど、反省しなきゃいけないのはわかっているんですが、反省する次元に達してないから、なんだかモヤモヤします」
 おっと……インタビューに本音で喋ってしまった……、何か脚色しないと……。
「そうですね、なんていうか。その……。初恋は実らないままなんですが、今も初恋は続いているんですが、ただぼんやりと目の前で命の炎が点いたり消えたりするのを見て、それだけでいいのはわかっているんですけど、諦めるきっかけがこちらにはないんですよね。向こうが何をしようと。それでもいいんですけど。報われる報われないんじゃなくて、ただ単純にバカヤロー! と言いたい時があります。すみません、これ後で文章修正させてください」
「わかりました。最後に、ファンの皆さんに一言お願いします」
 それからは適当に流して終わった。終わり際、小岩歩診がこちらに向かって歩き、こう言った。
「白状します。私、実は、バイセクシャルなんです」
 そう言って颯爽とスタジオを後にした。私の鞄から見覚えのないパンティーが出てきた。まさか?

 AV時代に培ってきた人脈が花開いて、いろんな案件が飛び込むようになってきた。福岡の天神という地区に集中して広告を打てば、さすがにびんちゃんも心動くかな? という期待を少しだけ持っていただけなのに、それが実現することになった。
 前々からテプラで短歌を印刷して街のいたるところに貼りつける活動は知っていたから、それもやりつつ、広告宣伝車ででっかく広告して、ティッシュも配って……街でできることはとにかくすべて網羅したかった。
 そしてついにびんちゃんと対面したが、都合上お話らしいお話ができなかった。私の個人的な秘密はびんちゃんであっても直接語ることはない。にしても有名人って本当にめんどくさい稼業だなと思う。ストレートな表現ができないのだから。

 今日もびんちゃんは一人で眠る。今までボーナスポイントを貰い続けた人生だったがそれも終わり。ここから地道にこつこつ働く日々が始まる。
 びんちゃんが人一倍苦労して疲れ果てて、さみしい~という顔のまま風呂も入らず歯みがきもせずに就寝するのが好き。そしてそこからさらに疲弊を悪化させるのが大好き。
 がんばれ、びんちゃん。私の、びんちゃん。
 大変なのはいつだって今から。さあ、もう朝だよ。急いで支度して。間に合わないよ。

あした戦争はじまるなら
どうせ明日死ぬんだったら
何しちゃおうかな
きみを攫いに行こうかな

なにもかも捨てちゃえ
思えばこんな自分になりたくなかった
どうせはなから消えるなら
そもそも私は恋がしたかった

明日で全部なくなるなら
誰からも責められずに済む
昔からきみのこと好きだったんだ

きみのことが好き(これだけは代えがたい)
きみのことが好き(ほんとうは報われたい)
きみのことが好き(世界は変わることはない)
だっていつだって世界は終わらない
終わらないから君も手に入らない

ミサイルが届くんだったら
どうせ明日滅びるのなら
きみをホテルに閉じ込めて
メニュー片っ端から頼んでく

義務教育を耐え
資本主義を紐解き
たまにブログ更新して
今は経理やってるけど

明日で全部なくなるなら
きみだって誰でもいいだろう
昔からきみのことが好きだったんだ

きみのことが好き(これだけは絶対)
きみのことが好き(報われるとかどうでもいい)
きみのことが好き(世界は変わらないだろうが)
たとえどんなに世界が変わっても
この恋は終わることはない

赤い斑点の砂嵐
マーキングしていくうちにさまよう
君を知るための作戦が
君に呑み込まれるための仇となった
知れば知るほど
つければつけるほど
君がわからなくなっていく
きえる きえる
私のマーキング

どうして君の唇はあかいの
それは私がマーキングしてるから
どうして君の瞳は潤むの
それは私が絶望を与えているから
どうして君の声は弾むの
それは私を知らずに楽しくやってるからさ

知ってるかな
私は君の言葉を盗んでいるよ
君が知らない間に捨てたゴミを
私はひなが漁り続ける

君が捨てた言葉
マンガに書いてあった言葉
私が命を吹き込んで
再び君の口癖にする

私を見つめてごらん
おのずと文字が現れるだろう
それを見つめたとき
私はちょっとだけ何かになれた気がする
何かってなんだろう天使かな
天使だといいんだけど

私の意志はきっと天使に向かない
あまりに強欲であまりに罪悪
君の夜がまっ黒い渦の中に
混沌となって消えてくのを見て
さすがに地獄を見ずにいられない
私は次回神になる
神になってまた気持ち悪いものを
一から見続けていくことになる
それに比べたら君の仕事はいいもんだよ
かわいそうなやつに手を差し伸べたり
ここだという引き際に鞭を打つだけだろ
君みたいな部下ができたら
毎日おしりを撫で回していたい