「あたりまえ」を守らなくてはいけない時代に

元橋利恵(パリテ・キャンペーン実行委員会 大阪大学)

今のコロナ禍の中、「戦時中もこんな感じだったのだろうか」という考えが一瞬でも頭をよぎった人は少なくないのではないだろうか。私もそのような感覚をもって過ごしている。未知のウィルスに命が脅かされる感覚や、国境封鎖に近い措置、国を挙げての緊急事態が理由でそのような連想をすることもある。だが、それだけではなく、政府の対応や社会の空気に対しても感じることがある。

この国に住む私たちの命よりも何か別の大義(オリンピックであるとか国の威信とか)が優先され、生活感覚の欠けた政策が、さんざん待たされた挙句に発表されている。先日、通勤途中に昔からの友人と偶然会った。夜クラブで働いているという彼女に、風俗業従事者が補助給付から対象外とされていたことを話すと、「税金を払っていないのだから自己責任だし、それで補償を求めるなんておかしい」と言う。税金うんぬんが事実認識として誤っていることは言うまでもないが、私は、多くの人が、このコロナ禍の只中にあって自分自身を納得させる言葉として「自己責任」しか持ち得ていないということがとても悔しい。

「自己責任」だと納得させられたり、「せっかく政府が考えてくれたのだから」と、何もないよりは有難い、とでも思わないといけない空気は根強い。そのような飲み込ませられ方に、とりあえずウィルスの感染拡大を防ぎ、生活を守るという本来の目的以外の、日本独特の政治文化のようなものが混じり込んでいると感じるのは私だけだろうか。

もし休業補償を手にすることができれば、多くの人が「あたりまえ」に身を守ることができたであろう。だが実際には、緊急事態宣言が出されても、結局は大半の人は仕事に行かざるを得ない。また、人の生活に直結する仕事をしている人は、さらに悪くなった労働条件のなかでもそれを続けなければならない。大義名分で掲げられていることとは違って、危険を避けたい、大切な人の命を守りたい、助けが必要な人に応えたい、という私たちの「あたりまえ」は、むしろ実際には、ますます軽く扱われ蔑ろにされていないだろうか。

平和という言葉は、「平和ボケ」というネガティブな言葉と結びつけられ、どこか「世間知らず」とか「愚か」な自己欺瞞であるというイメージにすり替えられてきてしまっているように思う。もしくは、何か映画とかアニメの世界にのみ存在する理想やお題目的なものになってしまっている。これはもちろん、「平和」を掲げる日本国憲法の改憲を望む政治勢力が、日本の中枢を支配し続けていること、そのことによって数十年かけて社会全体から平和に対する想像力が削りに削られてきた結果であろう。

だが、そのような中でも、私たちは私たちの「あたりまえ」を守り、平和を創りだす力をもっている。たとえ補償がなされなくても、私たちは、子どもを一人にせず、ごはんを食べさせて安全な状態に置いておこうと最後まで努力しつづけるし、病人を見捨てないし、自分が感染する覚悟をもって、他者への責任を果たす。それが人間としての「あたりまえ」だからだ。社会の支配的な層にいる人が「補償を要求するなんて甘え。自己責任でやるべき」とか「怒るな」というメッセージをここぞとばかりに発してくるのは、私たちの平和を創り出す共同性に依存し、その共同性を利用することによって、私たちに状況を飲み込ませようとすることに他ならない。それを「支配」と呼ばなくて何になるのだろうか。

女性が政治から排除されてきたのは、女性が望んでこなかったからでも、参加する能力がなかったからでもない。政治が、「あたりまえ」の感覚に沿うものであることを拒否してきたためであり、少数の人々による支配のツールになってきたからだ。「あたりまえ」でいることを要求し、怒り、つながりの中で生きることを恐れない女性たちは、その政治を脅かすゆえに、恐れられ、排除されてきたのではないか。

パリテとは、単に性別によって数を均等に合わせたいということではない。私にとってそれは、新しい政治を構想することであり、理不尽な支配構造を壊すことであり、そして、平和を創造することだ。私たちはもっとプライドを持っていい。一緒に私たちの「あたりまえ」を守ろう。

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