女性参政権の暗い影

髙谷幸(東京大学教員)

今年は、女性参政権行使から75年にあたるという。1946年4月10日、女性たちは初めて投票し、また国会議員に選ばれた。

しかし当時、まだ日本国籍を有しながらこの選挙に投票できなかった人たちがいた。朝鮮半島や台湾など旧植民地出身者たちだ (※1)。前年の12月に成立した改正衆議院議員選挙法は、女性参政権を認めると同時に、戸籍法の適用を受けない人びとの参政権を停止させた。これによって、朝鮮半島や台湾出身の男性たちは、それ以前には認められていた参政権を奪われることになった (※2)。同時に、朝鮮や台湾ルーツの女性たちは、女性参政権付与という「民主化」の裏で、参政権を認められなかった。

この事実は、日本の女性参政権の歴史に暗い影を落としているように思う。
あたかも民族的マイノリティ男性の権利との「交換」であるかのように、日本女性の参政権が認められたということ。この社会に暮らす女性たちのあいだで、戸籍にもとづく権利の分断がなされたということ。インターセクショナリティという視点は、この歴史の影を浮かび上がらせる。

一般に、参政権という政治的権利の拡大は民主主義の拡張を示すものとして理解されている。納税額にもとづく制限選挙から「普通」選挙へ、そして女性参政権行使へ。それは、民主主義の担い手が広がり、より公正な形に近づいてきた証というわけだ。しかし日本の参政権の歴史は、そうした一方向的な動きではなかった。

くわえてこの歴史は、民主主義の権利としての政治的権利の担い手が、戸籍という非民主的な登録制度を基盤に仕分けられたことを如実に突きつけている。しかもそれは、戦後の「民主化」改革の一環においてなのだ。

そして政治的権利からの外国籍者の排除は、現在まで続いている。

数年前、当時住んでいた西日本のある市で、フィリピン女性と一緒に、共通の友人である市議会議員の出馬決起集会に参加したことがある。そのフィリピン女性はその地にもう30年以上暮らしていた。しかし彼女には、選挙で投票する権利は認められていない。一方、その市に住んでまだ数年で、地域のことをほとんど知らなかった私にはその権利が与えられている。友人の出馬に励ましの言葉を送る彼女の言葉を横で聞きながら、憤りとやるせなさと恥のようなものが入り混じった思いがこみ上げてきたのを覚えている。
その数年後、私はその市を離れた。彼女は今もその地に暮らしているが、参政権はまだない。これほど理不尽なことがあるだろうか?

だが、希望はある。それは近年、1980年代以降に来日した移民たちからも、自分たちも自らが暮らす地域の選挙で投票したいという声を聞くようになったことだ。こうした声を聴き、ともに声をあげ、外国籍者の参政権を認めさせることによってはじめて、私は、75年前の女性参政権行使を民主主義拡張の一里塚として言祝ぐことができるだろう。

注※1 旧植民地出身者が日本国籍を奪われたのは、サンフランシスコ講和条約発効の直前の1952年4月に発せられた法務府民事局通達によってである。

注※2 「戸籍法の適用を受け」ない者というのは、「内地の戸籍法の適用を受けず、朝鮮戸籍または台湾戸籍に登録されていた者」のことである(遠藤正敬,2017,『戸籍と無戸籍』人文書院,p. 243)。なお正確には、参政権は、戸籍法の適用の有無にもとづいていたため、元「内地」出身者でも、婚姻や養子縁組等により、朝鮮戸籍や台湾戸籍に入籍していた人びとも参政権は停止あるいは認められなかった。つまり戸籍からみると、彼らは「朝鮮人」や「台湾人」となり、1952年には、旧植民地出身者と同様、日本国籍を奪われた(遠藤,前掲書,p. 246。松田利彦,1995,『戦前期の在日朝鮮人と参政権』明石書店、Ⅳ章も参照)。



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