ケアに満ちた民主主義へ――特権的な無責任を許さない

岡野八代(同志社大学大学院教員)

まず、新型コロナウイルスの感染が広がり、多くの困難に直面している方々、医療現場その他で、ケアに携わっていらっしゃる方に心より連帯の意を表したいと思います。一人ひとりの命に関わる緊急時に、目の前の、極少数者の利益や関心に沿ってのみ動いているかのような今の政治に足りないもの、それがケアではないでしょうか?

ケアとは、配慮や気遣い、他者の手を借りなければ充たすことのできないニーズを抱えるひとの、その必要を充たす実際の活動、育児や介護、看護など、わたしたちの生きるうえで欠かせない、とても多くのことを意味しています。ケアは、ケアする・されるといった、決して対等ではない関係性のなかで行われ、〈わたし〉とは異なるニーズをもつ誰かに関心をむけ、その声に耳を傾け、声にならない変化を注視し、時に〈わたし〉自身の必要を脇におき、その誰かと時を共にしながら、ニーズを充たそうとすることです。わたしたちの誰もが、かつてはこの誰かであり、今も誰もが、この誰かになる可能性があります。

ところが、わたしたちは、誰が、どんなふうにケアしているのか、してきたのかを、社会生活のなかで忘れがちです。

驚くことに政治の世界では、誰かがケアを担ってくれることをあてにしながら、その活動にも、そこに割かれる労力や時間についても、しっかりと評価することを怠ってきました。いやもっと正確に言えば、誰かがケアを担ってくれることを当然視しながら、その価値を、たとえば保育士の平均給与の低さに表れているように、他の活動よりも低く見積もり、活動のなかから見出されてくるさらなる必要や、実際のニーズの声に耳を貸さずに、独断で、想像力を働かすことなく、これくらいでやってくれと、無責任に誰かに託しているのが、今の政治です。

人間社会に欠かせないケア、生物としての人間が社会的な人間になるために欠かせないケアの重要性は、社会の中枢、すなわち、政治や経済で語られていること、それらを語る声とは異なる声があること、語られる内容も、語られ方も異なることに気づき始めたことから、見いだされました。それらの多くは、自らの経験を語る女性たちの声でした。

女性たちが、〈わたし〉の経験として、時に自らの計画、希望、必要を先延ばしにしながら、他者への責任を引き受けている、引き受けてきたことを語るなかで、わたしたちは誰もが相互に依存し、お返しもできないほど誰かに一方的にケアされ、確かにそのケアによって生かされていることが、了解され始めました。ですが、これまでの政治は、〈わたし〉の経験には冷淡でした。女こどもの話と一笑したりもしてきました。

ですが、もし民主主義の大原則が一人ひとりの声を同等なものとして尊重することにあるとするなら、〈わたし〉の声こそが反映されるべきなのではないでしょうか?ケアという活動に価値を見いだしてきたフェミニストたちは、その実践から学ばれる態度や知識のなかから、もう一度民主主義を問い返し始めました。なぜなら、声なき声に耳を傾け、必要に迫られたひとに注意を向け、そのひとに必要なものを届けよう、なにが必要ですかと気を遣い、そしてきちんと必要なものが受け止められたか確かめる責任まで果たすこと、それこそが、民主的な政治が為すこととも言えるからです。

パリテは、〈わたし〉の声を議会に届けるための一歩になるはず。〈わたし〉の経験を政治に届け、自分では労力も時間も割かず、誰かにケアを任せてきた特権的な、無責任な人たちだけが議会を構成するのをやめさせる。社会が〈わたし〉たちから成り立っていることを、議会にも反映させるために、パリテはまず実現されなければなりません。

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