短文におけるカメラワークについて

文章を書く時、わざと主語を省いたり脈略のない他者を出したりして不必要に回りくどい文章に仕上げるのにハマっている。そんなものにハマるな、とは自分でも思う。

何故自分がそうしているか、という理由を言語化したくて色々考えて、「視点の高速移動が面白いから」「少しでも長く自分の文を読んでほしいから」「文章を噛み砕く瞬間が一番気持ちいいから」等々を経て、

「カメラワークを弄るのが面白いから」

ということになった。

(僕は言語学を勉強している訳でもないので、このテーマが既に何回も語られていたり、この技法に何か名前が付いていたりというのは分からない。なので先行研究について何にも調べられない。車輪の再言及。)

例。

ツイート自体の内容としては「しょうもないことで脳の容量が食われていて、覚えておきたいことが全然覚えられない」である。寝る前にどうしても言いたくなって、言ったら0favだった。寝る前にどうしても言いたいことは、言わなくてもよいらしい。

このツイートを読む時、受け手側の脳でどういう映像の動きをするかというと

「バスを運転している筆者」

「ボードゲームが行われている客席」

「美味しい食べ物や美しい景色や面白いお話(が並んでいるバス停)」

「アナウンスする筆者」

という風に4シーンのカットが浮かぶ。

このように、文章を読んでいると脳内映像のシーンがグワングワン動かされることがあり、これが実に気持ちいい。もしかしてこういった体験はかなり面白いのではないでしょうか????!!!!!!!!!!というのが今回の主張。本当に面白いかはまだ自分の中で不確かではある。だから今言語化をして確認している。

多分この「文章カメラワーク切り替え気持ちいい論」は、舞城王太郎氏や奥山村人氏(根こそぎリンダ、の人)の文章を好んで読んでいたことに起因している。視点が高速移動させられた時、文章から振り落とされないよう必死にしがみつく。この脳内映像の切り替えを、筆者に強いられているのがとても気持ちよかった。

ちなみに、先程から映像を例えに使っているが、この技法においては映像よりも文章の方が優位(というか、得)だと思っている。瞬きしたらそこで追いつけなくなる映像とは違い、文章においてはその場での反芻が容易であるから。

そして、その優位性は短文であればあるほど強くなる。短ければ短いほど読者に反芻をさせやすい。

■自由律俳句

先日、友人が俳句投稿サイト(http://boketest.php.xdomain.jp/index.php)を開設したので、下記のお題に下記の句を投稿した。

僕は野暮なので、この句について解説する。

【数独に詰まった彼は、夜空に紙を掲げるのだが、そこで数独越しに映った月に気付く。あれだけ我が物顔で夜空に君臨する月を、間に一枚数独を挟むだけで手に入れることが出来、なおかつ不要なものとしてしまった。】

以下、この句に至るまでの経緯。

俳句短歌に限らず大喜利もそうだが、突き詰めれば「真逆の二者を同居させる」というのが1つのキモだと思っている。花に虫が寄るのは当たり前で、池で魚が泳ぐのも当たり前。僕の中のなっちゃん先生が「そんな当たり前のことは言わなくても良いんです」と言っている。(プレバトは2,3回しか見たことがないが、俳句に明るくない僕は僕の中の彼女の言葉に縋るしかない)

つまり数独の真逆は月だった、というだけである。浅い。浅いが、これがこの句の取っ掛かりだ。

ここから、先述のカメラワーク論にハマっている僕は「夜空に数独を透かす彼」「掲げている数独」「越しに見えている月」という3シーンを思いつく。思いつき、句の形にしてみる。

透かした数独に月の居場所がない

が、よくよく考えてみるとこの句は「掲げている数独」という1枚の絵で説明が付いてしまう。視点変更にはなっていない。

そこでこの時ヒィと気付いたのだが、これは「シーンチェンジ」よりも微小な技法、「ピント変更」だったのだ。なんと。これは大発見だ。文章にもピント変更があるのか。(大発見? 技法? 偉そうだな)(ピント変更? フォーカスチェンジ? 用語が分からないまま話は進みます)

【難航中の数独を掲げた瞬間、焦点はさっきまで何が入るか迷っていたあのマスにあるのだが、ふと目を滑らすと、どこのマスにも収まらない大きさで月があった。】

もし文章でピント変更まで表現出来たら凄いことだ。他人の脳内映像のシーンチェンジが出来ることに面白みを抱いていたら、なんとそのピントまで勝手に弄れてしまうのである。

しかもピント変更は、映像作品ではなく各々の「眼」でも行われていることだ。映像作品でしか経験できないシーンチェンジよりも遥かに原始的で誰もが経験したことのある光景だ。眼の再現である。文章内に読者の眼を勝手に作り、その機能までこちらが勝手に指定できる。こんな全能感は初めてだ。面白すぎる!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!



というわけで、現実世界で毎日何万回も行っているピント変更、を自由律俳句で取り上げることが出来たのが自分でも面白すぎて、どうしても言いたくなったのでnoteに筆を取った次第でございます。いかがだったでしょうか。文章にしたらそんなに面白くない気がしてきました。世の中って、文章にしたらそんなに面白くないことだらけですね。まだまだ頑張ります。



主題が終わったところで力尽きたので、後は言いたいことを箇条書きにします。

・月の形は「0」なので数独のどこにも入れられない、という意味もあったが、読者にそれだけの句だと思われると困る。ノイズだったのかもしれない。人に何かを伝えたいときはノイズを極力減らしたほうが良い。

・「月」という表現で満足してしまっていたが、僕が想像していたのは満月だったので「満月」にすべき。

・致命的なミス。数独が用紙1枚に印刷されている前提で句を作ったが、そんな数独は存在しないのでこの句自体成立しなくなってしまった。よく小学校の先生が、A4用紙に数学パズルを印刷して配ってくれたのでそのイメージが強かったのだと思う。この句における数独は、雑誌内の1ページだと成立しない。

・他の方の上位作を見たが、前後の物語や他者との関係を想像させられるようなものが多かった。僕の句は、絵としての面白さとその技法しか考えられていないため「だから何?」状態である。俳句や短歌で「だから何?」と思われたら終わり。精進します。

・「文章シーンチェンジ」を意識するようになってから気付いたこと。記憶のバスのツイートを例にすると、「車内から車外から車内」といったように画角も場所も変えながらシーンチェンジをさせたら、より気持ちよさがブーストされた、ような気がする。これも不確かです。僕は、僕の考えていることに対して懐疑的すぎる。

・あとこのような技法に加えて「ズームイン・アウト」「フェードイン・アウト」「パン」といった技法も文章においてあるはずで、勿論既に使用もされているのだろう。意識して出会いたいし、意識して書けたら楽しいと思う。

・この歳になってまだ日本語でウキウキしているの得だな。

・面白いことに、僕は大喜利においてこの手法を意識したことがない。多分大喜利では「スっと入りやすさ」が重視されるからだと思う。

・媒体による違い
【ツイート】
読者:反芻しない 筆者:全員に理解されなくてよい
→難解でもよい
【俳句・短歌】
読者:反芻する 筆者:全員に理解されたい
→難解でもよい
【大喜利】
読者:反芻しない 筆者:全員に理解されたい
→難解ではいけない

・もうひとつ上の視点で考えると、ツイッターはPush型情報なので面白い。僕が140字に4シーン詰め込むと、フォロワーは強制的に僕が作った4シーンに付き合わされる。一方で読み飛ばして1シーンすら覗かない人もいるがそれはそれで面白い。

・ここまでPullして頂いて本当に有難うございます。

・ピント変更という言葉を使ったが、同じ紙面上だから数独も月も同じ焦点では? と今気付きました。当文章も成立しなくなりました。さようなら。

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