ルーチンという営みに対する違和感

せっかく大量生産・大量消費の話が出たんだ。その話をしよう。ルーチンという営みに対する違和感。

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前も書いた。ちゃんと消化出来ずにただただ消費するだけの自分に嫌気がさしたって。

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今までヨーヨーやジャグリングをやってきて、音楽に合わせて何かをする、という事に何の疑問も抱いてこなかった。新体操やフィギュアスケート、ダンスだって同じだ。僕に限らず、皆それぞれについてそういうものだという認識があると思う。

だが、冷静になって考えてみてほしい。何故音楽使って何かをするんだ?なんで音楽なんだ?

……考えを巡らせたところでなにもわからない。
こう思ってしまった瞬間、僕の足元にあったものが大きな音を立てて崩れ落ちていった。

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例えばだ、ある人が何か思い浮かんだ時、5万円のキーボードに向かって鍵盤を叩き、それをiPhoneで録音してデモテープが出来上がる。

当然だが、極極一部を除き、それは我々の演技のために作られたものではない。
それを使うのに最近なんとも言えない違和感を覚えるのだ。
曲には曲の世界がある。我々にはどうにもならない、どうする事も出来ない。その曲に込められた想いは作詞作曲者のみぞ知るところである。
自分なりに解釈して当てはめることは出来るし、それは一種の自己表現たりうるものだが、僕にはなんともしっくりこない。

さて、ここでカレーライスの例えをもらった。
市販のルゥを使っても具材の切り方、隠し味、作る人によって完成品は異なる。それはそうだ。

カレーと全く同じはずなんだ。わかっている。なのにどうしても受け入れられない。なんでだよ。

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結局のところ音楽をただただ消費するだけになっているように思えてしまって辛くなっているだけなんだろう。邦楽や洋楽、POPやROCK、日々色々生まれては埋もれていく。
使おうと思った曲について、インタビューを読む・聞くなどして理解するようには努めていたが、もうそんな気力もない。
ただただ盛り上がり曲線に合わせて当てはめていくのがつらい。その人の想いを踏みにじる様な気がしてしまって。

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こんなもんだから、僕はルーチンという営みが好きではないのかもしれない。というか性に合わないのかもしれない。

「消費されるためにそこにある」

そう割り切れてしまえば楽なんだろうが、今の僕では無理な気がする。

いつかこの呪いにも似た何かから解放される日は来るのだろうか。

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