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構造的暴力と平和 ヨハン・ガルトゥング

1.平和の対極は戦争だけではない

「平和の対極」を考えた時、大抵我々は集団同士が武器を持って、お互いに殺し合う様を思い浮かべる。

この事は古来の学者も同じであったか、ガルドゥング以前は国家などの統治機構を持つ集団同士の争い——戦争——が注目を集めていた。特に、それが最も過激な形になった場合に生み出される残酷で遠慮欠いた殺戮や略奪行為など、直接的な暴力の行使がいつ、どこで、どのような経緯の元、どのような手段で行われたのかが関心の対象であった。

このような直接的暴力の研究に対して、構造的暴力と呼ばれる非直接的な暴力行為の研究、これがガルトゥングの大きな功績であると言える。

2.構造的暴力と“暴力”

直接的、構造的というように暴力を類型的に捉えるならそもそも暴力とは一体なんなのだろうかということが問題になってくる。

これの答えとしてガルドゥングは暴力を「人間が潜在的に持つ可能性の実現の障害であり、取り除きうるにもかかわらず存続しているもの」と定義しているが、ここではより端的に“一度振るったら、受けた人の生を確実に歪めてしまう力”であると定義する。

直接的暴力はわかりやすいだろう。戦争における死や拷問がどれだけ覆しがたいものか、より身近なものでレイプ被害、ハラスメント、いじめがどれだけ人間を長期間に渡って苦しめるのかはよく話される問題である。

それに反して、構造的暴力はより複雑で誰かが誰かを傷つける、殺すといったような直接的な行為ではない。例えば、開発途上国——特に紛争のある地域——での貧困は構造的暴力が原因であることが多い。紛争は安全性が脅かし、学校などの教育施設や工場などの生産施設が機能させない。ただし、まずその紛争を作り出す為に必要な武器はどこから来ているのか考えれば、むしろ貧困を生み出しているのは兵士ではなく外国の工場である。これは直接的な暴力ではなく、間接的である。このように社会におけるはっきりとは見えない負の影響力を構造的な暴力とみなすことができる。なぜこの暴力が人の生を歪めるかは、紛争地域下における生活を見れば一目瞭然だろう。

3.賭博師

 こういう反論があるかもしれない。構造的暴力などない、自分の人生は自分で決めることができる。責任は自分で取るものであると。たとえどんな時であろうと自分は自分の責任者であれると盲目するがゆえだろうが、くたびれた債務者からは中々金銭を得られないように、たとえどんなことをしてきた人間であろうとその欠乏は責任を生まないということは理解しておくべきだろう。そしてその言葉を最も影響力のある権威者へ向けるべきだ。それら賭博者——リスクとリターンを並びたて、誰かの金や力を使ってギャンブルをするデタラメな依存者たちに。



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