見出し画像

今日のあいはら 離婚...

「長男は渡さん。俺が育てる。」

子供の頃の記憶で、親父が母親に怒声をあげていた記憶が残る。

母親からすれば、その当時から酒癖は非常に悪く、飲めばどうなるかわからない父親に、子供をやる訳にはいかなかったんだろう。

折れない親父。
どうしても早く別れたい母親。

決着は「兄弟」離れ離れ。
こうして俺は親父に。
弟は母親に引き取られた。

6歳ながらこれから親父と2人だけの生活に、ちょっとした「覚悟」を子供ながらしたのを覚えている。
「明日からママはおらん。1人でなんとか頑張ってパパと暮らすねん。」

その思いは3日で終わる。

「お前、爺さん、婆さんのところに行け。」唐突に親父が言った。
「えっーなんで?ここでパパと暮らしたい。」

「俺仕事あんねん。育てられる訳ないやん。」

6歳の俺は「じゃー引き取るなんて言うなよ。」
と理不尽な大人に憤慨した。

何がそんなに嫌だったのか。

物心ついた時からお爺ちゃんが苦手だった。

東京出身でズバズバ江戸弁で捲し立てるお爺がイヤでしょうがない。

たまに、お爺ちゃん家に来ていたが、嫌いオーラが幼年雅一から出ていたのだろう。懐かない長男より人見知りしない次男を可愛いがっていた。
そうなるとますます懐かなくなる。

可愛がってくれないその人と暮らさないといけない。
その生活を想像すると暗くなった。

今思えば子供の勝手な言い分で、お爺、お婆ちゃんにしたら子育てがようやく終わり、ゆっくり夫婦2人で暮らしたいのに、身体の弱い6歳の子供を預かるのに心の葛藤は凄くあっただろう。

今思えば、お爺ちゃんもバカ息子(親父)に振り回され続けた人生だった。

おまけに入学したばかりの小学校をすぐに転校しなければ行けない羽目に。
岸和田から芦屋へ。
それから3人での生活が始まり、週1で親父は会いにくる週末パパをしていた。

数年経って、お爺に言われたが事があった。
「お前の親父は、預かる代わりに養育費を毎月10万払う約束だったが、一回も払った事が無い。おまけに家に来たら金を借りて帰っていく。どうなってるんだ?」と。
俺言われてもしょうがない。そう言われて家の居心地が一層悪くなった。

どうしよもうない自分の息子の愚痴を孫にぶつけるしかなかったのだろう。

そして芦屋から愛知県の豊橋を経て、また岸和田に。この転々とする生活も平穏な日々は少なかった気がする。
この暮らしは高校を卒業するまで続いた。
1日でも早く家を出る。これが俺の目標だった。

高3の時に偶然「弟」と再会する。
同じ高校の一年生として入学していた。
一年間同じ車両で通学していたが、弟とわかったのは卒業3日前だった。(まるでドラマだ。)

12年振りの再会。しっかりヤンキーになっていた。
離れていても頭のレベルは一緒だったのに驚く。
弟は弟なりに大変な苦労もしていて、俺とは違う「思い」も沢山あったと聞いた。

俺も今現在結婚をして子供2人授かった。そして自分の生い立ちを振り帰って思う。

「離婚」は仕方がない事なのかも知れない。
男と女だから。

しかし「兄弟」は離れてはいけない。
どっちについても一緒がいい。

一緒ならば寂しさも少しは和らぐ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?