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今日のあいはら 御供え...

6月25日はお爺の命日。
「お花」「御供え」を仏壇に備え家族4人で手を合わせた。
亡くなって17年が経つ。

俺が28歳の時に母親替わりのお婆ちゃんが亡くなり、その二週間後にアルコール依存症のオヤジが死んだ。
この世に「會原」と名乗る血縁関係の人間は俺とお爺だけになった。
お婆ちゃんちゃんが亡くなった時、落ち込みが凄く、余りのショックでお爺もそのまま「上」にいくんじゃないか?
と思ったが「どっこい!」それから役10年生きた。
大往生の享年93歳。

家族4人で手を合わせみんなで晩御飯を食べている時、長男が「パパのお爺ちゃんってどんな人やったん?」
と何気ない質問をしてくる。
「そうやなぁ。」とそれから俺は口籠もってしまった。

全然いい思い出、いい印象が無い。いい話が出ない。

そのまま子供達にその思いをブチ撒けてもよろしく無いのは父親だからわかる。
こいつらからしたら、会った事もない、ひい爺ちゃんの印象をわざわざ悪くする必要もない。
必死でお爺との、楽しかった思い出を頭の奧から引っ張り出そうとしても、
「本当に何もなかった。」
頭の中を駆け巡るのはイヤだった事しか浮かばない。

命日にそれを喋るのは良くない。

子供達に言った言葉はねりに練って出した、「パパとはちょっと相性があわんかったかな?」
「でもパパを育ててくれたからむっちゃ感謝はしてる。」
と伝えた。

後半の部分は本当の気持ちだ。

長男は「そうか。今のパパが居るのはお爺ちゃんのお陰やな。」との感想。
「ホンマやなぁ。」と子供に返したが顔には決して出さないが「イラっ」とはした。

有り難く感謝は勿論してるんです。理解はしてるんです。

でも人間って幼少期の思いはやっぱり変わらず、そのまま亡くなるまで続いて、そして現在にいたる感じ。

28歳の時「會原」が2人になってしまった時、本能で「増やさな。」と思い結婚。そして子供を授かった。
今は自分が辛かった、子供時分を取り返すが如く、幸せな家庭を満喫している。

これも「あの日」「あの時代」「あの経験」があったからこそだ。だから「お陰」やなぁ。と思い仏壇に手を合わせた。
色々な流れを経て今がある。
子供の顔を見ていると素直にお爺ちゃん「ありがとう。」と言えた。

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