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"星のカービィ"中興の祖 熊崎信也

『星のカービィシリーズ』。今年で30周年を迎えた。今でこそ順調な足取りを見せる星のカービィだが、その30年間を平穏に過ごせた訳ではない。『星のカービィ 64』から『星のカービィ Wii』までの11年間、星のカービィの開発元であるハル研究所と任天堂は苦労していた。

そんな中、一人の男がシリーズが終わるかも知れないという危機感を持ち、今に至る道を開拓していった。

その男の名前は、熊崎 信也である。

熊崎は星のカービィに携わって21年目である。これは生みの親である桜井 政博の14年を優に超えている。経験年数が全てを左右する訳ではないが、もはや桜井が星のカービィシリーズに主立って関わることはないのだ。2008年発売の『ウルトラスーパーデラックス』で戦艦ハルバードのモデル提供などはあったが。

桜井については本人の発言などもあり注目度は高いが、熊崎はその貢献度に反して知名度がまだまだだと感じている。今回は彼について、あまり知られていない資料も用いながらこれまでの軌跡を振り返っていく。



と偉そうに言ってますが、要はそういうお話です。ノンフィクションってあるじゃないですか、あれは現実を題材にしたものであって、基本は創作です。司馬遼太郎の小説は現実ではないでしょう?でも面白いです。
熊崎氏の資料を集めて、彼はこういう人物なんじゃない?こういう因果関係があったら"面白い"よね。とやっています。



誕生~ハル研入社まで

1979年5月21日に誕生した熊崎。彼がゲームに興味を持ったのは未就学児。1985年なら6歳。9月にあの『スーパーマリオブラザーズ』が発売される。ゲームが本格的に世に出る時代だが、ゲーム雑誌はまだ出かかっている(ファミ通は1986年)時期のため、週刊誌にゲーム記事があれば見ていたのが熊崎だった。ゲームクリエイター達の姿は憧れだった。
アーケードゲームに夢中になり、白紙にペンですごろく作品、モンスター集、迷路ゲームとモノづくりに夢中だった。同時に自分の力に限界も理解し、大人達の作品を見て落胆を繰り返す。そんな時代だったと彼は振り返っている。「1日でも早く大人になりたい!」と。

熊崎は"ませて"いた。大人が作る企画書を真似てその形でゲームを描いていた。子供だから、まだゲーム作りをやり始めたばかりだからという全くもって正しい言い訳を言わず、自分に鞭を打った。

中学生時代にはスポーツ系の部活も入り、記録を伸ばすことが楽しかったとのこと。無論モノ作りも行い、学校のパソコンで数式で図形を組み合わせて絵を描いたり、雑誌の付録のコードを組んでシューティングゲームを作ったりとパソコンの力に出会った時期でもあった。

高校生時代にはコンストラクションソフト、ツクールシリーズに触れる。1995年には『RPGツクール SUPER DANTE』が登場し、家庭用ゲーム機でもツクールに触れることができるようになったのだ。ツールを手にした熊崎はデッサンやデザインを学びながら続々とゲームを生み出す。

  • 1996年:EYE

  • 1999年:天のお仕事

  • 2000年:MONSTERスクール

  • 2001年:プレイヤーズ

2000年3月15日には朝日新聞社大阪地方版にも載る。彼と工藤優のチームで生まれた『天のお仕事』が第4回アスキーエンタテインメントソフトウェアコンテストで努力賞に入賞したからだ。応募作品2525、入賞できたのは23作品。この狭き門で上位5番目の賞に輝いたのだ。『天のお仕事』で評価されたのは作りこみ度だ。ゲームを収めたメモリーカードはなんと12枚。通常は3、4枚の中、入賞作品最多の数だ。

彼はゲーム作りに夢中だったが、同時にゲームを活かすことも忘れていなかった。2001年のプレイヤーズは2作品。もう1作はスピンオフのスコア対戦型シューティングの『アウトロウプレイヤーズ』だった。1作目の告知のため世界観は同じにし、素早く生み出した次第だ。
3人の力を注ぎこんだ作品だが、純然たる営利目的ではない。告知のためゲームの出し方にも気を配るのが彼だった。

とはいえその核は変わらない。「ずっとずっと、作りたい、作る、失敗し1人打ちひしがれる、けどまた作りたいと思う。この繰り返し」はツールを手にしても、美大に通っても何も変わらなかった。

ゲーム作りをずっと目指してきた熊崎は2002年、ハル研究所に入社することになる。ハル研恒例の新人研修で彼は多くの先輩デザイナーから指導を受けるが、基本は自立問題解決型人間の道を突っ走ってもらったと講師の小林は言う。

独立独歩!ゴーイングマイウェイ!好きに生きなさい!と。

大人になりたいと考えモノ作りに励み、結果も残してきた熊崎信也。
彼にとって先輩方は眩しく見えただろうが、それは先輩方にとっても同じだったかも知れない。

2002年新人研修の熊崎

デザイナー(アーティスト)時代

2002年はハル研にとって忙しかった。アニメ版『星のカービィ』が始まり、ゲームハードが64からGCに、GBC(※ゲームボーイカラー)からGBAに変わる変化の時だった。
当時ハル研は『夢の泉デラックス』『エアライド』、そして世に出なかったもう1つのゲームキューブ版カービィのチームなどがあった。
彼が最初に参加したのは『夢の泉デラックス』のデバッグだった。通信ケーブルをつなぎ、ひたすらクリアし続けるのは楽しかったとのこと。

本格的なプロジェクト参加は『エアライド』から。熊崎は精力的に活動した。アイデアを出すのが楽しくて止まらなくなった結果、敵キャラクターを250案も出して、デザインリーダーの北健一郎を絶句させた。多くは没となったが、カーラー、ピチクリ、デイルというキャラは採用された。このうちカーラーとデイルはハル研公式サイトにあったIDEA CUBEにも登場した。FLASHのためアーカイブはないが、自分が何をしてきたのか、できる範囲で公開をしてきたのだ。

エアライド開発後記の熊崎

彼は『エアライド』終了後、GBAのカービィではないプロジェクトに関わった。ルナブレイズとバトランドだ。しかしこれは完成せず熊崎は『タッチカービィ』のチームに配属される。

濃密な"外伝"制作と盟友と

『タッチカービィ』ではステージのギミック(仕掛け)のデザイン担当として始まった熊崎。本業に携わる中、新しいカービィの世界観に奥深さがあった方がいいと考えていた。しかし、チームでは特に重要と考えておらず、熊崎は自分がやりたいといった所、ディレクターから「じゃあやりたいならやっておいて」と返された。

これまでのカービィの外伝、たとえばピンボール、ブロックボール、コロコロカービィ、エアライドに奥深い世界観は…あったとは言い難かった。例えば『エアライド』は魅力的なマシンやシティトライアルの街、秀逸なコースデザインで彩られているが、特定の世界を描いたものではない。

それが「普通」だった。ならば、『タッチカービィ』にその肉付けが企画書になくとも不思議ではない。彼は世界構築に着手した。
タッチペンでカービィを誘導するゲームなのだから絵画の国という舞台がいいだろう。その世界を作ったのは絵画をつかさどる魔女にしようと、辻褄を合わせていく。そんな中、盟友と出会った。

2003年に入社した、住友克禎(かつよし)である。彼はプログラマーであり、同じようにゲームを作りたいと考えハル研究所に入った。他のゲーム会社はまずはゲームセンターの見回りからだと言われ内定を断るくらいには、ゲームをすぐにでも作りたかった。彼も『タッチカービィ』でギミックを担当するが、その時100種類ものギミックを作る。

これにエアライドで250案のキャラクターデザインを出した熊崎は…甚く驚いた。その驚異的な速さのプログラミングもそうだが、彼が異業種であるのにも関わらず同じことを考えていることに気づいたからだ。

彼はプログラマーは安定度、繰り返し調整しやすく作れるかどうかを見る存在だと考えていた。しかし住友はプレイヤーを楽しませようと考えていた。実現には膨大なプログラミングが必要であってもそれは乗り越えるべきハードルだった。数多のゲームを生み出し、プレイヤーを楽しませようと努力してきた熊崎と同じ視点があったのだ。

彼は住友と共に『タッチカービィ』のラスボスを作り出した。
ドロシアである。ドロシアは傍流の作品であるはずの『タッチカービィ』出身でありながら今も語り草だ。彼女が初の"ソウル"だからだ。星のカービィシリーズのボス戦は一つの立派な文化であり、その一翼を担うのがソウルだ。マルクソウル、マホロアソウル、セクトニアソウル、星の夢 Soul.OS、ソウルオブニル…。今や最後のボスがソウルではなくなっているが、ボス戦を彩る存在なのは変わらずだ。

タッチカービィと共に

ウルトラスーパーデラックスという試練

『タッチカービィ』発売は2005年だ。ゲームキューブは現役だが、本編カービィシリーズは出来ていなかった。他のスタッフは開発に向かったが熊崎はローカライズの取りまとめを行っていた。それから『ウルトラスーパーデラックス』の企画が動き始める。

この時を熊崎は「しんどかった」と回想する。ウルトラスーパーデラックスは、スーパーデラックス開発経験者で固められた座組で始まった。しかし、彼は1996年にハル研究所にいる訳がない。スーパーデラックス未経験者の彼が監修を務めたのだ。慣れたボスキャラを増やし、それに合わせて元からあるストーリーを膨らませた。それはリメイクではなく、再構築に近かった。

開発経験者の殆どは自分より年上だ。住友のような気の合う仲間だけではない。いくらハル研がフラットなコミュニケーションを作れていたとしても楽な仕事とは到底言えない。しかし、ともかく彼は成し遂げた。いや、成し遂げてしまったのだ。カービィの古典とも言えるスーパーデラックスを高い完成度に付加価値も加えてDSに持ち込めたのだから。
ウルトラスーパーデラックスは世界で300万本弱出荷された。これは『星のカービィ スターアライズ』が登場するまでは初代星のカービィに次ぐ本数だった。

無念を背負う

これを生み出した後、熊崎はニンテンドー3DSの内蔵ソフトの仕事を行っていた。ここまで彼は据え置きゲーム機での星のカービィに一切関わっていなかった。2008年に入社した社員が本編カービィのプロジェクトに入るなど決して少なくない人達が携わっていたのにも関わらず、彼は本編カービィにいなかった。

熊崎は彼らの苦しい思いを見ていた。同時に「ここでシリーズを途絶えさせてはならない」という思いを強めていた。

彼が本編カービィと文字通り向き合うのは、3作出ていた本編カービィの没プロジェクト終了後。彼に企画の話が持ち込まれたのだ。制作期限は1年半。


ここで2009年のハル研究所の視点に立ってみよう。
遅くとも2002年には始まっていたゲームキューブ版本編カービィのプロジェクトは、熊崎が『タッチカービィ』で存在感を発揮し、『ウルトラスーパーデラックス』制作に苦労している間、結果を出せなかった。要素の追加や安定性の向上が上手くても一つの作品にできるかは別の話だ。
社員を見まわして、作品を世に送り出せるゲームデザイナーがどれだけいたのか。決して多くはない候補に熊崎は悠然と輝いていたのだろう。

任された熊崎は頼りになる仲間達と共に力を合わせて『星のカービィ Wii』を生み出した。住友は当然として、3DSのプロジェクトに関わった神山、レベルデザインを社内wikiにまとめていた遠藤裕貴、『ウルトラスーパーデラックス』でサブゲームに関わった上武理志と優秀なスタッフが揃っていた。というより、これが当時ハル研の出せた全力だろう。「目がキラキラしている」とは言われたが、実際の胸中はどうだったのか。

3つのプロジェクトで関係者が見せた汗と涙、そして無念が、Wii制作陣に全く見えていなかったとは、全く思えない。

社内のオーダー

ゲームキューブ版のカービィには誰も彼もがヘルパーにできる、スーパーデラックスをより発展させたシステムがあった。ガレブがヘルパーになる、ブルームハッターが仲間になるというシーンを動画で何度も何度も見返した人もいるだろう。熊崎も『Wii』発売後はそれに乗っかろうとした。しかし、次は3DSでカービィの作品を作ってもらうことが肝心だった。

2012年、なんとか20周年を祝えたカービィ。次にカービィを出すべき媒体は3DS、WiiUの2つだ。ここでハル研究所は3DSを主軸とした。2006年入社の企画ディレクション担当の神山達哉は3DS内蔵ソフトの『顔シューティング』に参加しており、彼だけでなくARゲームス制作陣の半分はハル研社員だった。
ここからハル研究所は次々とソフトをリリースしていく。それは長年あり続けた「カービィはハード末期に出る」というジンクスを自ら変えていくことになる。

3DSで彼は『星のカービィ トリプルデラックス』『星のカービィ ロボボプラネット』、そして数多の外伝作品に関わる。

ここからは多くのスタッフが出始める。カービィハンターズ・カービィファイターズのディレクターとなる東藤由実、アートディレクターのファーマン力、上武理志、プログラムディレクターの大西洋、中野宏晃、プロジェクトマネージャーの永田善裕…現場でも100名近くが関わるプロジェクトが当たり前になってきた頃に、熊崎だけでは何もできない。

が、絶対に失敗が許されないプロジェクトでメンバーの適性を見て配置できる人材が2010年代のハル研にどれだけいたのか。彼の存在は大きかったことだろう。

2014年の熊崎

ゼネラルディレクター

彼は『ロボボプラネット』のスタッフリストから、ゼネラルディレクターと表記された。

ゼネラルディレクター。この担当に就いたのは熊崎が初めてではない。カービィの生みの親、桜井政博が初だ。桜井は『スマブラDX』終了後その担当になった。アニメの監修に加え、ソフトを同時に見ていき、関連商品もチェックする。全体を見ていくのがゼネラルディレクターの仕事だ。

その桜井はハル研究所を2003年に退社する。それ以降、ゼネラルディレクターという役割は見えなくなっていた。そこに熊崎が入ったのだ。熊崎に求められる役割は桜井に任せたかったものと同じだろう。でなければ、13年前にあったゼネラルディレクターという役職を引っ張り出さない。

  • 『タッチカービィ』でストーリー、ラスボスを作り

  • 『ウルトラスーパーデラックス』で古典を復活させ

  • 『Wii』で据置のカービィを復活させ

  • 社内のオーダーである『TDX』など3DS作品も世に送る

これだけの功績が熊崎にはあった。任天堂やエンジンズのスタッフが関わった『あつめてカービィ』も、初のHD機の『タッチカービィ スーパーレインボー』もあるが、吸い込み・吐き出しとコピー能力を主軸にする作品を継続的に送り出せる者は熊崎以外にいなかった。

新しい遊びが出来なければゲームを出さない姿勢はゲームを健全に発展させる。それはそうだが、ハル研究所にカービィ以外の柱はないか、あっても育っていない。任天堂の哲学も勿論大事だ。決して忘れてはいけない。
しかし、ずっと試行錯誤を続けて結果としてカービィというブランドが絶えてしまっては本末転倒だ。そもそもハル研究所は任天堂の子会社ではない。

カービィを継続的に世に送り出さなければならない。しかし遊びも面白く。
この無茶な期待に熊崎と仲間達は見事に応えたのだ。

2016年時点で、熊崎は星のカービィというブランドを担う中心人物と、名実共に見なされたのだ。

スターアライズとディスカバリー

さて、社内のオーダーは終わった。最後に残るのはあのヘルパーシステムだ。ここで、これ以上のものはない程の集大成を出さなければ、革新作が光らない。

スターアライズは、コピー能力28種×フレンズヘルパー×属性・新技を見せるフレンズ能力という膨大な組み合わせを、事前に設定された納期に間に合わせなければならない。しかも無料アップデートも行う。ハードも3DSからSwitchに変わっている。

苦闘の末、2018年に発売した『星のカービィ スターアライズ』は無料アップデートを経て、豪華なドリームフレンズも追加。今までの星のカービィシリーズの歴史を飾るマイルストーンとなった。

これは集大成であり、次に出たのは3Dアクションだ。すいこみ大作戦のディレクターを務め、その頃からカービィを3D空間で気持ちよく動かすにはどうすればいいか考え続けてきた神山が熱意のある企画書を出し、熊崎はゴーサインを出した。

どこ向いているのか分からないカービィを3Dで気持ちよく戦えるようブラッシュアップし、コピー能力を3D空間で気持ちよく遊べるよう作り直し、バンプールの協力も得て3Dステージを作った。

出来上がった『星のカービィ ディスカバリー』も無事高評価を収めている。

取締役へ

さて、熊崎は2021年より取締役と明記された。同時に会社の方針もすこし変わっている。

今までハル研究所制作の作品におけるプログラマーはプログラム・テクニカルサポートという形で大きく分かれていた。システム寄りのプログラマーは「サポート」とされていたのだ。
これを「クリエイターと同じ目線に立った開発体制から、新しいエンタテインメントが生まれる基盤」と見なし、地位向上を図った。これは『ディスカバリー』のFrat Frameworkプログラマーという形で既に見えている。クリエイターと同じ目線に立った開発体制という言葉も、住友との以心伝心に驚いた熊崎らしい見方だ。

これを熊崎が書いたとは断言できないが、2021年に彼が取締役と明記されるとと同時に方針が変わった点は非常に興味深い。

他人に任せられる

熊崎はゲームデザイナーとしても優秀だが、彼は他人に任せられる。というよりか、積極的に任せようとする。

25周年記念オーケストラコンサート、採譜はサウンドクリエイターの坂井省吾が主に担当したが、プロデュースは岡田信志と塩野佑莉だ。岡田と塩野は30周年記念フェスの制作映像にもわずかだが登場している。
カービィカフェの立役者は藤江宏志で、その運営は藤江含むTeam Kirby Caféがベネリックと動いている。

勿論、彼がやることとしてサウンドの監修やテキスト、ストーリーがある。カービィサウンドの創設者である石川淳に対するサウンドの指摘も、ふんわりとしたものではなく編集画面で修正すべき所を的確に伝える。プログラマーも住友のようなアクション寄りのプログラマーだけでなく、システム寄りのプログラマーもいることをしっかり把握している。

しかし、彼はカービィシリーズそのものを任せられるようにしたいと言っている。自分だけがインタビューに出るのではなく、ほかのスタッフにも出てもらおうとしている。関わったスタッフの名前も極力出そうとしている。それはなぜか。

多方面の理解が高い熊崎がいれば安心。という考えは危険だからだ。

『スターアライズ』から『ディスカバリー』は3年越しだが、もしまた同じように3年越しで本編カービィが出るならば、後3作品で熊崎は還暦を迎える。別に60歳になったからディレクターを引退する必要は、何一つない。しかし、若い人が手綱を握れる環境がなければいずれ停滞する。

カービィは30周年を景気よく迎えられた。ここから40年、50年、いや100年と続けたいならば、今、次の世代に繋げられる環境整備をしなければならない。これはハル研究所が主立って挑まなければならない。ハル研究所が苦しかった2000年代後半、パートナーの任天堂は主だった動きを見せられていない。任天堂は確かに大きな存在だが、無限の力などある訳がない。

熊崎の戦いはこれからも続くだろう。それは長く苦しいものかも知れない。しかし、私はできると信じている。

参考文献

これに加え、筆者が運営する「Papen's Piling」から多くの記事を利用している。


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