だってアイドルじゃない
魯迅の『故郷』で、閏土が香炉と燭台を所望した時に主人公は相変わらずの偶像崇拝といって笑う。でも自分のいう希望も手製の偶像にすぎないし、閏土の偶像との違いは手に入りやすさが異なるだけだということに思い至る。
何かの希望を託す先として、宗教というのはアクセスが簡単だし堅実でよいものなのではないかと思い始めた。宗教が世界を貫く指針ではなくなった今、宗教はよくも悪くも大きな変化はしない。諸行無常の中で不変のものに安定を求めたい時に宗教という選択はありな気がする。聖書の中身は変わらない。それに今は宗教多元主義もあふれてる(一神教である宗教であっても複数信じていい)。
希望を偶像/idolに託すこと、割と楽だと思っていたけれどその偶像/idolを崇拝する人が多ければ多いほど希望のかたちもたくさんあって大変だなと思いました。やっぱり教義がある宗教の方が楽なのでは。
しかも、偶像/idolが集まってグループになってるとファンが望む希望の方向がさまざますぎて訳わからないし、さらに別のグループの動向も重なるともっと訳わからなくなるな…というのをキスマイとSMAPのことを見て思いました。でも、わたしの手製の偶像じゃないからどうにもできない。
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