アイドルは巡礼するのか

南北アメリカにおいてばかりでなく、世界の他の地域においても、行政単位が、ときとともに、いかにして、祖国と考えられるようになるかを理解するには、我々は、行政組織がどのようにして意味を想像するのかを見なければならない。人類学者ヴィクター・ターナーは、意味創造の経験としての、時間・身分・空間的な「旅」について、見事な分析を行っている。そうした旅は、すべて、解釈を必要とする。(たとえば、誕生から死にいたる旅は、さまざまの宗教的観念を生み出した。)ここでの我々の目的からすれば、旅の典型的様式は巡礼である。それは、キリスト教徒、ムスリム、ヒンドゥー教徒にとって、ローマ、メッカ、ベナレスが、聖なる地理の中心と観念されたというだけでなく、さもなくば何の関係もないはずの遠隔の地からこれらの中心へと巡礼者が不断に流れ、これによって、中心性が経験され(演出法的意味で)「実演される」ことにあった。実際、ある意味では、古い想像の宗教共同体の外縁は、人々がどこを巡礼するかによって決定されたのだった。すでに指摘したように、マレー人、ペルシア人、インド人、ベルベル人、トルコ人がメッカで奇妙にも物理的に並存すること、このことは、なんらかの形でかれらの共同性が観念されることなしには理解できない。カーバ神殿の前でマレー人と遭遇したベルベル人は自問したにちがいない。「なぜこの男は、私のしているのと同じことをし、私の唱えているのと同じ言葉を唱えているか」(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』pp.98-99.)

絶対主義の役人にとっては、しかし、事はそう簡単ではない。死ではなく才能が、彼の行路をかたちづくる。彼は、その前途に、中心ではなく頂上を臨む。彼は、何重にも円弧を描きながら、崖道を登っていく。円弧はしだいに狭まりきつくなり、ついには頂上に到達すると考えながら。彼は、五等級の役人としてA町に派遣されて役人としての経歴を開始し、四等級で中央に戻る。ついで三等級でB州に赴任し、さらに二等級でC副王領に行き、最後には、その巡礼を一等級で首都において終える。この旅においては、どこにも確実な休息地はない。すべての休止は暫定的なものであり、彼は決して帰郷したいとは望まない。彼にとって故郷にはなんらの内在的価値もない。そして、彼は、その上昇らせんの道程において、意欲的な巡礼仲間としての同僚の役人たちと出会う。彼が聞いたこともないような場所、会いたいとも思わない一族出身の同僚の役人たち。しかし、旅の道連れとしてかれらと行を共にするうち、そしてとりわけ、単一の国家語を共有するとき、相互連結の意識(「なぜ我々は……ここで……一緒にいるのか」)が芽生える。そして、B州出身の役人AがC州の行政を担当し、C州出身の役人DがB州の行政を行うとすれば—それは絶対主義王制下においてはじめて起こりうるようになった状況である—こうした互換性の経験は、それ自体の説明を要求する。絶対主義のイデオロギー、これを、新貴族自身が、君主と同じく苦心して作り上げていく(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』pp.100-101.)。

そして、言うまでもなく、クレオールがスペインにおいて重要な官職に昇るなどということは、ほとんど考えられないことであった。しかも、クレオール役人の巡礼の旅は、ただ縦方向にのみ締め出されていたのではなかった。半島人の役人がサラゴサからカルタヘナ、マドリード、リマ、そしてまたマドリードへと旅することができたとすれば、「メキシコ人」クレオール、「チリ人」クレオールは、植民地メキシコ、植民地チリの領域内でのみ勤めるのが普通だった。つまり、彼の横方向の動きも、縦方向への上昇と同じく、せまく限られていたのである。こうして、彼が円弧を描いて登りつめていく頂上、彼が任命されうる最高の行政的中心は、彼が現にいる帝国の一行政単位の首都であった。しかし、このせまくかぎられた巡礼の旅において、彼は旅の同伴者と巡り合い、かれらはその共同性が、その巡礼の旅の特定の広がりにもとづくばかりではなく、大西洋のこちら側で生まれてしまったという共通の運命にももとづくものであることを悟るようになった(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』pp.102-103.)。

ところどころ細かいところを見ると当てはまらないところもあるんだけど、クレオールの役人の巡礼についてのこの文章を見るとジャニーズJr.のことを想起してしまう。

役人は昇進のためにひとつずつステップを踏みながら各地を巡礼していく。それは帝国の役人もクレオールの役人も同じ。でも頂点にたどり着けるのは帝国の役人だけ、クレオールの役人には頂上に続く道は最初から与えられていない。

がんばればデビューが手に入るかもしれない時代のジャニーズJr.は帝国の役人で、がんばってもデビューが約束されていない今のジャニーズJr.はクレオールの役人に見える。

このあいだの日経エンターテイメントで、Kingが「(CDでなくても)なんらかのかたちでファンにぼくたちの音楽を届けられたら」みたいな趣旨の発言をしていて、これはiTunesなどの音楽配信サービスを当然想定していると思うんだけど、(わざわざ言うまでもないけど)この発言はいままでの形態よりも今の時代に沿ったデビューのありかたを示唆している。いままでのような形態でのデビューを頂点に掲げることが難しいならば、音楽配信サービスなりなんなり新しいかたちの頂点をはやく示すべきだと思う。できれば、だれかをその新しい頂点に連れていくことによって。入り口が閉ざされている昔の頂点が幻のように存在しつづけることは虚しい。


みたいな文章をずっと下書きに入れておいたところでのこれ。

いろいろわからなくなってきた。



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