散文的な何かの限界について
ぱぱぬいです。
noteを始めてみた。
アメーバブログが全盛の時代。
なんとなくあの頃以来、
「長文を書く」という機会が本当に少なくなったように思う。
その巧拙はともかくとしても、あの頃は今のTwitterなどのSNSよりも
推敲して時間をかけて文章を書いていたように思う。
思うだけかもしれんけども。
2000年代初頭。
HTMLの個人サイトが数多く存在したあの頃、
当時小学一年生だった自分は母親が勝手に作ったホームページを
物の流れで管理するようになり、2ちゃんねるなどの匿名掲示板や
ハンゲーム、リヴリーアイランドなどのオンラインゲームの
チャットを通してインターネットとはなんぞやというのを
なんとなく学んだ。
あれから十数年と時が流れてインターネットを取り巻く環境やルールも
大きく様変わりしていってる。正直ついていけない、肌に合わないなぁと
思う瞬間もかなりあって、孤独だった頃に唯一の拠り所だったものが
どこか遠くに行ってしまうのをひしひしと感じてる。
より世の中が多様になり、入れ替わり、そして窮屈になっていく。
多分それに不平不満を唱えても何が変わるわけでもなく。
仮に変えれたとして自己都合で世の中を変革(あえて嫌いな言葉を使うならイノベーション)する事ほど傲慢な事はなくて、
そしたらもう存分に自分の殻に閉じこもれる場所を作ろう。と、
完全に繋がりを断ちたくはないけど、繋がり過ぎている今に不満を持ってる自分になんだか居心地の良い場所を作ろうと、そういう殻を作る。
そういった気持ちで久々に長文などをしたためていこうと思う。
なんともとりとめのない開幕になってしまったけども、
土台 人の家にあがりこんで「散らかっているぞ」と騒ぎ立てるやつの方が
大概アレなわけで。そういう感覚。何かそれを分かる人だけがここに集まって、うっすい座布団だの、やっすい座椅子に腰かけてくだを巻くような場所だと思ってほしい。
おしまい
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