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「丘の手から」 第2回 上永谷あたり

横浜市営地下鉄ブルーライン。上大岡駅から湘南台駅方面にふたつめの上永谷駅。一方の出口はマンションと陸橋でつながり、一方の出口は市営バスなどの停留所が連なる駅前ロータリー。イトーヨーカドーがある。
あとはドトールコーヒーとサイゼリア、銀行、クリニックに歯科医院、数軒のドラッグストア。大型のパチンコ・パーラーも数軒。ここだけを見れば典型的なファスト風土といった風情、そういう感じが上永谷駅前だ。
つまり、かつての斜面緑地が戸建て住宅に覆い尽くされた、いまどきな郊外型の住宅街でもある。

でも、駅近くを地下鉄線と並行するように走る都市計画道路環状2号線と横浜横須賀道路が交差するあたり。ここは、かつて、全国での遊行を経て鎌倉に入ろうとした一遍上人が、こふくろ(巨福呂)坂で、その身なりゆえか幕府の役人に鎌倉入りを阻まれ、鎌倉入りが果たせなかった、その一件に至る前、三日間に渡って説法を行ったと「一遍上人絵巻」にも記載がある場所。当時、馬で遠乗してきた北条政子がここで馬を洗ったという伝承があるので「馬洗川」という清流の川辺でもあった。堰が設けられて、人工的に小さな滝のようなものが設けられ、馬を洗う「施設」だったらしい。

近くの丘の上には足利幕府の関東管領。あの上杉氏の一流「宅間上杉氏」の城郭の跡がもある。宅間上杉氏は後北条氏の時代にも武将として生き残り、徳川幕府の時代になっても旗本として生き残ったので、彼らが勧請した永谷天満宮は、今も、この地に残る。

この辺りに最初に開発の鍬を入れたのは、あの和田義盛の一族だ。この地を開墾し田畑をつくり、「牧」を運営しながら、鎌倉の北辺を守って城を築いた。しかし、和田合戦の際、最後まで抵抗して一族は城を枕に討死したらしい。その後は、東慶寺の寺領になったりしたが、やはり、大きな合戦の跡地は嫌われたのか、しばらくは明確な記述もない時代を過ごす。

でもね。後北条氏滅亡後、小田原から、とある一族が移民してきて、新しい農法を持ち込んで、農地を増やすだけでなく、面積あたりの収量を上げて、この地にあっては中興の祖となる(もちろん、お百様さんとしてだけど)。
領主としては。後北条氏が滅亡した後には豊臣秀吉の領地になっていたこともあるし、徳川家康の領地になっていたことも。その後はいくつかの旗本領になっているが、つまり「百姓請」の色彩が強い土地柄だったんだろう。今も「移民してきた地族」は健在だ。彼らの本拠はもう少し駅から離れた「牧庭(まきば)」にあり、今も一族が農地を持って暮らしている。和田一族の城跡の近くだ。「牧庭」には、関連があるのかないのか「和田さん」という家も二軒ある。中興の祖とななった家の古老に伺うと「うちより古い」と。

周辺の住宅には、御殿山城(京急神奈川駅近く)の合戦で戦った武将の末裔かという名前も見える。古墳時代に同族内で争いがあったと記録が残る一族の名前も見える。瀬之間さんの家は江戸時代から上永谷で酒店などを経営してこられた商家だという。

上永谷周辺の街には可視できる新興住宅地ではない「地下水脈」も滔々と流れている。そういうことだ。

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