皆様はじめまして。

自己紹介から書かせて頂きます。

はじめまして私「parsley(パセリ)」と申します。大阪府大阪市の出身で、現在は鳥取県鳥取市に在住しております。結婚もして妻と娘が居ます。趣味は、主に海釣りをしています。基本釣れた魚は、持ち帰り自然に感謝し美味しく頂いております(笑)

海釣りの出会いは、幼少時代に親父に出掛ける際に釣れていってくれた思い出があります。私には兄弟がいまして、私が長男、弟の2人兄弟。弟は何でも取り組めるチャレンジ精神旺盛でとても元気で活発な人であります。

私は、チャレンジ精神どころか何事にもオドオドした引っ込みがちな人で、何をしても自分も心配、周りも心配と中々勇気も出せず、人と関わるのが苦手でした。

親父のタイプは…「頑固タイプ」で一昔で言うとちゃぶ台返しをするような気が短い人ですが子供が大好きで何かと関わる事が多い上、よく喧嘩もしました(笑)

そんな親父は、家族旅行に行く際に海がある場所を選んでチョイ投げが出来そうなポイントを見つけ、兄弟を誘い釣りの楽しさを教えてくれました。

結果は、ボウズが頻繁でしたが(笑)

魚のアタリに感心はありましたが、釣れた時に…「触れるかな?」「噛まれないかな?」「刺されないかな?」「針が自分に刺さると痛いよなぁ」「魚を取れない自分を親父は激怒するのではないか」等々のマイナス思考しか過りませんでしたが、釣れないのに、海を眺めて家族で一緒に過ごすのが楽しみでもありました。

オカンは、大阪のオバチャンそのまま。

虎ガラ・ヒョウ柄の服は勿論、気さくに喋り続けれる良き人。

オカンは、子供があまり好きではなく子供もがキャーキャー、ギャーギャー騒いでいると鬱陶しそうにその場から即座に離れるか、怒鳴って静めるかの2択。ただし、苦手だ言いますが親父が当時ブチギレて僕や弟に暴力があった際は身体を張って助けてくれたり親父を静める程の更なる暴言?罵声?で、鎮火させれる程の力の持ち主。

今思えば、思いやりが豊富で色々と経験を積んだオカンが強いと感じましたが、やはり当時は親父が一番怖かったかな。

今ではDV(ドメスティックバイオレンス)でしたが、当時はDVのカテゴリもなく、「躾」のいっかんだったと思います。

当時は親父からの罵声や暴力が当たり前だったので慣れてしまった自分もいましたが、やはり行き過ぎな部分もあったと今なら思います。親父はカッとなると自我のコントロールが効かなく一斉に発散してしまい、それでも鬱憤が溜まっていたらヒートダウンの為かその場を離れ自分の部屋に閉じ籠るような素振りがありました。(布団に入って寝る)

残念な事に遺伝のせいにするわけでないが、自分も似た事があります。特に布団に入って寝るなど(笑)

親父同様、私も自我のコントロールが下手で毎回後悔や苦しんだ事もあります。

自分の人生で経験したくなかったもの。

それが「鬱病」

そして鬱病で強制入院後に知ることになった「ADHD(注意欠陥多動性障害)」など。

福祉関係の大学を出て、勉強して内容等を理解を深めた自分がまさかのADHDだったことにショックと隠したい自分の一部でした。

当時福祉施設に勤めていた時に発症し、自我のコントロールが出来なくなり、人に危害を出した訳ではないが職場の壁(コンクリートの上に壁紙が貼ってあった箇所)をおもいっきり殴り右手首を骨折し当時の施設長と話し合い結果クビとなり、職は失い強制入院し更に自我のコントロールは出来ず、一時期、「死」を考え行動に移した事がありました。周りに(知らない人達が懸命に止めてくれたりと)かなり迷惑をかけてしまい、結果は未遂の連続。

家族に暴言を吐いた事もありました。当時娘は幼稚園に通っていた頃で、だいぶ周りも分かり始めた頃だったと思います。そんな娘や妻に怒鳴り散らし、静まったと思えば家から居なくなったり1週間以上部屋に閉じ籠り(何も食べたり飲んだりもせず)寝続けたりと。

かなり荒れていました。

泣いても嘆いても怒っても落ち込んでも結果は一緒でした。

強制入院を経験して初めて目の当たりをしたのが個人部屋でベッドとトイレのみで他は何も無くかなり分厚く割れない硝子が海と空港が見えた部屋。

看護師の方が、なんやら説明してくれてましたが頭に入ってこず。

説明を終えた看護師が退室した際に、ゾッとした事を体験。

なんと、ドアノブが無い。

そう、完全に閉ざされた空間。

そこを約2ヶ月半過ごす事になりました。

退院する2週間チョイは、一般部屋(4人部屋)に入りましたが、2ヶ月半の月日はかなり長く感じましたし、何せ人と殆どシャットダウンした空間を過ごしたんですから。

人と話す事がとても怖くて、また「我を忘れて暴れるんじゃないか」と自分の軸がぶれた状態で時間だけがストップしたような感じを過ごしていました。退院が近くになるにつれ、ようやく隣人と話せるようになりました。「みんな苦しみたどり着いた先がココなんだ。」と色々な人から聞いたり自分もそうだったり。退院前日に頻繁に話しかけてきた人から喧嘩を売れました。カチンと今までは来てましたが、何故か冷静になっていた自分。聞いてみた所、「喧嘩すれば、また一緒に話が出来る。相手がまた居なくなる。自分は出たくても出れない。」等を話してくれ、その日はの晩に看護師と相談。その人は再度カウンセリングを行い調整できるように支援していかれるとの事。自分でイッパイイッパイだったのに、いつの間にか自分のコントロールが出来始めてきてるのだと改めて実感。

退院後、ひと月に2回の受診で、喧嘩になった人と遭遇。その人は、前向きに取り組んでおりキラキラとした感じになっていた事は今でも覚えている。

私は退院後から約1年半職に就くことがゆるされておらず、この1年半は、図書館に通い片っ端から本を読んで勉学することにした。

普段は字をみるのも嫌で本自体が苦手。

ある人からのキッカケがあり、苦手を克服とは言い過ぎですが、情報収集がてらで徐々にとの事で読み始めました。不思議な事に字が僕を待っていたかのようにスラスラと読めるじゃないですか。自分にビックリ。

1年半後に無事に就職し、趣味も再開。

趣味繋がりで沢山の人と繋がり、今では良くして頂いている方が沢山おられます。

再就職をし、現在では昔の自分(絶好調だった頃かな?)に戻りつつありますが、油断大敵。

趣味のお陰で今ではかけがえのない人望に恵まれ、さらに没頭しています(笑)

さて、家族に苦痛を与えてしまった事は今でも後悔しているし、二度とあんな過ちを犯したくないと肝に命じて今も感謝の気持ちで一緒に過ごしています。

発症してから約5年が過ぎようとしています。

いまの自分は家族に支えられ、さらに知り合った方達からのフォローもあって生きています。

自己紹介内容にしては長ったらしくて読むのも苦痛な程、現状をありのまま書いてみました。

今まで出会った方達との繋がりを大事にし、さらに家族との絆を改めて大事にしたいと感じました。

勿論、これからも趣味の釣りはやめません(笑)

だって、魚美味しいですもん(笑)

自然に感謝。

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