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愛情≒パン・デピス~Pandepis d'amour~『第27話:紅茶のシフォンケーキ編⑤』(27/29)

 ──ぼくはこの日、彼女の笑顔を見て、やっと覚悟を決めたんだ。
 ──ぼくは、地球には行かない。
 ──ぼくは、ニンゲンにはならない。
 ──ぼくは、お母様に迎え入れられることを諦める。



 ──ぼくは、ずっと、てぃーのそばにいたいんだって。

******

 シュガー・スプリンクル・デイ。
 ぼくはいつの日かてぃーと一緒にレモンキャンディの朝日に照らされながら彼女の歌声を聴いたときのように、早朝にてぃーと会う約束をした。
 お母様から指令を受けている時間──ニンゲン讃歌の時間は、正確には今日の夜だ。でも、今のぼくには時間帯なんて、もう関係がなかった。だってぼくはもう、お母様の子どもではいられなくなるのだから。それならあの日みたいに、柔らかな酸味の香る光に照らされる彼女の姿をまた見たいと思った。朝はぼくとてぃーにとって、特別な思い入れのある時間だから。



「もえるくんっ! おはようっ!」
 ぼくの家よりだいぶ古い、広い敷地に建った抹茶の香りが漂う平屋建ての住宅。待ち合わせ場所はてぃーの家だった。玄関前まで着いたタイミングで、ぼくはスマホでてぃーに『着いたよ』とメッセージを送った。ばたばたと忙しない音が聞こえてきて、やがてカラカラと玄関戸が開かれていって、彼女は姿を見せた。
 初めて友だちの家に来た。てぃーもぼくもヒト混みが苦手だから、今日みたいに町中が騒がしくなるような日は外にそもそも出ないのが当たり前なんだ。こんな日じゃなかったら、きっと彼女の家に行くことなんてなかったと思う。ここに来るまで、ずいぶんと緊張した。
「おはよう、てぃー」
「今ちょうどおじいちゃんもおばあちゃんもお散歩に出かけてるの。だからゆっくりしていって。さ、どうぞ……!」
「……お、お邪魔します」
 クランチチョコレートの廊下を通って、静かにてぃーの後ろを負う。って、もしかして......。
「ここっ、ウチの部屋っ! ど、どどどうぞっ!」
「へ、だ、だめだよさすがに……」
 お母様から習った。年頃の女の子のお部屋は、軽率に入ってはいけないらしい。それが紳士の嗜みなんだとか。
「ぽひゅ、も、もも、もえるくんしかいれないよっ!」
「え……えと……」
 それってなんだか、告白みたいじゃないか? 恥ずかしい。勝手に勘違いして舞い上がっちゃいそうだ。いけない。本来の目的を忘れるな。とはいえ、別の部屋は、なんて尋ねるのも失礼だろうし、なんというか、もうこれは覚悟を決めて入るしかないんだろう。てぃーにやましい気持ちなんてないけれど、申し訳がなくなる。てぃーの領域に踏み込む瞬間は、もう少し遅いか、あるいは訪れるっことがそもそもないと思ってたのに。そっとてぃーが戸を開いていくから、ぼくはいよいよ彼女のプライベートに足を踏み入れることとなった。
 ふわりと。いつか夢の中を彷徨っていた僕をこの世界に連れ戻してくれた優しいアールグレイティーの香りが舞う。てぃーの香りだ。室内は簡素で、窓から光が差し込んでいるだけで、あまり飾り気がない。年頃の子どもは部屋にものをたくさん置いたりすると習った──実際にぼくの部屋にも実は組み立てるグミモデルがたくさん集められている──けれど、てぃーはそうでもないらしい。
「せ、狭いけど……ウチ、狭いところが落ち着くから好きなの……掃除ロッカーとか、へへ……」
「掃除ロッカーは、入らないほうがいいよ……」
 軽く突っ込みを入れるけれど、そのタイミングでどうやらてぃーはぼくが重要な話があると事前に伝えていたことについて、おそらく緊張しているのだと気がついた。
「ちゃ、ちゃんとお話聞きたいの。だから、狭いところで落ち着いて話したくて……」
「うん。大丈夫だよ。ゆっくり話すから……」
 てぃーはこくりと頷く。小動物みたいな仕草。ぼくは弱いけれど、てぃーを見ているとつい、守ってあげたいって思う。自分勝手にも。
 お餅の座布団の上に座って、しばらくてぃーが深呼吸を終えるのを待ってから、ぼくはぽつりぽつりと、自分の罪を打ち明け始めた。



「も、もえるくんたちが、ウチたちを食べるために……?」
 てぃーはまるでぼくの話が信じられないという顔をしていた。当然だろう。彼女は何度も考え込んで、またぼくに尋ねた。
「……ほんとうなの?」
「うん。ぼくはずっときみのことを騙してたんだ。大切だなんて言いながら、ほんとうはずっと、きみのことを……どうすればいいか悩んでた……」
 胸がぎゅうっと苦しくなってくる。からだが呼吸をすることを拒むみたいに、息が苦しくなった。
「今のぼくにはもうきみを食べるつもりなんてない。でも同時に、ぼくにはほかのきょうだいの選択を止める権利もない。ヤマイもこがれ姉さんもきっと悩みながら、でも自分なりの強い信念で動いている。それは正しいことだ。彼らはスパイスモンスターという種族として、真っ直ぐにお母様の使命を果たそうとしている。だけど、それはきみにとって、これからとても悲しくてつらいことがたくさん起こるかもしれないということでもある」
「まさか、今、ほかのケーキのみんな……」
「うん。今日この日が終わったら、もうふたりとも、ほかのケーキの子とも、二度と会えないかもしれない」
「……」
「そんなときにぼくだけは、中途半端にきみを大事にしてるつもりになってる。優しさだなんて嘘だ。ぼくはふたりと違って、義理も使命もまともに果たそうとしないような、そんな、そんな最低な奴なんだ」
 目頭が熱くなる。体温が上昇する。ぴりぴりとした感覚が奥から込み上げてきて、遂に瞳からは大粒の涙が溢れ落ちた。
「ごめん、てぃー、ごめん……」



 ──スパイスは涙を流させるもの。決して涙を流してはならない。



 ぼくはついにこの日、お母様の教えを守りきれずに──てぃーに、真実の自分の姿を晒したんだ。
「……もえるくん、なの……?」
「ぼくは、ほんとうのぼくは、こんななんだ。ね、てぃー。ぼくがきみを騙していたって、証拠になるでしょう?」
 涙で視界が歪んで、きみのことがよく見えない。どんな表情をしているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、怯えているのか。こんなことを告げられても困るってわかっているのに、ぼくは勝手に自分が楽になるために、すべてを打ち明けてしまったんだ。
「しょこらちゃん、サクリちゃん、ちづちゃんに、キルシュくんとトルテちゃん……みんな……」
「うん……」
「そう、そうなんだ……」
 てぃーの声色はわずかに震えている。ほら、話すんじゃなかった。でも、どうせいつかは知ることになる。それなら、ぼくはどうすればよかったんだろう。どうすればきみを傷つけずに済んだ? きみを連れて、きみが真実を知ることがないようにこの町から逃げるなんて、そんなことができる力もなかった。
「……」
「……」
 沈黙が訪れる。これ以上謝ろうとしたって仕方がなかった。謝ったって、ヤマイやこがれ姉さんを悪ニン扱いするようなことになると思うと、必要以上にそんな態度をとるべきではないことも分かっていた。ぼくは結局、きょうだいの足を引っ張って、大好きな親友をも傷つけているだけだった。



「もえるくん」
 ふと、紡がれた言葉が耳に届く。クリームが添えられたみたいな優しい声。ぼくが大好きな声だった。
「……そんなに泣かないで、あなたの姿をもっとよく見せて?」
 そ、とてぃーの小さな手が、元の姿に戻ったぼくの鉤爪に触れた。
「……大きな手。この手で、あのときウチを守ろうとしてくれてたんだね」
「危ない。怪我しちゃうよ……」
「ヤマイくんも、こがれちゃんも、だからあんなに強くて素敵だったんだ」

 ──ね、もえるくん。

「とっても綺麗。ウチ、あなたのほんとうの姿を見られて嬉しい」
「……!」
「みんなと会えなくなるかもしれない。すっごくすっごく寂しいよ。泣いちゃいそうなくらい。でも、ヤマイくんもこがれちゃんも、もちろんもえるくんも。ウチたちを騙してたなんて、きっと誰も思ってないよ。みんなで過ごした時間は、気持ちは、ほんものだったと思うんだ」
「てぃー……」
「もえるくんは、どうするの? ウチを食べないんだよね?」
「うん……だって、だってぼくは……ずっときみの……」
「そばにいてくれる?」
「……!」
「それならね、ウチがみんなのこと、悔やまないで生きられるように、もえるくんに手伝ってほしいことがあるの」

 ──今日この日迎えるそれぞれの結末が、みんなにとってどうか、どうか幸せで満足のいくものでありますように。

「……一緒にお祈りしてくれる? みんなが満足していなくなっちゃったなら、ウチ、よかったってお祝いしてあげなくちゃ」
 てぃーはぼくの手をぎゅっと握る。
 ああ、てぃー。きみは。きみは。だからぼくは、きみのこと。
「……っ、勿論。お祈りするよ。みんなが、みんなが迎える結末が──」

 どうか、どうか幸せで満足のいくものでありますように。

「……ありがと。もえるくんが一緒に祈ってくれたから、ウチ、もう大丈夫。ね、これからみんなとの思い出、振り返りたいな。一緒にアルバム、見てくれる? ウチ、写真うつり悪いから恥ずかしいけど、ちゃんとみんなのことを思い返しておきたいの」
 そう呟くてぃーの指で涙を拭われて、ぼくの視界はやっと元通りになった。そこにあったのは、シフォンケーキみたいにふわふわで柔らかな笑顔だった。瞬間ぼくは今、自分がこれからどうしたいのか、ようやく理解した。
「うん。少し待って……」
 置いてあったカバンから魔法の角砂糖を取り出して、口に入れると、すうっと姿はいつも見せているヒト型に戻る。てぃーは『ぽひゃ! すごい……』と呟いた。



 てぃーと一緒に、アルバムを捲っていく。4月の入学式から順番に、3学期末までの記録が残されている。ぼくたちが知っている出来事も、知らない出来事も、きっとたくさんのことがあったんだろう。だけど、そのどれもに乗せられた感情が、偽りだったわけなんてなかった。
「……やっぱりちょっと涙が出ちゃう。ウチ、弱い子だね」
 てぃーは泣きながら笑う。ぼくは。
「弱くたっていい。ぼくだって、きみだって……ぼく、決めたよ。ぼくはここに、スウィートネスに残る。ずっときみのそばにいる」

 ──きみと一緒に、みんなのことを引きずって、生きていく。

「もえるくん……」
「ふたりでわけあえば、引きずったままでもきっと少しだけ前に進める。だから」

 ──これからも、ぼくの大切なヒトでいて欲しいんだ。

「そんなの、もちろん」

 ぼくとてぃーは手を取り合って、微笑み合った。ぼくの結末は、ここでやっと、自分の意志で掴み取ったんだ。
 それからぼくたちは、まるで何でもないみたいに静かに穏やかに過ごした。何度も何度も、みんなのことについて談笑しながら。あのときあんなことがあったなんて話し合いながら。それぞれの運命の時は刻一刻と近づいてきて、ぼくたちの知らない間に結末が決まっていく。普段のぼくたちにとってはきっと恐ろしいことだっただろうけれど、今はお互いがそばにいる。ぼくたちは寄り添い合って、比翼のきなこ餅バードみたいに未来を飛んでいく。

 ──その未来のすべてを目撃した末に、きっとふたりで、大好きなみんなと再び巡り会うことを夢見て。


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