愛情≒パン・デピス~Pandepis d'amour~『第21話:黒い森のトルテ編④』(21/29)
気持ちを自覚してからの日々は悪夢のようだった。トルテを求める欲求と、それから激しい自己嫌悪。忘れるために学級運営の仕事に励んでも、一時的に気を紛らわすだけに終わった。
病院に行くことも考えた。どうにかして僕の中にいる怪物を取り除けないかと。けれど、図鑑にも載っていないような得体の知れない怪物を食べさせられたなんて前例がないだろうし、主な症状が妹への恋慕や食欲だなんて、説明できるはずもなかった。それともむしろ、全て打ち明けてしまって、気がおかしくなったと思われた方が良いのだろうか。そうして隔離でもされた方が、妹を守れる。
最近は、トルテが隣の席にいるだけで、頭の中がぐちゃぐちゃになる。ブランデーとチョコレートの甘ったるい匂い。触れたらきっとひんやり柔らかくて、口にすれば酔いそうなほど甘美だろう。そんなことを想像してしまう自分が嫌で、ひどく気分が悪くなった。
「……先生、具合が悪いので保健室に行ってきます」
とうとう授業を受けることさえつらくなって、僕は席を立った。僕を追う妹の視線は意識しないようにしながら。
*
保健室のベッドでひとりきりになっていると、少し落ち着いた。久々に肩の力が抜けて、気付いたら眠りに落ちていた。幼い頃の夢を見た。僕とトルテは家の庭で砂糖菓子の花冠を作って遊んでいる。何の不安も屈託もなくて、ただ一緒にいることが楽しかった。トルテはにいさま、と朗らかな声で笑い、花冠を僕に被せる。彼女の存在が愛しくて、大切で、絶対に守らなければいけないと思った。妹に危害を加える全てのものから、絶対に。
ふと目を開けると、周囲はオレンジ色の光に染まっていた。放課後まで眠ってしまったようだ。予習をしているから多分大丈夫だろうけれど、あとで誰かにノートを貸してもらわなきゃいけない。先の計画を考えながら起き上がると、ふと、あの甘い匂いが鼻をついた。
「にいさま……」
ベッドの脇の椅子にトルテが座っていた。僕は思わず後ずさる。後ずさるといっても、ベッドの上を壁側に僅かに移動することしかできなかったけれど。
トルテは心配げな眼差しで僕をじっと見つめている。視線を合わせることができずに目を逸らした。それでも匂いは消えることなく、僕を追い詰めてくる。眠るんじゃなかった。トルテが様子を見に来ることなんて予想がついたのに。ふたりきりになることを必死に避けていたのに、今周囲には誰の気配もなくて、ひどく緊張した。
「にいさま……このごろお元気がないから、トルテは心配ですのよ……」
「……早く出ていけよ」
できる限り冷たい声で言い放ち、ブランケットの中に潜り込んだ。匂いを遮断することはできなくても、せめて姿だけは見えないように。
「お前がここにいないことが、一番僕のためになるんだ……」
声も聞きたくない。本当は聞いていたい。話もしたくない。本当は話したい。顔も見たくない。ずっと側で見ていたい。食べてしまいたい。ひとつになりたい。僕の頭の中は滅茶苦茶で。どうしてこんなことになっているんだろう。立ち去る気配のないトルテに、勝手に苛立ちが募った。
「僕がずっと苦しんでるのに、お前は何にも知らないで追いかけてきて……僕の努力を全部無駄にしてくる……」
こんなのは八つ当たりでしかない。分かっているのに言葉は続いた。
「僕は君に近づかないようにしてるのに……我慢してるのに……!」
そう叫んだ瞬間、ふわり、と上に何か覆い被さる気配がした。柔らかくて、しっとりと重さがあって。それがにいさま、と囁いたから、トルテに抱き締められているのだと気付いた。
「にいさま、怖がらないで」
あの無邪気な妹が発しているのだと思えないほど、それはやさしい声だった。
「にいさまとトルテは、ひとつのケーキをふたつに分けて生まれてきたの。にいさまも覚えていらっしゃるでしょう? 子どもの頃にかあさまから聞いた昔話」
「むかし、ケーキには手と足が4本ずつ、目も4つもついていて……けれど神さまが、それを半分に裂いてしまったの。だからさみしくて、体のもう半分が恋しくて……またひとつになりたいと強く思う、それが愛情の源なんですって」
「トルテはきっとむかし、にいさまとひとつだったのだわ。だからこんなに、にいさまのことが大好きなの」
「にいさま、愛情を怖がらないで。……ひとつに戻ることを、怖がらないで」
ひときわやさしい声が降ってきて、トルテがブランケットの端に手をかける気配がした。彼女の声のせいか体の緊張は解けていて、いつものように拒む勢いは出なかった。タオル地の膜がそっと剥がされて、目が合う。僕はトルテの顔を久々に真っ直ぐ見た。
「……」
僕と同じ色の髪を、三つ編みにした女の子。僕と同じ顔のはずなのに、誰よりも可愛く見えた。
視線が通った瞬間、頬をチェリーソースで薄紅色に染めたトルテは、まるで驚いたように目を丸くする。わりあいいつも平静な彼女には珍しい表情だった。それから何も言わず僕に覆い被さって、ぎゅっと首筋に抱きついてきた。柔らかな感触と甘い匂い、それからひんやりとした温度。喜びや楽しさや充足感、幸せと呼ばれるあらゆるものは、彼女の形をしているんじゃないかと思った。
「にいさま」
ようやく家に帰り着いて、心底安堵したような声。やがて、肩が小さく震え始め、涙の気配が僕の襟元を濡らした。
抱きしめ返そうか迷った。このまま受け入れてしまおうか、という気になる。だって、この1年続けてきたような言い合いを、一生続けるのは不毛だ。僕も彼女も寂しいだけで、何の益もない。だったらいっそのこと開き直った方が——いつだったか、もうクラスからいなくなってしまった彼に言われたように——幸せなのかもしれない。
「にいさま、何をしてもいいのよ」
そう柔らかに囁かれて、甘い匂いで頭がいっぱいになって、僕は。
トルテの胸元のリボンを解き、上着のボタンを外す。シャツを押し除け、露わになった白い首筋に噛みつく。
「……っ」
表面のホイップクリームの滑らかさと、その下にあるチョコレートとブランデーの匂い。舌の上にじわりとチェリーソースが滲む。美味しい。もっと味わいたい。君と、ひとつになるまで。
「……っにい、さま……っ」
甘やかな声でトルテは僕を呼ぶ。その声に煽られるようにトルテの膝の裏から上にかけてを撫でると、びく、と小さな体が跳ねた。
互いの呼吸が荒くなって、口の中に感じるチェリーソースの味が濃くなって。けれど、トルテの吐息に痛みを堪えるような気配を感じた瞬間、我に帰った。
「……っ」
トルテの体を引き離す。素早くベッドから抜け出て彼女から距離を取った。
「にいさま……?」
トルテは呆然と僕を見つめる。首筋にはくっきりと傷口が開いて、チェリーソースが白い肌を伝い落ちていた。もし正気に戻らなかったら、あのままトルテを殺していたかもしれない。そう思い至ってぞっとした。
トルテを傷つけないように、ただそのために今まで何もかも動いてきた。それなのに結局こうなった。それくらい僕の自制心は脆くなっている。少しのきっかけで何をするか分からないほど。
ただ距離を取るだけじゃもう駄目だ。もっと根本的な手段を取らなければいけない。酷い自己嫌悪の中で、トルテから僕を確実に遠ざけるための方法を1つだけ思いついた。
*
保健室の棚から絆創膏を取って、首筋に貼り付けるトルテの様子を見守りながら、僕は静かに口を開いた。
「……トルテ」
「え?」
およそ1年ぶりに、まともに名前を呼ぶ。トルテはぱっと顔を上げて僕を見た。
「怪我させてごめん」
「こんなの平気ですのよ」
トルテは微笑む。けれど、あんなにチェリーソースが出ていたのに、痛くないはずがなかった。罪悪感に胸を突かれて、僕は俯いた。謝らなければいけないことはまだあった。
「ずっと冷たくしていてごめんね」
「まあ、ちっとも気にしていませんでしたわ」
多分嘘だろうと思った。その言葉通り本当に全く気にしていなかったなら、僕のことをとっくに嫌いになっているはずだし、先刻泣いてもいないはずだ。ごめんね、と僕は繰り返した。
「あのさ、来月のシュガー・スプリンクル・デイさ……まだ僕と過ごしてくれる?」
「え……もちろん、もちろんですわ!」
「じゃあ、一緒に遊ぼう。去年過ごせなかった分も」
そして、来年からずっと先の分も。
「ほ、本当に?」
「うん」
「にいさま……!」
トルテは目を丸くした。その瞳の縁には涙が滲んでいて、僕は酷いことをしていたんだな、と改めて思った。
******
あと1ヶ月どうにか耐えて、仲良く過ごそう。昔みたいに。そうしてシュガー・スプリンクル・デイに楽しい思い出をつくって、それで終わりにしよう。
やっぱり僕はトルテを拒まなきゃいけない。そうしなければトルテは僕を受け入れてしまうし、そうなったら僕は、彼女に何をするか分からない。殺してしまうかもしれないし、別の何かをしてしまうかもしれない。これ以上傷つけることはあってはならなかった。誰よりも大切な妹だから、幸せになってほしい。ちゃんと陽の当たる場所で。そのためには、僕はいらない。
さよなら、トルテ。僕という障害物がいなくなった先で、君は生きてほしい。
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