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愛情≒パン・デピス~Pandepis d'amour~『第20話:紅茶のシフォンケーキ編④』(20/29)

「もえるくん、こんにちは。今日はアップルティーを持ってきたんだよ」


 
 あの日──呪くんに襲われてからしばらく経って、今のウチは苺飴病院に入院しているもえるくんのお見舞いに通うのが日課になっていた。
 一体何が起こったのか。ウチは何も知らない。呪くんの指示に従って意識を失ってから、気付いたらなにもかもが片付けられてた。もえるくんは出血多量で意識不明になっていて入院することになって──呪くんは、亡くなってた。
 目を覚ましたとき、そこはこの病室で、ウチはもえるくんのおかあさんを初めて見た。背が高くて綺麗なヒトだった。呪くんのことを謝られて、もえるくんと仲良くしていることにお礼を言われて。そして──あの事件は、通り魔殺ジン事件で、呪くんはそれで亡くなって、もえるくんとウチはなんとか助かったのだと、そういうことにしてくれと言われた。世間で流れるニュースも、どうしてかすっかりそういうことになっていて、一体何が起こったのか、ただ、あの女性に──もえるくんのおかあさんにすごい秘密があるということだけがぽつんと頭の中に理解として収められた。



「いい香りだよね。甘酸っぱくて。もえるくん、どんな紅茶が好き? そういえば、まだお茶のことじっくりお話したことなかったよね」

 ──もえるくんはまだ目を覚まさない。あのとき彼を襲ったあの武器は、見たことがない素材をしてた。まるで、宇宙に出た別の星からやってきたみたいに。それも、彼が眠ったままなことに関係があるのかな?
 もえるくんが眠るベッドの脇に置かれたパイ生地編みの籠の中には、ウチがお見舞いに通い始めてから彼にと持ってきたティーバッグのフレーバーがどんどん溜まっていった。ウバ、カモミール、ミント、ピーチ……順番に数えていって、今日でアップルが増えた。
 今日ももえるくんから返事はない。ぎゅっと胸が苦しくなる。呪くんのこともどう受け止めていいのか、まだ整理がついてなかった。でも、それはウチだけじゃない。特にちづちゃんはひどく動揺していて、ウチに一体何があったのかと尋ねてきた。でもウチはあの日のことを思い出すと恐ろしくて、本当に呪くんにもえるくんが撃たれたこと以外何も知らないし、でもそんなこと彼女に伝えていいのかもわからなかった。ただ泣きじゃくって、みんなに心配をかけちゃった。反対にヤマイくんとこがれちゃんは大事なきょうだいを喪ったはずなのに、不思議になるほどに冷静で、普段通りだった。呪くんは家族葬だったそうだけれど、ふたりもあのヒト──おかあさんから、何か聞いたのかなと思った。



「もえるくん」
 返事はない。



「もえるくん」
 返事はない。



「もえるくんったら……っ!」
 あるわけない。



「……っ」
 どうして。このままもえるくんが目を覚まさなかったらどうしよう。もう何週間経ったんだろう。もえるくん。ウチね、あなたに話したいことがたくさんあるんだよ。この間だって、キルシュくんがウチたちのために粉砂糖合戦を企画してくれて、運動は苦手だけど、初めて思いっきりからだを動かしたの。もえるくんと一緒に戦いたかったな。もえるくんも体育が苦手だって言ってたけど、きっと楽しめたと思うんだ。もえるくんが早く目を覚ましますようにってみんなでお祈りしたんだよ。だから。だから。

「目を覚まして……」

 結局、今日ももえるくんの優しい声を聞くことも、澄んだ瞳を見ることも叶わなかった。

******

 何度も夢を見た。
 もえるくんが目を覚まして、ウチに微笑んでくれる夢。
 もう大丈夫だよって、眠かっただけだよって。それに、呪くんもほんとうはいなくなってなんかなくて、ふらっと戻ってきて、いつもみたいに笑って。みんなで粉砂糖の下を駆け回る、そんな夢。なにもかもがぜんぶ冗談で、なにも心配する必要なんてなかったんだって。そう思って。ほんとうのことは、悪い夢だったんだって、そう安心してた。そこから醒めるたびにつらくなって、涙が止まらなかった。

 また今日も、同じ夢を見た。
 目が覚めて、自分が泣いていることに気づく毎日。どっちが夢なのか、ほんとうはちゃんとわかってた。
 学校に行って、授業を受けて。集中できなくて、それでももえるくんが戻ってきたときに、ちょっとでも力になれるように──もえるくんのほうがウチよりずっと成績がいいけど──オブラートノートだけは必死に取った。



 レモンキャンディの日が沈みかける夕方。また彼の病室を訪れる。
「もえるくん、こんにちは。今日はね……」
 返ってこない挨拶。もう何度目だろう? 
 
「ふっ……ううっ、ううううっ!」
 思わずベッドに駆け寄って、ウチはそのまま崩れ落ちた。ぼろぼろと涙が溢れる。ウチはもともと泣き虫だったけど、こんなに泣いたのは初めてだった。もえるくんが被っている毛布に縋るように両手を伸ばして、握りしめた。

「いやだ……もういやだよ、こんなの……」
 お願いだから、ウチを助けて。そんなふうに、自分の気持ちだけでもういっぱいいっぱいだった。もえるくんはいつだってウチを助けようとしてくれたじゃない。いじわるしないでよ。

「きょうは、きょうはねっ……アールグレイティーを持ってきたの……」
 アールグレイはウチの家系の代々の香りで、もえるくんに渡すのはちょっと恥ずかしかったんだよ。でも、でもね。もう、これしかないの。
「ウチ、ここにいるんだよ。ずっとあなたを待ってるんだよ」
 もえるくんには戻ってくる場所がある。ウチがいるんだよ。
「お願いだから、気づいて……」
 もえるくんが目覚めるまで、帰りたくない。ずっとここにいたい。家に戻っている間に、あなたがいなくなっちゃったらどうしようって、ずっと思ってるんだよ。
 もえるくんの閉じられた長いまつげを見やる。もう片目を隠す前髪を、そっとカーテンを開けるみたいに避けた。
 おニン形さんみたいに精巧で、すごく綺麗だった。
 いつも帽子を深被りして、表情が見えないようにしているのが勿体ないくらい。こんなときになって、ウチははじめてもえるくんのお顔をまっすぐに見たんだと気づいたの。



 しばらくの間、ウチはずっともえるくんを見つめてた。もえるくんは視線に敏感なのに、それでも気づく気配がない。
 ティーバッグを枕元に置いて、彼の両頬に手を添える。
「ウチを見て……」
 どうしたら、目を覚ましてくれるの? 今日の終わりの時間は刻一刻と迫ってくる。そろそろ、ウチはここを離れないといけない。そんなのやだよ。そう思ったとき、静かに音を立てて扉が開かれた。看護師さんが来たんだ。
「お嬢さん、今日の面会の時間はそろそろ……」
「いやっ!」
「そう言われても……ほら、もう帰らないと、親御さんが心配するわ。その制服、苺飴中学校の子でしょう? 学校に連絡するから──」
 看護師さんはウチの肩にそっと片手を添える。ウチは思わずそれを振り払った。
「置いていかないで! もえるくんを置いていかないで!」
「はあ……だめよ。ほら、また明日」
 痺れを切らした彼女に、腕を引かれて。思わず叫んだ。

「もえるくんっ!」

 届かない。そのまま、病室を後にすることになると思った。そのとき。



「……てぃー?」



 ずっと探してた声色が、ウチの耳の中を通り抜けた。
「もえるくん……?」
「ここ……ぼく……」
「病院だよっ! ずっと、ずっと眠ってたんだよっ」
「……そっか」
「よかった、ほんとうによかった……今度こそ、夢じゃないんだよね?」
 いつも大きな声ばかり出ちゃうけど、今この瞬間は、からだが震えて、真実を確かめるように微かな声しか出なかった。
「心配かけてごめん……怪我は、ない?」
「あるわけないよ……! 怪我したのはもえるくんじゃない」
「きみが、無事でよかった」
 もえるくんはこんなときでさえウチの心配をしてる。
「ばか……」
 初めて、もえるくんに対して悪口が零れ落ちちゃった。

******

 それから看護師さんが気を遣ってくれて、ウチは少しだけ長くもえるくんとそばにいられた。
「ごめん」
 もえるくんは何度も謝ってた。そんな必要なんてないよ。こうして戻ってきてくれただけで、ウチは。
「謝らないで、あのね、もえるくんに話したいことがたくさんあるの」
「うん」
「ノートも一生懸命取ってきたんだよ」
「うん」
「あとね、それから、それからね、これ」

 ──アールグレイのティーバッグ。持ち上げると、ふわりと香りが舞った。

「……初めてきみと話したときも、この香りがしてた」
「ぽえ?」
「優しくて、あったかい匂い。きみみたいに」
「ぽひゃ……! なんでそ、そういうこと言うの!」
 顔が熱くなって、思わず背中に隠してしまう。もえるくんはごめん、とまた謝った。
「あ、謝らないでって言ったじゃない! だめ! 言い直してっ!」
 それを聞いたら、自分でも信じられないくらい強気な言葉が出て、びっくりしちゃった。もえるくんは一瞬ぽかんとして──それから、薄い唇を結んで、微笑んだ。

「──ありがとう」

 そう。それでいいの。ちょっとだけ偉そうなことを考えた。
「うん。また明日来るからね。絶対に、ウチより先に起きててねっ」
「うん。約束する」



 帰りが少しだけ遅くなったら、おじいちゃんとおばあちゃんにひどく心配された。でも、もえるくんが目覚めたことを伝えたら、ふたりとも喜んでくれて。よかった、と頭を撫でてくれた。
 
 もう少ししたら、もえるくんは退院することになる。それから、ウチは彼に言われることになるんだ。シュガー・スプリンクル・デイを、一緒に過ごしてほしいって。


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