愛情≒パン・デピス~Pandepis d'amour~『第23話:とろけるフォンダンショコラ編⑤』(23/29)
──シュガー・スプリンクル・デイ当日。
あの時はまだ先だ、なんて思ってたのにこの日が来るのはあっという間だった。でも準備も整えたし、きっと大丈夫。覚悟もできてる。
*
待ち合わせはブラウニー時計台の下。
「ヤマイくん! ごめんね、待った?」
「ううん。大丈夫、今来たところ」
彼女、しょこらちゃんの私服はいつもと雰囲気が違っていて、髪も違った結い方で、正直可愛いと思った。似合ってると容姿を褒めると、彼女は嬉しそうにはにかんだ。
*
俺……僕はひとつ咳払いをして、彼女に手を差し出し、
「お嬢さん、お手をどうぞ」
最初の頃のように着飾ってみる。嫌がらないかと思ったけど、期待していた想定と現実は一致することはなく、彼女は喜んで手を取った。
まあ、彼女を楽しませるには、まず僕から楽しまないと。
*
最初に向かったのは苺飴花園だった。
フロランタンの花壇に、一面のマンディアンの花。
隣は……タルトシトロンかな?シュークリームにパートブリゼ、シュクレと……奥はまた違う花がある。花に関心がある訳ではなかったけど、ある程度調べておいて正解だった。花の名前を答えると彼女は喜んでくれたから。彼女が笑ってるのを見ると安心する。
時折花の周りにはマーガレットミツバチが働いていて、せっせと蜜を集めていた。
クランブル映画館。
彼女が一度観たいと言っていた映画があったので、プランに入れてみた。僕も観てたけど、どうしよう、アクションシーンしかよく分からない。寝ないだけマシだけど、感想、聞かれたらどう答えようかな。ぼんやり考えながら、彼女のほうをちらりと見てみると何故か目が合ってしまった。
…………いや映画観ないのかよ。
その後はワッフルデパートで色んなものを見て回った。アクセサリーや洋服、インテリア、雑貨店、それから古本屋。彼女は選りすぐるように興味津々で色んなものを見ていたけど、お小遣いが限られていたからか荷物が増えるのを避けたかったのか彼女はあまり買うことはなくて。ほとんど見ていただけなのに彼女はすごく楽しそうで。お揃いのキーホルダーを買って片方を彼女に渡してみたら、泣くほど喜んでくれて、不思議な気持ちになった。
……ただ、彼女は僕が食べ物に口を付けるのを酷く嫌がって、彼女も何も口にしたがらなかったから喫茶店には入れず、仕方なく僕は空腹に耐えることにした。
*
「体調、大丈夫?」
「うん! もう大丈夫、ごめんね。わたしのせいで予定狂わせちゃって」
「いいよ、気にしないで」
デート巡りの途中、彼女が少し立ち眩みを起こしたので急遽予定を組み替えて、夜空がよく見える場所に移動して腰を下ろしていたわけだけど。休んでいる間にレモンキャンディの日が沈みかけていて、このまま夜を待った方がいい気がしてきた。
……二人きり、やるなら今だろうか。少し早いかな。
服の下に仕込んだナイフをそっと撫でる。
いや、飲み物でも買いに行って、気持ちを──。
「ね。ヤマイくん」
不意に彼女は僕の名を呼んだ。
気が付けば彼女は僕の前に立っていて、徐ろに両手を僕の両頬に沿わせて僕に迫った。思わず後ろへと退いたけれど、硬い壁が背とくっつき僕と彼女も密着することとなった。唇に感触を得る。力が抜けて、ずりずりと下へ沈んでしまう。彼女もそれに食いついてきて髪束が地面に広がった。
何だ、これ。逃げ道を誤ってしまった僕のミスか? 謝らなければ。誤解を解かなきゃ、これは事故だって。
舌に何か感触がある。甘くとろっとした液体と、つんつんとつついてくるこれはなんだろうか。歯茎をなぞられた所でようやく頭が追いついて、驚きのあまり勢いよく顔を背けて噎せ込んでしまった。
「っけほ!コホ……ッ」
「……なんだか舌がぴりぴりする」
「な……なん」
「ヤマイくんってこんな味なんだ……」
「ッ言ってる意味が、」
「もういっかい」
「ち、ちょっとまっ」
なんで舌までと問う暇も、もう少しゆっくりと伝える暇もなく再び供給が押し寄せてくる。餌を求めて口を開けてるわけじゃないんだけど。
今度は噎せることすら許されず、甘ったるい液体が喉を通り続けた。確かに甘くて美味しかったけどあまりにも過多だ。かなりつらい。でも休まず嚥下しないと口の端から垂れたものを彼女が舐めとってまた流し込むし、彼女が頬を挟んで上を向かせるから流れ込む液は重力に従うし、何より、何より力が入らない。腰を抜かしてしまったのだろうか。そんな馬鹿な。
ああもう、口の中を擽ってきてむずむずする。噎せようと咳き込むことも出来ない。鼻に入って余計つらくなるからなるべく誤嚥しないように必死に飲み込んだ。それでも甘くどろっとしたものが喉を通る度に気が遠のいた。
******
どれほど経ったか皆目見当もつかない。
ただ次に口からしっかりと息を吸えるようになった時には彼女は僕に全体重をかけていて、なのにものすごく軽くて、彼女自体はもぬけの殻で、糸の切れたニン形のように動かなくなっていて。
なんで、…………なんで? 希死念慮なんてなかったんじゃないのか。計画がバレていた? 僕は彼女の前どころか学校でだってその話をした事がない。嘘をついてる風も、隠しごとをしてる気配すらなかった。彼女の見る世界には確かに未来もあって、ここで終わらせるような素振りは一度だってなかったんだ。だから僕は覚悟を決めようと。……いや、僕は端から覚悟なんか出来ちゃいなかった。何とかなるだろうと浅はかな考えで、ずっと目を逸らしてただけだ。そもそも兆しはあっただろ、今日だって食べ物を口にしたがらなかったのが何よりの証拠じゃないか。何で気付かなかった? 何してたんだ、僕は。
揺すぶっても、名前を呼んでも、冗談を吐いても反応はない。糸で吊れば動いてくれるのだろうか? また中にチョコレートを流し込めば目を覚ますか? 何もかも現実味がない。
……どうしよう。とうとう取り返しのつかないところまで来てしまった。もう逃げることは許されない。
ちゃんと考えろ。僕は次に何をするべきだ? 俺に残されたものは。
*
残された道はひとつしかなかった。
******
……中身を失った彼女の身体は少し硬くて、外殻のようなものだったけれど、ちょっと力を込めるとすぐに形が崩れた。パキパキと割れる様は何者にも形容し難い。空っぽだ。俺は一番卑怯なところから食べてしまったのかも。服の下、所々に巻かれた包帯は補強のつもりだったのだろうか。なんの反応も示さなくなった彼女の身体を触って、服のボタンを外して、なるだけゆっくり動かして、壊れていくうちにまたひび割れて、唇や耳朶はまだ少し弾力があって、首筋に入ったひびが頬まで進んでいって、ところどころは苦くて、でも吐きそうなくらい全てが甘ったるくて、身体が受け付けなくなっても食べて、食べて食べて食べて、咀嚼と嚥下を繰り返して、知りたくもなかった彼女の姿が顕になって、それから、それから。
******
記憶というのは不便なもので、一番最初の頃の記憶は靄がかかって何ひとつ鮮明に思い出せないのに今一番忘れたい記憶はまぶたの裏に焼き付いて離れない。
覚束無い足で街を歩いた。街と言えるところを歩いているのか分からないけど。
粉砂糖が降り積る、重りを課していくかのように。最初は足の周りを固定して、動けなくなったら頭の上まで被せて、押し潰す気なんだろう。
ぎゅう、と拳を握り締めると俺は何か持っていたようで、手のひらを広げるとボタンがあった。彼女が着ていた服のものだ。いつの間に、取ったんだっけ。
……昼に渡したキーホルダーでも持ってくれば良かった。
粉砂糖が甚だしくなって、空を睨めつけたら。
嫌といえないほどに美しい景色が広がっていて、ただ惨めになった。シュガー・スプリンクル・タイム……だっけ、彼女が過ごしていたがっていた時間。あの子はこの景色が見たかったのかな。なんで、彼女はあんなことを。
結局、最後まで彼女のことが分からなかった。
彼女のことが分からないままなのが、こんなにも嫌だと知っていたら。
見上げているとに落ちた粉砂糖が体温で溶けて、頬を伝う。……ああ、そうだった、あの子はいつも泣いていたんだ。感情と結び付かないと言っていたけど、悲しい時に涙を流さない訳ではなかったはずだ。だとすればあの子はいつ本当に泣いていたんだろう。なんで俺は気付いてやれなかったんだろう。もっと話してれば気付けたんじゃないか? もっと見てやれば知れたんじゃないか? もっと、もっと。
*
「ヤマイ」
崇高感のある声に、ふと現実に引き戻される。
「……お、かあさま」
「君はよくやった」
お母様の言葉でやっと頬に伝うものが何か理解出来た。粉砂糖ではない、自分の目から溢れた紛れもないニンゲンの証。俺たちがなりたかったもの。
ああそうだ、やっとニンゲンになれたんだ。やっとお母様と、きょうだいたちと本当の家族になれる。
「さあ、こちらへおいで。新しい家族が、君を待っている。地球に辿り着くまで、ゆっくりと……おやすみ」
首に何か感触が伝って、徐々に意識が薄れていく。
少し眠い。俺は、休んでもいいのだろうか。
休むことをすら許されないと思ってた。
もし、もし少しだけ休めるのなら、それが許されるなら。どうか夢の中でいいから、あの子に会いたい。
そしたらまた俺と、話して欲しいんだ。
あの子は嫌がるかもしれないけど、今度こそ礼儀を持って接するから。俺の気持ちを教えるから、伝わるか分からないけど伝えたいから。
どうか、どうか。
そんな淡い期待を抱きながら意識を手放せるなんて、案外俺も幸せだったのかも。
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