御心のままに

タイトルの言葉は、我々クリスチャンが祈りの中でよく使うもの。どんな祈りや願いも、神の御心にかなうものならばかなえられる、という考え。宗教観の無い日本では、願掛けやら厄払いやら多方面で行う人が多い。かくいう私も、かつてはそうだった。ただ、そこまでしてもかなえられない願いもあったわけで、その落とし所を見出した結果、受洗したのかもしれない。御心にかなうかどうか、自分の行く末をすべて神に委ねるほうが、期待を裏切られない分ダメージは少ない。
突然、妊活の話に飛ぶ。現在目下妊活中なのだが、我々クリスチャンはどこまでの不妊治療を「是」とするかが非常にセンシティブな問題だ。というのも、妊娠、出産は「神の領域」と捉えており、そこに人の手が加わることを「非」とする考えが教義にもある。カトリックに至っては避妊すら教義に反するのだ。何年か前に体外受精の研究がノーベル医学生理学賞を受賞した際、バチカンは非難の声明を出した。しかし、日本のクリスチャンは人口の約1%、そんなマイノリティーの考えがまかり通らない妊活事情がある。
現在、私が行なっている治療はタイミング療法というもの。卵巣の大きさを見て、排卵誘発剤を注射し、医者からGO signをもらって、その晩、夫婦の営みをする、という手順。このタイミング療法から上のステージが問題なのだ。
ステージ1:人工授精…消毒し、遠心分離にかけた精液をシリンジで子宮内まで入れて授精させる、というもの。一時、畜肉販売をしていた経験から見てしまうと、牛や豚やらの畜生と同じ手法じゃないか………と思ってしまう。このステージは、カトリック以外のどの宗派にとってもグレーゾーンで、禁止はされていない。
ステージ2:体外受精…選別した卵、精子を体外受精させ、受精卵だけ胎内に戻すもの。一時、魚の養殖の実験をしていた経験から見ると、ほぼそれと同じじゃんか、と思ってしまう。魚は戻さずそのまま孵化させるけど。
ステージ3:顕微鏡受精…精子に運動性がない場合、授精後の核融合まで助けるもの。試験管ベビーと言われても仕方のない、非常に機械的な作業だ。

実際、体外受精で子どもを授かった友人に話を聞いた。奇しくも同じ病院で治療していたためである。

「体外(授精)でね、3個受精卵が出来たの。1個おなかに戻して生まれたのが長女。2個は凍結保存していてね、今度そのうちの1個をまた戻して、今2人目妊娠中なんだ。3個目はいつ頃戻そうかな♩」と嬉々として語った。彼女は長らく子宮内膜症を患っており、妊娠が一番の治療、とのことで早いうちから上のステージで妊娠を試みていたのだ。
私も子宮筋腫があるので、治療の意味も込めて妊娠を希望しているが…話してくれた友人には悪いが、あまりに機械的、計画的な妊娠に違和感をおぼえたのだ。
聞くだけ聞き、私はその選択肢を絶対にとらないことを決心した。

今、直面している問題は、タイミングから人工授精に切り替えるか、かどうかだ。手順を聞いてしまうと、どうしてもステップアップする気になれない。それに、保険適用外のその治療を試みても、確実に妊娠するわけではないのだ。

この状況、かつて大望があって、そこいらの寺社仏閣に参拝しまくっていたころに似ている。しかし、今は唯一神を信仰している身で、すべてを神に委ねるポリシーを持っている。だから、人の手が入る妊娠の方法には、やはり違和感が拭えない。御心のまま…ではない、確実に。

一応、その旨を医師に伝えたら、儲かる治療ができないためか、非常に渋い顔をされた(何かインフォームドコンセントだ)。
一番腹が立ったのは、なんと身内(父)の一言だった。
「人工授精でも、体外受精でもいいから、早く孫を抱かせてくれや」
怒髪天を突いた私は、お金の話を持ち込み、まくし立てて父を完膚無きまでに論破した。娘の反撃に父は凹み、それ以降何も口出しはしてこなかった。母は仏教徒ながら、ある程度理解してくれており、人工授精に躊躇いがあることも承知してくれた。
「でも、あんたたちは、それ(子どもができなくても)でいいの?」
と母に言われたが、正直できないならできないで良い、と思っている。御心ならば、仕方ない。受け入れよう、と。

この、少し諦めに似た気持ちを、同性になかなか理解してもらえないのもストレスだ。
「もっと頑張ろうよ!」とよく言われる。
でも、頑張ってないわけではない。治療のステージを上げることがもっと頑張ることなのだろうか…だとしたら、いのちは随分軽くなったものだ。金をかけた分=頑張りなら、いのちは金で買えることになる。そう結論づけると、やはり不妊治療の大半は、神の御心にかなわない。

本人とその伴侶が同意した結論に、周囲は遠慮なく水を差してくる。本当に生きづらい社会だ。

神様、御心のままに。

#妊活


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