【蓮ノ空感想文】めぐちゃんへのらぶれたあ

いつもの前振りができなくて困ってます。
KOH(コウ)やコウちゃと名乗っているものです。

普段フリースタイルで好き放題noteに文字起こししているのですが、存外いろいろな方に閲覧いただいていて少しばかり恥ずかしくなっております。勝手に発信しておいて見られるのが恥ずかしい#とはみたいなところがありますが。

さて、簡単に自己紹介いたしますと、自称多趣味なニンゲンです。サブカルって言葉に丸めてしまえばおしまいですが、アニメ、ゲーム、漫画の鑑賞から、エレキギター、カラオケ、ライブ鑑賞など音楽系の趣味、謎解きやボードゲーム、また聖地巡礼を軸とした旅行などいろいろやっております。昨年末からはnoteに殴り書くのも趣味にしております。で、noteで物書きの真似事をしておりましたら、都合よく興味深い企画が舞い込んできましたと。


ふぅん。

前回振り返ってから4半期経ちましたし、この3か月間も非常に密度の濃い供給がされていたので今一度振り返りたいと思います。この1年の総まとめにももってこいですね。

にしても、もうすぐ1年になるんですね。蓮ノ空に出逢ってから。そして藤島慈さんに出逢ってから。

今回は、藤島慈さんについて感じたもの、受け取ったものについてお話したいと思います。オタクの文章読みたくないよぉ😭という方向けに私の主張をまとめておきます。あとは適当に火を入れて可食部を加工してください。大きく3つの主張に帰結します。


☝つい見失いがちな『自分を認める心』

藤島慈さんの魅力はと言えば「かわいさ」ですよね!!!!!!
そうなんです。かわいいんです。彼女。たまに、むかつく、くらいには。
しかし、そのかわいさをただ受け入れてしまっては、藤島慈さんがただのかわいさの安打製造機に成り下がってしまいます。

私たちに見せる『藤島慈』の姿とは、漫然とした「かわいさ」ではないですし、彼女自身もただ愛想を振りまいているだけではないですよね。藤島慈さんから発せられる「かわいさ」とは「努力に裏打ちされた、自身の確信を持ったかわいさ」です。

さて、ここで1つ学びがあります。それは私たちが見落としてしまいがちで、彼女自身は(おそらく)無意識で行っていることです。ずばり『自己肯定≠成功体験』です。つまり、自己肯定感とは必ずしも成功体験から生まれるものではないということです。私自身がそうなのですが、成功体験ばかりが先行してしまい、物事がうまくいっていないときにはつい自分を見失いそうになってしまうことが多々あります。しかしながら、彼女はその振る舞いを持って、自身の努力を認めてあげること、『成功体験なんてのはついでについてきちゃった。』くらいなものなんだことを教えてくれています。

成功体験というものは、客観的には真に頂点に立ったもののみが与えられるもので、その他の平々凡々とした民草はどこかで成功が失敗へと置き換わります。この、「置き換わり」というのが私たちをややこしくするもので、今までの順風満帆な成功体験をたちどころに悪夢へと変え、そして私たち自身の方向性までをも変えてしまうものです。『ラブライブ優勝』に対する出力が『本線敗退』であり、その結果「私にはなにもない」と結論付けてしまったように。『憧れ』に対する出力が『人形』であり、その結果「スクールアイドルじゃない」と結論づけてしまったように。『みんなを夢中にさせること』の出力が『踊れなくなる』であり、その結果「夢を諦める」と結論づけてしまったように。
夢とは無限大であり、私たちを前に進めてくれるものです。そして、それと同じくらいに脚を引っ張り続けるものです。

それでも前に進めるのはなぜか。

それは夢を掴まんと研鑽を重ねた「努力」をしたからです。

彼女は『靴』を「努力のかけら」として積み重ね、そしてたまに後ろを見ては思うのです。『ずいぶん遠くまで走ってきたなー』と。

そして後ろを振り向いたとき、または脚を止めたとき、誰かが追いかけて、追い越してくれることを彼女は希ってもいます。

そんな彼女だから強いのではないでしょうか。

✌『ハッピー至上主義!』笑顔を求めるエンターテイナー

藤島慈さんの原動力である『楽しい』。その起源にはいつも自身と誰かがいます。

自分自身が楽しむこと。それは比較的誰もができることです。(好きを見つけることができればですが。)(実はかなり高度な要求なんじゃないかとお最近思い始めております。)(というのは、さておいて。)
では、その「楽しい」を他者に向け、共有することができますでしょうか?文字に起こすのは容易ですが、行動を伴うとその難易度は格段に跳ね上がります。

しかし、藤島慈さんはやってのけてしまいます。『世界中を夢中にさせる』ために。いえ、たった一人の女の子のために

とても一途で、優しくて、自分に正直で。だけど、大好きな人には素直になれず、大好きな人の"理想の私”のために努力してしまうお人よし。

この『たった一人を笑顔にする』ことが、巡り巡って『世界中を夢中にさせる』トリガーになっております。そのプロセスにおいてはなかなかにぶっ飛んでおりますが、その行動力と自己研鑽能力、特に自己の分析能力には目を見張るものがあります。自分の強みを理解し、その強みを尖らせることで鋭利な武器とし、誰かの心を打ち抜く。『たった一人の女の子のため』にしてはいささかオーバースペックな武器な気がしますが、『世界中を夢中にさせる』には十分でしょう。

「常に自分じゃない誰かの『楽しい』を思って行動する。」
改めて問いますが、簡単なことでしょうか?
私たちも他者の笑顔を考えるエンターテイナーとして日々を過ごしていくべきなのではないでしょうか。

👌「利己と利他」相反する二つを橋渡す『楽しいが一番!』

『藤島慈』というキャラクターは矛盾しています。

なぜなら、自分がかわいいことを理解し、我がままを貫いていること。自分がやりたいことだけを行い、興味のないことは一切やらないこと。自分が一番で最強であることを疑わない、一種のナルシストな面を持っております。この取捨選択と大胆な自己投資に、努力は惜しみません。『360° 私が好きな私でいたいから』

方や、誰かのためなら、誰かの思う"理想の私"のためなら、誰かの笑顔のためなら、努力は惜しみません。『世界中 夢中にさせちゃう 嫌なことも忘れちゃうくらいに』

『藤島慈』というキャラクターは矛盾しています。
でも、本当でしょうか?

私には一貫しているように思えます。

自分がやりたいことだけを行い、興味のないことは一切やらない。
『楽しいが一番!』だから。
誰かのためなら、誰かの思う"理想の私"のためなら、誰かの笑顔のためなら、努力は惜しない。
『楽しいが一番!』だから。

そう。彼女は利己的でそして利他的なんです。しかしその矛盾は、矛盾として表面化することはありません。なぜなら、利己も利他も地続きであり、結局、自分を含んだ『みんな』が楽しいのが良いというマインドだからです。

藤島慈さんはたった一人で、「利己的であって良い、けど利他的にもあるべきだ」という主張のストーリーテラーを担っているわけです。(無理やり一単語にまとめるならば、「超利他主義」とでも表現すべきでしょうか…?)

結び

私が勝手に藤島慈さんから受け取ったものについて、自由につらつらさせていただきました。

『私たちって最強じゃん』

その根本には、「努力に裏打ちされた自分を認める強い心」を持つこと。そして、「誰かの『笑顔』のために動き続けるエンターテイナー」であること。そして「利己的で利他的な楽しいを共有している私たち」は『最強じゃん』ということがあると考えております。

噛み砕きますと、『かわいい私が楽しいことをしていれば、みんなが幸せになる!だからみんな私のところにおいで!』です。あれ?やっぱ超利己的な気がしてきたな……?まぁいいや……。

冗談はさておき、私たちが藤島慈さんから学ぶべきポイントは3つあると考えております。

1つ目は、自分の努力を認めてあげること。
私たちはどうしても成功体験を求め、その体験をもってして自己を肯定しがちです。しかし、それはその過程を無視しております。『奇跡』が『軌跡』として『その意味が変わってく』には、日々の連続の中の努力に目を向けるべきであり、その努力をもってして自分を認めてあげる必要があるのではないのでしょうか?

2つ目は、誰かの笑顔を思うこと。
私たちは、人と関わって生きてきております。そして、その他者を軽んずることは本当に良いことなのでしょうか?いいえ、が正しいでしょう。
どこかの誰かの笑顔を思うことは、決して簡単なことではないです。しかし、先駆者は「情けは人の為ならず」と偉大な言葉を残しております。笑顔も同じではないでしょうか?

3つ目は、楽しいの共通項は自他を幸せにするということ。
結局『楽しいが一番!』ってわけ。Q.E.D. (え、めぐちゃん、証明問題解いたことあります……?知ってますよね……?不安になってきた……。)

なんやかんや学びやら理屈をこねこねしてきましたが、私はお顔のかわいい藤島慈さんが大好きです。

彼女に残された1年。この1年で私は何を感じ、何を学べるのでしょうか。楽しみです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?