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2022.09.29

まず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君がなにかをしみじみと感じたり、心のそこから思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうしてどういう場合に、どういうことについて、どんな感じを受けたか、それをよく考えてみるのだ。そうすると、ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、くりかえすことのないただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかってくる。それが、本当の君の思想というものだ。

『君たちはどう生きるか』

導いていった先に瞑想の状態がホンの少しだけあった。もちろん月礼拝というシークエンスが完全なんだということは一旦傍に置いておいて、その状態を作れたことが嬉しく、ヨガでたどり着きたいのは、これだとあらためて思った。自分が「受ける側」ではなく、「やってみる側」として、たった、まだ2回しか体験したことがない未熟で、不完全な中に「これこれ」といった感覚があったことに、心が動いた。頼りなくでも、いったん、やってみること、とうまくいかなくても形を変えていきながら続けていくことが大事なんだ。一度やると自分の中で腹決めたことは、続けやすい体質なんだ。

演劇のことについて。演劇、演劇演劇、演劇。演劇。かっこよかったな昨日のみんな。まず、下北沢での本多劇場でのイキウメの舞台は完璧だった、1時間半一度も目を離せず、小説をぶっ飛ばして読み切った時の充足感。確実にあの舞台によって、食に対する意識が揺るいだ。お客さんのその後の生活を変化させてしまうといのは、影響力という点においても、役者さんの完全な演技も全部惚れ惚れするほど完成していて、凄かった。ただ今は、桃歌さんの公演について語る。桃歌さんの昨日のは、ボディブローみたくじわじわと尾を引いて今も止まらないのだ。要因は、彼が携わっているのを垣間見せてもらっていたことや、ゲネプロを見せてもらったからで、それは舞台裏で作っている人たちの温度を体感したから。全部を繋いで、合わせていく、役者も演出も客席に座って舞台に眼差しを向けている、あのゲネプロ特有の空気の厳かさと親密な感じ。思い出しても泣きたいくらいだった、何だアレ、私もやりたいんだけど。魅力的だ、彼含めそこにいる人間がぜんいん。かっこいい。真面目に芝居やる人ってあんなにかっこいいのか。ああいう魅力を持った人になりたく悔しい、あと彼を芝居にとられたようで、悔しい。ダブル悔しさ。K .O (かっこわるくても残しとけこういうことは)



いつだか鳥取の人とこんな話をした。人間関係、ことパートナーシップ関係において、対話の場で控えめな相手に対して、「リングにあがってこいよ」とボクシングに例え、リングに引きずりあげる派の人と、諦める派の人の話。全て自分が悪かったと100−0で勝負を決めようとするのは諦めているし、100で相手に非があるとするのは、我が身の振り返りが足りなさすぎる。ただ本当に参っている時にもそれは出てしまうので、その時には一旦クールダウンが必要。トラブルが起きた時、その時の状況を作り出したという文脈込みで捉えると100-0で判定可能なことは、ない。喧嘩をふっかけにいくタイプではないけれども、以前に比べて、塞ぎ込むのではなくぶつかりにいくだけのエネルギーが出ており、矢印を自分にクヨクヨ向け続けていた時とは違う向きが今確かにあるのは変化。リングに今はちゃんと上がると決めている。

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