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福音の扉 第一話

暗い海上をなにかが漂っている。
歪な木箱に見えるそれは小船で しかし帆もなく 漕ぎ手もなく 波で上下に揺らされながら それでも沈むことなく西へと流されている。

雲間から射す月明かりが波飛沫を光らせ その粒を受け鈍く輝く金色の髪はこの船唯一の乗員のもので 毛布に包まり微動だにせず ただ波に揺られている。

突如 小さい悲鳴と共に 髪が跳ね上がった。悪夢により妨げられた束の間の眠りは浅く それでも主に身体を動かすだけの回復を与えたに違いない。毛布が揺らぐ。髪は潮と汗でベッタリと首筋に貼り付き 咄嗟に束ねようと差し込まれた手は痛みと共に拒絶された。指のことを失念していた自分の間抜けさに 女はひとり自嘲した。

深呼吸をする。冷えた空気が肺を満たした。息苦しさはない。重い目蓋の奥にある青い瞳は月を仰ぎ、眩しさからすぐに海の闇へと向いた。水平線は月光を淡く吸い ほのかに白く燃えている。

しばらくそのままでいたが

ふと、その白い炎が遥か遠方 闇に立つ人影の群れに見え 恐ろしくなり 頭から毛布を被った。

広がる夜の海は漆黒のスープのようで 自分はそこに浮かぶ一粒の麦ではないか。そしてそのスープを啜る存在には 矮小な麦粒を探し出す目があるに違いない。連れ去る手があるに違いない。飲み込む口があるに違いない。 最後のちからで生命の火を灯し続ける身体は自身を包むたった一枚に縋った。それは死と己とを隔てる殻だと信じた。

白み始めた空が運んできた風は冷たく、毛布の端をはためかせ白い腕がのぞく。月明かりのもとでは隠されていた紫斑が見て取れ、その指ゆびには醜い腫れ物があった。まるで赤い指輪のようだ。

ただ波だけが小舟を押す。

どれくらいの時間が経ったか やがて船底が砂の海底に乗り上げたとき 指に巻き付く腫れ物のひとつが破裂し 膿が流れ出た。虚ろな瞳で自身のそれを眺めた。

船から這いずり出で 身を刺す海水を浴びながらやっとで浜辺へと上がる。朦朧としながら仰向けに転がると 高く昇る日を温かく感じた。女はやがて立ち上がるだろう。膿の放出は肉体がこの悪疫に打ち勝った証なのだから。

17の世紀と57年目の秋
潮は病魔により死の淵を彷徨った女と1枚の毛布 彼女の棺桶となるはずだった粗末な小舟を次の陸地 モルダヴィア へと運んだ。

ーーー

「ポンコ、ポンカー、ポンケスト!」

男は今日も朝の発声練習を欠かさない。彼は自分を取り巻く世間をクソだと思っていた。全く気に入らない人間たちに囲まれ、気に入らない金を(親から)貰い、気に入らない食事をして、気に入らないクソをして、気に入らない寝室で眠りにつき、また気に入らない日を迎える日々にうんざりしていた。

「出ていってやる!  こんなところ出ていってやる!」
男は自室で息巻いた。そのためには外国語を習得する必要があった。

「ポンカ、ポンコ、ポンケスト!」

どうだろう、発音は。ネイティブに通じるだろうか。かれこれ 2年は続けているから 相当なものになっているはずだ。

「ポンコ、ポン
「うるせー! 仕事しろ! 無職が!」
近所のハゲが怒声を浴びせて来た。

まただ。また邪魔をする。価値あることをなにもわかっていない、取るに足らないやつらが邪魔をする。男はチッチッと舌打ちをしながら発音練習を中断した。無職というのは本当で ついでにいうと近所のハゲも無職だった。男はこのハゲの 無職のくせに他人のことを無職となじれる異常性に恐れを抱いており、なにも言い返せなかった。

町には22体の像があった。それは言い伝えによれば鼠の像であり、言われてみれば確かに鼠…かなぁ というレベルでの鼠っぽさでしかなく結局のところはなんかの動物っぽい像っぽいなにかで、地元のジジイやババアに聞けば「なんだか知らんが昔からあった」という類の忘れ去られた遺物だった。

この日、像のひとつに町長が頭をぶつけた。

おふれは突然出た。町長直々である。
「あの小汚いゴミクソなんの動物かも分からないクソ像をひとつ残らず駆逐することにした。ブチ壊せ。知性の高い県庁職員にそんな仕事させられないからクソ無職ども、22体の像をやれ。で、最も知性の高いクソを一名、役人として取り立ててやる。」

町中の無職は沸き立った。町長のいう県庁職員がなんなのかは分からなかったが、役人に登用される千載一遇の機会だ。

こうして海岸近いひとつの町で はからずも無職たちによる鼠像撤去競争が開催される運びとなった。後に言われるモルダヴィア・知性バトルロワイヤルである。

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