木に括られた小象5

そう、1995だ。

おれは絶望と、諦めに似た僅かな甘ったれた望みを抱いて高校に通いだした。

本願校を実に三回変えての入試をし、滑り止めには落ちるという大失態をしての高校だったから。

こんだけバカな学校だったら、きっと楽しい事で一杯なんじゃないのか?大勢のバカ共が必死になって通いたがる”マトモ”な高校な訳だしな。と、思っていた。

折しも世間はギャル、コギャル、ギャル男、援助交際、ブランド品、チーマー、・・・・そんなもんで溢れ返り、それらがかっこいいとされていた時代。

バカ共が通いたがる”マトモ”な高校は新入生以外はそんな感じで、酷い奴はバーバリーのマフラーを頭にターバンみたいに巻いてる奴まで居た。

おれの中学は茶髪が一人も居ない事で有名だった位だから、おれは物凄いカルチャーショックを受けて、たちまち飲み込まれた。

それでもおれはルックスも、そこそこ良かったと言うし学業も優秀だったので暫くの間は一目置かれていた。

けれども、クラスのゲームやアニメが好きな、いわゆるオタク男子達と仲良くなりだしてからは一気にカーストが下がり、クラス中から「お前」呼ばわりされる様になった。

けれどもおれは、せめて一年は高校に通おうと思った。

それまで親に強制的にやらされていた水泳も、一年生で水泳部のフリーとバタフライのレギュラーだったにも関わらず辞めて、美術部に入って毎日デッサンを狂った様にしていた。

しかし、美術部での評判は良くなかった。顧問の先生や先輩には漫画みたいなデッサンだと言われ続けた。漫画を描くオタク美術女子には大層褒められたのだが、総じて「そんなんじゃ美大には受からない」と太鼓判を押された。

それでもおれは、描いた。

何よりも美術部はおれ以外は全員女の子だったというのが居心地が悪かった。しかも可愛い娘は一人も居ないんだから・・・・。

男がおれ一人居ただけで居心地の悪かった鍋パーティーを、おれは決して忘れない。

そして、おれは二年生になってからは誰とも口が聞けなくなり、休学をした。

・・・・それから、おれ自身も何もかもおかしくなり始めたんだ。

・・・・

バブルに乗って小さな事業を起こした父親が家から出て行った。

婉曲な別居だ。

きっと、父親の事が大好きだった妹には耐え難い事だったに違いない。

おれは、部屋を荒らしてエッチな本だけを暴く元凶が居なくなってせいせいしたけれど。

おれは無為な生活をしている内に、母親に市の少年センターへ行く事を進められ行く。

驚いた事に、其処では最も憎むべき中学の二年間を受け持った副職坊主の学年主任・深代が相談員をやっていた事だった。

おれは毎週90分間尋問される屈辱を受け続けた。

一番最後に深代が言った言葉

「まざわ(当時の性)、センズリこいてるか?生きるって事はエロイ事なんだからな!」

だってさ・・・・。

おれは少年センターに通わなくなり、レンタルビデオショップとジーンズ屋でバイトを始めた。

・・・・

服と金を手に入れて、おれは少しずつ夜の闇へと身を浸していった・・・・。


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