土下座してでも博士号がほしい

はじめに

幼少期

学生期

就職そして留学

壮年期

自分なりの挑戦

挫折

博士号の利点

博士の役割

そして現在



はじめに

 この文のタイトルをみて、博士号保有者はどう思うだろうか。「いやー。博士号なんてたいしたことないんですよー」という恵まれた方とはお友達にはなれない。どう恵まれているのか。まず、その能力には一定のお墨付きがある。次に、大学をでても就職しなくて済んだ、または企業での研鑽がみとめられて学位論文が書けた、ということはお金の心配をしなくても研究を続けられたという経済的な優位性があったということだ。

 最近では事情は違ってきているのかもしれないが、通常、日本で博士号を得るには、大学の学部を卒業した後、5年間は大学院に在籍して学業というか、正確には研究生活を送らないといけない。26、7歳にならないと博士にはなれないわけだ。大学院の博士だと、それまで奨学金をたよりにするか、親の仕送り、あるいはアルバイトなど、なんらかの経済的なバックグラウンドがないと続かない。

 わたしの家は貧しく、大学が田舎だったため、親の仕送りも、アルバイトによる収入もみこめなかった。経済的にアウトである。そのため修士了の段階で企業に就職した。

 その後、企業で博士号を取れそうなこともあったのだが、この時は自分の怠惰のために機会を逃し、今に至る。ものすごく後悔している。

 本稿は、わたしの博士号に対する恨みつらみを縷々述べたものだ。後悔先に立たずというが、あのとき土下座してでも3年待ってくれと親にいうべきだった。もし、今同じような境遇にいる若者がいるなら、悪いことはいわない、なんとかして大学に残れ、そのほうが後々いいことがある、そういいたいための文章である。

幼少期

 自分がいつ頃から博士を意識するようになったか定かでない。それに関する記憶で一番古いものは少年漫画雑誌の何かの欄で、手塚治虫先生が医学博士号を持っていると知って、衝撃を受けたことである。今でも年代によっては「漫画など」とバカにする風潮があるが、わたしが子供の頃は漫画を読むと、「バカにする」のではなく、「バカになる」と本気で思っている人たちがいた。その漫画の神様と崇められる、手塚先生が博士号をもっている。先生は医者の道を捨てて漫画家になった。という事実に、言葉にできない感動を覚えたのである。先生が創出された「お茶の水”博士”」が、われらのヒーロー「アトム」の後見人だったことも、わたしのなかに「博士」という言葉にたいするキラキラしたイメージを植えつけた一つの要因だった。

 わたしの親が「いずれ博士か大臣か」などという言葉を冗談まじりでも口にするような年代の人だったため、わたしは「ああ、博士か。なりたいな」と思うような子供に育った。

 わたしが博士になれるような頭のいい子だったかどうかを、自己申告するつもりはないが、いつもボーっとしている割には学校の成績はよかった。これはおそらく学校教育の弊害である。中学校までの勉強は教科書をよむ読解力さえあれば、テストでいい点を取るくらいはなんでもない。その意味するところは、学校の先生は教科書以上のことは教えていないし、それで生徒の考える力が伸びるはずもない。

 しかし、経済的にはお先真っ暗だった。割と早い時期から博士号を取るための学歴の積み方を調べて知っていたわたしは、家にお金がなかったため、大学に行けるかすら危ないことを悲観していた。実際、わたしの4つ上の兄は工業高校卒で終わっている。

 とはいっても、当時10歳くらいの子供が10数年後をみこして勉強に励むことはなかった。漫画と遊びに夢中だったのだ。

 小中学校を通して、教科書は学校に置きっ放しだった。家では漫画ばかり読み、小学校高学年になると漫画が筒井康隆の小説にかわった。ちなみに、小学校低学年の頃にはまだ近所に貸本屋があってそこに漫画本が置いてあった時代である。

 

 博士というのが自分にとってどういうイメージだったかというと、とにかく偉い人であり、なんでも知っている。難しい計算ができて、ロボットの設計図を描く。雲の上の人だった。後年、大学に行くようになって実際に博士に会うようになると、学問的には確かに雲の上といっていい存在だったが、酒を飲んだり、タバコを吸ったり、人間臭い面をもった当たり前の人たちだった。

学生期

 兄が工業高校の電気科を卒業したため、自分もなんとなく電気っぽい道に進もうと思った。大学は工学部にはいった。学部の頃の勉強はあまり覚えていない。退屈だったし、成績は低空飛行だった。実験は面倒だったし、実験の後に書くレポートはなんのためなのか意味がわからなかった。今思えば、バカな学生である。それでも学部でおわるつもりはさらさらなく、4年の夏に大学院の入試を受けた。

 とりあえず、修士の2年間は確保できた。家の経済事情はかなりきびしかったが、父がそれなりにアルバイトもすることを条件に車を買ってくれた。

 大学院になると講義の名前は「情報工学特論」のように「特論」がつくようになる、修士で確か20単位ほどの「特論」を履修することになるが、内容は大したことはない。しかし、今50歳を越えた年寄りが当時を振り返って「大したことはない」といっているだけで、まだ右も左もわからない若造にはそれなりに難しい講義だった。

 専門はデジタル信号処理で高速フーリエ変換についてコンピューター・シミュレーションで変換の精度を研究するのが修士論文のテーマだった。

 当時、わたしがいた大学には博士課程がなかった。わたしが修士を終えて就職した翌年に博士課程ができたらしいが、就職してからのことなので詳しいことは知らない。そこで、他大学の大学院受験を考えた。わたしは決して優秀な学生ではなかったのだが、根拠のない自身があった。それは「研究には向いている」というもので、その思いは今もかわらない。

 修士2年のときに翌々年に博士課程ができることは風の噂で知っていたので、今考えれば1年浪人すれば、楽に博士課程に潜り込んで、こんなバカな文章を書いていることもなかっただろう。

 修士課程の2年間は、青春期の最後ということもあって、キラキラ輝いていてもいたし、なんであそこまでバカだったんだろうという後悔もある2年間だった。いうまでもなく学生の本分は勉学に励むことである。学校というところにはそのための資源が豊富にある。社会人になった今となってはその資源にアクセスするには特別な許可が必要だ。学生であれば学費だけで、ほとんどオープンに図書館や研究設備が使えるのに、それを利用せずにコンパに明け暮れ酒ばかり飲んでいるのは、時間とお金の無駄である。たとえば、社会人になってから、研究でなくても、かりに趣味のオーディオ機器の特性を知るためにデジオシが欲しいと思ったとしたら、買うしかない。

 わたしがバカ学生だったことはさておき、進路のことである。経済状態からして就職するしかない。劣等生だったわたしに大企業に推薦の道はない。就職試験で2回不採用になり、3社目で採用の内定をいただいた。

就職そして留学

 就職先は大学の同期のものたちのように、大手の企業ではなかった。夢も希望もなかった。配属された部署で「君は研究者のほうが向いている」と言われたし、自分でもそう思った。研究者になりたいのであれば、博士号がいる。会社に入って半年で会社の上司に辞めたいと申しでた。辞めて、大学に戻るつもりだった。

 しかし、人生はなにがおこるかわからない。会社の上の人が、「君を留学させる予定だ」とわたしにいったのだ。留学先は関連会社のあるアメリカ、カリフォルニアである。

 衝撃的なことだった。博士に憧れていたのが、もしかしたらアメリカのドクターコースにいけるかもしれない。Ph.Dになれるかもしれない。Ph.Dというのは

Doctor of Philosophy の略で、昔の学者はすべて自然科学も含む哲学(Philosophy)の博士だったことからきている。日本語で哲学と書いてしまうと誤解をうけやすいが、Philosophyは学問のすべてを含む学問の基本なのである。日本人でも海外で学位を取得した人はなんとか博士ではなく、Ph.Dを名乗る人が多い。その方が正確であるとともに日本の学位との差別化を明確にできるからだ。簡単にいえば格上だということ。ちなみに、日本の学位も近年では昔の〇〇博士ではなく博士(学術)のような表記が一般的になった。これは英語で論文を書くときの著者のタイトルとして、Ph.D (Engineering) のようにしたいからで、それまでの D. Eng よりは通りがよい。修士の場合はMA, MS (Master of Arts, Master of Science)のように書く。アメリカでもう一つのドクターであるお医者さんはMD (Doctor of Medicine)と表記する。

 もう少しアメリカでの博士事情を書くと、かの地では博士を取得できる年数に幅がある。標準的な単位数は日本とだいたい同じだが、1年でとる人もいれば、パートタイムで学生をやり10年かかる人もいる。ちょっと記憶があいまいになっているが、修士を終えると博士課程へ進むための予備試験を受けることができ、合格すれば博士候補 (Ph.D candidate) になる。

 

 いろいな経緯があって、アメリカの英語学校で1年間英語を勉強した後、ある大学のマスターコースに入学を許可された。

 学部卒業者が大学院に進む場合は、GRE (Graduate Record Examination)という試験を受け、その成績でいける大学院のレベルが決まる。わたしの場合はアメリカで中くらいのレベルの大学院に願書をだし、合格の通知を受け取った。そのことを英語学校の教師に伝えたとき、教師は「信じられない」という顔をしていた。よほどボーっとした印象を与えていたのだろう。もう一つ外国人の学生に課せられる試験はTOEFL (Test Of English as a Foreign Langage)という英語の試験で、これはまあ、大学院すれすれくらいの成績だった。

 

 アメリカの学生はよく勉強する。講義もハードで、毎週ホームワークがでる。科目の成績は、出席、ホームワーク、定期テストが評価に勘案される。わたしはただでさえできのよくない学生だったのに、英語のハンデがある分、ホームワークに苦労した。週に3コマ講義をとると、週末2日間はホームワークをこなすのに精いっぱいで、遊ぶ暇などない。土日は朝6時に起きて、課題の問題を解き始め、食事以外はずーっとそれにかかり切りで、夜12時までという生活を1クォーター12週間続ける。その間に英語の特別講義と修士論文を書くたの研究、担当教官とのゼミをこなす。夏休みも研究室に通いゼミと論文執筆。相当にハードな生活だった。

 

 博士課程に進むためには、前述の予備試験にくわえて修士の科目の成績をGPA (Grade Point Average)で表したときに3.5以上が要求される。

 予備試験は3教科の試験を2回で全科目パスすればいい。アメリカ人の学生からすると割と簡単で、周りで試験対策をしていても緊張感のようなものは伝わってこなかった。現地の学生は傾向と対策をしっかりやっていて、言葉の問題もないので、よほどのことがない限り落ちない。わたしは「よほどのことがない限り落ちない」というところだけをうわさで聞いて、ほとんど準備をしなかった。もっとも、準備をしようにも日々課題を期限に間に合うように提出するだけで精魂尽きてしまい、他のことをする余裕などなかった。

 予備試験は口述で行われる。試験官3人の前で問題を1題出されそれについて論じるという形式だった。

 わたしが記憶している問題は、「理想ローパスフィルタについて述べよ」というものだった。ちょっと専門的になるが、書いておくと、理想ローパスフィルタなるものは実現不可能で、その不可能性はインパルス応答を求めるとそれが因果律を満たさないことで示される。まずは、要求される周波数応答からフーリエ変換でインパルス応答をだして、インパルス応答を示す関数が、t < 0 つまり入力が入る前から0でない出力を出していることを示せばいい。要するに、あっ信号がくるなと構えていて信号の到達前に出力を出していないと理想的な周波数応答が得られないので、因果律を満たさないことになる。あとで知ったことだが、この問題は高確率ででる問題でしかも易しいほうだった。今なら、ちゃんと道筋もわかっているし、口述となれば、式の展開も容易に暗記できるのでなんてことはないが、当時はいっぱいいっぱいだった。英語も下手くそだったし。緊張しすぎて絶句してしまった。それでも試験官の教授たちは優しかった。式の展開を間違えそうになると、"Wait, wait, be careful" とか "Are you sure?"とかいって助けてくれた。それでも最終の実現不可能性を示すところまでいけなかったのは、今考えると情けない。

 ということで、予備試験は不合格になり、アメリカで博士コースに進学する道は永久に絶たれた。

 

壮年期

 子供の頃から博士になりたかったにもかかわらず、またとないチャンスをふいにしてしまい、失意のうちに帰国した。いつも思うことだが、何をするにしても詰めがあまいのが悪い癖だ。

 帰国したときわたしは29歳。研究者として一応認められるためには、なにかそれなりに業績をのこしていないといけない歳だ。それまでのわたしの業績といえば、日本の大学院にいたときに学会誌にショートペーパーを1本掲載されただけだった。

 研究の業績というのは論文数に尽きる。ちゃんとした査読のある学会誌にフルペーパーといって、ある程度まとまった論文が掲載されることが一番わかりやすい業績だ。それがあると、たとえば大学で職を得ようとしたときに業績欄に論文のタイトルを書ける。当然論文数が多い方がいい。また、論文の質は投稿した学会誌のレベルと被引用数で判断される。被引用数というのは、何本の論文が自分の論文を引用したかということで、多いほど影響力のあるいい論文ということになる。

 一般的にいって、博士号というのは研究者として立つためのライセンスのようなもので、博士号取得者は自分で研究計画を立案して、それを遂行していくだけの力量をもつものとみなされる。自然科学系の大学で職を得るにはほぼ必須の学位だが、それがなければ大学で教えられないかというとそうでもない。

 また、研究者というのは職業をいうのではないし、資格も学歴もなくても研究をして論文を発表すれば、その人は研究者だ。ただし、そいういったいわば在野の研究者はよほどの業績がない限りどこへいっても肩身の狭い思いをする。

 この辺の事情があるので、アカデミックなキャリアを積むためには博士号はなくてはならない。そこでそれをショートカットするビジネスが存在し、アメリカでよくいわれるディプロマミル(学位工場)と呼ばれる大学がある。端的にはお金で博士号を買える。当然であるがディプロマミルといわれるような大学は正規の大学として認められていなし、そこがだす学位は世界のどこでも通用するものではないが、事情を知らない人は騙されてしまうこともある。

 わたしは民間企業に就職したので、可能性としてはそこで研究をして学位論文を書けば博士号を取得することができたのだが、会社でそういうことは認めてもらえず、帰国以後はソフトウェアエンジニアとして仕事をした。そしてそれから15年ほどは研究とは縁遠い生活が続いた。

 一応、会社の開発部門に籍をおいていたので、対外的には博士様たちと仕事をすることもあった。たとえば、某自動車メーカーの研究所に営業に連れられていったときには、受け取った名刺全部に「博士(工学)」と印字してあったことにやりきれない思いをした。

 日本には世界的にみて特殊な「論文博士」という制度があり、博士課程で研究をしなくても、企業の研究所で論文を書いて大学に提出し博士号を取得することができる。これだと大学の博士課程でとるよりは学費を安くあげることができる。しかし、最近の流れでは日本でも論文博士をださなくなりつつあるという。いずれ廃止になるのではないか。

 前段でもちょっとふれたが、アメリカの博士課程にはいろいろな年代の学生がいて、研究にたいするアプローチのしかたも様々である。日本の場合は、3年が年限となっていてそれをこえて論文が書けないと、「単位取得退学」といって博士課程に籍をおけず退学あつかいになる。ほとんどの人はその後に論文を提出して博士になる。

自分なりの挑戦

 さて、一度はあきらめた博士号だが、完全に諦めたわけではなく、独力で研究して学位論文を書こうと思ったのはもうすぐ50歳になろうというときだった。なんとなく日々の充実感が感じられず、結婚もあきらめたので暇な時間で勉強すれば道がみえるのではないかと思ったのだ。

 一般に研究というのはお金がかかる。比較的安上がりな文系の研究でも、資料集めやなんやかやで個人が負担するにはしんどいくらいの費用が発生するのは普通のことだ。だから、レベルの高い研究をするには大きな組織に所属するしかないが、テーマを選べば個人でも費用がなんとかなる場合がある。そのようなテーマの一つが数学だ。もともとわたしが修士で研究した高速フーリエ変換は、数学の手法であるフーリエ変換を高速で実行するアルゴリズムで数学の理論と親和性がよい。わたし自身は数学が専攻ではないので、本当に紙と鉛筆だけで研究を進めることができる純粋数学は手に負えないが、高速フーリエ変換のような計算機数学なら、なんとかなりそうな気がした。いろいろ考えた末、計算機の知識がいかせる数学の分野でも、ネット上の認証などで有効に使われている暗号理論を勉強することにした。

 とりあえず研究テーマを絞るための準備期間を5年とさだめ、基本的な文献を読みはじめた。

 暗号理論を理解するためには、基礎として数論の知識が必須だ。数論はガウスが「数学の女王」と呼んだように、理論的体系がしっかりしている。また、その応用は暗号だけでなく符号理論のような工学分野にもおよぶ。

 1年ほど文献をよむ過程で、中島匠一先生の「代数と数論の基礎」という面白い本に出会った。なにが面白かったかというと、数学という無味乾燥(普通の人がイメージするであろう数学の形容をしている。わたし自身は数学が無味乾燥だなどとは思っていない)な学問の教科書でありながら、ところどころに中島先生の人柄を想像させるコメントがついていて興味深かったのだ。

挫折

 5年経ったら研究計画をたてる予定だったが、一向になんの見通しもでてこなかった。数学の世界は奥が深い。自学自習で行き当たりばったりに本を読んだとしても、研究レベルの論文を読めるようにはならない。その点、大学院の学生には指導教官がついている。これは大きなアドバンテージである。研究テーマというのは自分で探すにはセンスがいる。博士論文の場合だと、3年で一応の成果がでそうか、博士をとるのに十分な難易度か、など総合的な判断が必要で、センスと経験がものをいうのだ。博士課程ではその方向性を指導教官が示してくれるので、非常にやりやすい。

 そこら辺の事情は百も承知だったが、ここでも自分を過信していた。自分にはセンスがあるはずと。

 見通がたたないまま、6年が過ぎ7年が過ぎ、他のことに興味が移ってしまった。論文やそれに関連したウェブサイトを見ているうちに、小規模な並列計算機の製作記事をみてしまったのだ。

 その記事ではラズベリーパイ(通称ラズパイ)を32個つないで30年くらい前のスパーコンピューターに匹敵する計算速度をだしていた。ちなみに現在ではスマホでも純粋に計算だけをさせることができれば、これを凌ぐ速度がだせる。ラズパイは1個4000円くらいなので、15万円だせば30年前のスーパーコンピューターを手にすることができるという事実に心が踊った。

 このことがきっかけで、ハードウェアの製作にのめり込み、そいこうしているうちに50半ばで会社を辞め、どういうわけか結婚することになり、子供が生まれと、わたしの人生に予想外のことが起こり現在に至っている。

博士号の利点

 博士号の利点はなんといっても肩書きがかっこいいことだ。修士では名刺に書く勇気はないが、もし博士を持っていれば迷わず書く。人間は肩書きに弱い。なのでその弱さを最大限に利用し、かつ自分の弱さを隠すことができる。専門バカといわれても博士までいけば箔がつく。

 もう50をとうにすぎて、いまさら研究職なんてどうでもいい。ただ転職のときに有利な条件をひきだしたい。動機が不純だろうとなんだろうと今の給料ではやっていけない。

 働きながら博士課程をとることも、都会ならそれなりに可能だ。都会なら。わたしが住む田舎では無理。

 放送大学でということも考えた。入学願書を取り寄せてみると、いきなり研究計画や先行研究について書く欄がある。それが書けるくらいなら指導教官につく必要はない。しかも、放送大学のレベルは認知度が低い割には高い。履歴書に学位を書く場合は、取得した大学名も書くのが一般的だから、認知度低、レベル高では割に合わない。スクーリングもめんどくさい、ということで放送大学も断念した。

 ああ、あの時に土下座してでも親に頼み込んでいれば・・・

 たった3、4年の違いで・・・涙。

 もう、お向かえが近いかもしれないこの歳で3、4年はきつい。

 

博士の役割

 日本には何人くらいの博士がいるのかちょっと調べてみると人口100万人あたり118人(2014年度)とある。

 (https://www.nistep.go.jp/sti_indicator/2018/RM274_35.html)

 

 1年につき1万人に一人くらいの割合で博士号取得者が生まれている。希少な存在であることはいうまでもない。

 この希少な存在は、局在する性癖があって、たとえば東京都文京区や茨城県つくば市などにいくと少なくとも1桁は存在確率は上がると思われる。博士の居心地のいい場所とは、大学や公的研究機関の周辺なのである。また、病院も好む傾向がある。

 博士の仕事はほとんどが研究活動で、アカデミアに近いところに存在するが、必ずしもそれに縛られない。それは医学分野の博士であっても、臨床が仕事とか、博士イコール研究者ではない例があるからである。

 一般人の感覚からすると博士には深い知識を期待してしまう。研究というものがどういうものか普通に生活している人には理解の範囲外だからである。おそらく一世紀前の博士であれば、その数は圧倒的に少なかっただろうからほとんどの人は博覧強記を絵に描いたような人だっただろう。

 それが学問が細分化されるに従って博士の守備範囲も狭まる傾向がでてきた。そこで博士は専門家というのが相場になった。

 大学の教官の場合は、自分の専門知識を学生に伝えることが仕事の一つになる。

そして現在

 もう諦めたのかというと、そうでもない。なんとなく自分の性分として、諦めることはない。今でも、”土下座”で済むのであればするいきおいである。

 ただ、この文章を書いたことで、ひとつ区切りはついた。自分のなかでの博士号の位置付けが腑に落ちた感がある。

 わたしが好きな「博士」の一人である森毅先生なら、こういうに違いない「ぼちぼちでええねん」。


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