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場違いな客

 一人旅の最終日に東京で一泊をした。
 十六歳の夏だった。
 新宿にある大型ホテルに部屋を取ってあり、チェックインをしたのは夜の九時過ぎであった。新宿の高層ビル街にそのホテルは位置しており、近くに飲食店は見当たらない。
 仕方なく私はホテル内で食事を摂ることにし、部屋を出た。
 ホテル内には日本料理屋とメインダイニングの鉄板焼レストランがあったが、いずれも値が張るので入るのがためらわれた。
 どうしたものかとホテル内をうろついていると、バーのような店があり、食事のメニューがボードに貼り出されている。ここならさほど高くもないであろうと思い、私は店内に足を踏み入れた。少しきらびやかな雰囲気が気にはなったが。

 店内に入るや、黒いベストに蝶ネクタイの男が現れ「いらっしゃいませ」とうやうやしく挨拶をし、品定めするような視線を私に向けてきた。
私は少し躊躇したが、軽く頭を下げた。
「おひとりですか?」
「はい…」
男に促され私は店の中へ通された。

 店内は薄暗く、怪しげな照明の中にL字型のソファーがいくつも置かれている。
 その一つに座ると、ボーイが床に膝をつき「お飲み物はいかが致しますか」と聞く。そう言われてもさっぱり分からないので私は小声でメニューが欲しいと告げた。
 ボーイが店の奥に消え、しばらくするとドレスをまとった年増の女性が私の元に現われた。厚化粧のその女性を見た瞬間、私は事態を呑みこんだ。
 グループだろうと思っていた数少ない客は、ホステスを相手に酒を飲んでいたのである。どうりで私の目の前のテーブルが膝丈ほどに低いわけである。
 ママは私に若干の戸惑いの視線と、母のような柔らかい視線とを同時に向け、「お飲み物は何がいいかしら?」とメニューを見せながら言った。ママはけして私の隣には座らない。
私はコーラなどでよかったのだが、十六歳なりに事態を把握し、またしても小声で「ソルティードッグをください」と言った。私が当時知っているた数少ない洒落た酒の名である。
ママは一瞬微笑を浮かべ「お腹はすいていない?」とやさしく言い、フードのページを開いて見せてくれた。
 すっかり緊張した私は、サッと視線を走らせ、「タンゴチキン…ください」と蚊の鳴くような声で言った。
 ママは再びやさしく笑いながら「タンドリーチキンね」と言い直した。私は顔が赤くなるのを感じた。
 そしてママは「少々お待ちくださいね」と言い席を離れていった。
 カレーライスでも食べようと思っていたのにクラブに入ってしまったのである。
 恥ずかしさと場違い感に押し潰されそうであったが、それ以上に支払いが心配でならなかった。
 程なくしてママがタンドリーチキンとソルティードッグを持って席に戻ってきて、それらをテーブルに並べると「ちょっと食べづらいテーブルでごめんなさい、ごゆっくりね」と言い去っていった。周りの客は皆ホステスに囲まれているが、私は一人ぼっちで食事を始めた。
 一気にチキンをほおばり、ソルティードッグを水のように飲み干す。ものの数分で私のテーブルの皿とグラスは空になり、私は帰るタイミングを見計らっていた。
 ママが躊躇している私に気付き、「あら、もう食べたの?」と驚き、他に何か注文するかと聞いたが、私は即座に首をふり「お会計してください…」と言った。
 ママは微笑みながら「かしこまりました」と言いドレスをひるがえしながら店の奥へ入っていった。
 さて、はたして幾らなのだろうか。私は生きた心地がしなかった。
 程なくしてママが席に戻ってきて、膝をつき「ありがとうございました」と言い、小さな紙を差し出した。
 私は震える思いで紙に書かれた数字を確かめた。
 そこには小さく『1,000円』と書かれていた。私は安堵し、ママにお金を支払い、店を出たのであった。
 
 大人の世界を垣間見た気がし、不安や緊張も喉元過ぎればそこで酒を飲んだことが嬉しく、少しばかり気持ちも高揚し、私は跳ねるように部屋へ戻った。
 四十を過ぎた今にして思えば、『1,000円』という会計はレストランと勘違いしてクラブに足を踏み入れた高校生へのママのやさしい思いやりであったのだろう。
 今ならあっという間にお姉ちゃん達が私を取り囲み、ああだこうだで数万円は軽く持っていかれるはずである…。


>良い子のみんなへ
お酒は二十歳になってからたしなみましょうね。

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