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複製と独自性

ざす。

今日は複製と独自性についていくつかの視点から書いていきます。各トピックは軽めです。



前提として複製と独自性の意味をここに載せます。

「最初のもの」という意味。また、何かに加工されたものの元となるもの。特に、複写複製等に対して用いられる。本項で詳述する。
「独自のもの」という意味。既製品に個人販売店などが加工や機能を追加したもののこと。本義的な「オリジナル」は前述の1のものとなるため、誤った用法であるが、一般的に使われている。

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これは「オリジナル」から引っ張りました。そもそも独自性とは何かと考えると結構深いテーマになるかもしれません。

コピーcopy)とは英語で複製英語版)の意。平面のものは「複写」。

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これは「コピー」から取りました。そもそも意味から攻めるのが間違っているのかもしれません。



①コラージュ

これは「画材に独自性が無い」パターンです。

コラージュ: collage)とは絵画の技法の1つで、フランス語の「糊付け」を意味する言葉である。

通常の描画法によってではなく、ありとあらゆる性質とロジックのばらばらの素材(新聞の切り抜き、壁紙、書類、雑多な物体など)を組み合わせることで、例えば壁画のような造形作品を構成する芸術的な創作技法である。作品としての統一性は漸進的な並置を通して形成される。コラージュは絵画と彫刻の境界を消滅させることを可能にした。

絵画におけるコラージュはキュビスム時代にパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックらが始めたパピエ・コレに端を発するといわれている。主観的構成の意図を持たない「意想外の組み合わせ」としてのコラージュは1919年マックス・エルンストが発案した。主に新聞切れなどや針金ビーズなどの絵具以外の物を色々と組み合わせて画面に貼り付けることにより特殊効果を生み出すことが出来る。後に様々な方向で工夫されて発展し、現在に至る。

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これはヘンリー・ダーガーの「非現実の王国で」などが有名です。この手法に独自性が無いと感じる人はあまりいないと思います。



②言語

これは「構成要素に独自性が無い」パターンです。

人間音声文字を用いて思想感情意志等々を伝達するために用いる記号体系[2]。およびそれを用いる行為(広辞苑[2])。音声や文字によって、人の意志・思想・感情などの情報を表現したり伝達する、あるいは他者のそれを受け入れ、理解するための約束・規則。および、そうした記号の体系(大辞泉[3])。

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私達が喋っている言葉に独自性はありません。先人から脈々と受け継がれています。

ロペペペペペペペペペペペペペペ!!!!!!!!!!!び!!!ビィア!!!!!!!!!!!!!!!!!サディスフィクストフクラッシュ!!!!!!!!!!!!!!アッッピョピョピョ!!!!!!!!!!!!!ゴルス!!!!!!チシマエッティソ!!!!!!!!!!!!

これは「人間の思考は言語に規定されている」という意味の文章を筆者が作成した言語形態に変換したものです。完全な独自性を有した言語は言語ではありません。言語は他者との意思疎通のツールだからです。チシマエッティソ!!!!!!!!!!!!

近頃はインターネット技術の発達によりLINEスタンプなどの画像・GIFなどの動画で会話を行う事も増えています。しかしこれも両者が共有する常識があってこそ会話ツールとして成り立ちます。

つまり言語は両者の共通認識を橋渡しする為の道具であると言えます。その目的さえ達成できれば文字・画像・動画どの形態でも「言語」として扱う事が出来ます。



③会話

これは言語の延長線上にあります。ここでは言語によって伝達される「内容」にフォーカスを当ててみましょう。

会話は、互いに話したり聞くことであり、共通の話題について話すことである。

会話はしばしば「言葉のキャッチボール」と喩えられる[2]

キャッチボールは向かい合った二人が、最初から相手が受けとれるようにボールを投げ、受け取った側も同様に相手が受け取れるように投げる、ということを繰り返すことである。ボールを使う行為はいくつもあるが、そのなかでも特にキャッチボールに譬えられるのにはそれなりの理由がある。会話は言葉のサッカーではないのである[2]。サッカーはできるだけ相手をよけて自分だけがボールをキープして蹴り続け、一方的にゴールに蹴り込もうとするが、会話というのはそういう行為ではなく、相手をよけて自分だけしゃべり続けるような行為ではない[2]。また会話は言葉のドッジボールでもない[2]。ドッジボールは相手に(わざわざ厳しいボールを、受け取ることができないように)投げつけるが[2]、会話は相手が受け取れないようなきびしい言葉をぶつけてやろうとするような行為ではない[2]

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会話に独自性はあるでしょうか?内容だけ見れば無いと思います。全人類考える事は大体同じだからです。パターン化されています。愚痴とか。

しかし会話を行う話し手と受け手。これはそれぞれ世界に一人しか存在しません。つまり独自性の塊であるといえます。

会話の内容・会話を構成する言語に独自性が無くても会話を行う我々は一人しか存在しない。その一点だけで独自性を保っている。かなり綱渡りな表現形態であると言えます。会話をAIと行うと味気ないのもそこら辺に関係していると考えられます。



④物語

現代は物語が重視されています。

デュシャン「泉」

便器を見に金を払うのは何故でしょうか。人間が便器に物語を見出しているからです。人間は物そのものではなく「物語」すなわち物のメッセージ性に金を払います。メッセージ性さえあれば既製品でも関係ありません。

では物の独自性に意味は無いのでしょうか?あります。自分で作ると物にメッセージを乗せやすくなります。手作りの料理は一万円のコースに劣るでしょうか?それは本人次第でしょう。受け手をよく見るべしという話でもあります。

そして既製品にメッセージ性を乗せるのは非常に難しいです。ハイコンテクストな場が必要です。便器が便所に置かれていても誰も見ません。「便器にこんなメッセージがある」という文脈を別途用意する必要があり非常に手間がかかります。



⑤補助ツール

デジタルツールは人間の可能性を大きく押し広げました。しかし翻ればデジタルツールに作品の在り方が大きく制限されていると言えます。直線を自動的に描くツールは直線の荘厳さを失わせました。ベタ塗りを自動で行うツールは色を塗るという絵画において脈々と受け継がれてきた文脈をー

こういった流れは正直よくわかりません。筆者が外様でそういった場の力学に触れた事がないからです。これはどの文化に生息してるかでめっちゃ変わる奴ですね。

漫画は構図真似るだけでドヤされるけど海外ゲームはMOD上等!他ゲーキャラ・ワールドぶっこ抜き!みたいな。VRChatとかAAAタイトルの話。フェアユース?みたいな空気感があるのでござるよな。うーむ。文化ですね。ハイ。本当はここをもっと詰めるべきなのかもしれない。でも文化の話に行き着きそう。うーむ…



さいごに

筆者は複製を「巨人の肩の上に立つ」行為だと考えておりあまり悪いイメージは持っていません。巨人を大きくするのは研究者とかプロの仕事だと思っています。巨人の上でブログを書く。話し手と受け手の独自性に依拠する。そういったスタンスでやっていく。やっていき。




それでは、さようなら~~~~~