週記40【I'm Tight】

「二人っていつから知り合いなんすか?」

紺のジャージに身を包む彼は、僕たちに疑問を投げかける。
「たまに来るんすけど、いっつもこの席に二人で座ってるから、親子で仲いいな、っていつも思ってたんです」
毎度のように男と二人で喫茶店の隅でくつろいでいると、彼に突然話しかけられた。以前、不思議なペットを連れていた彼は、自身のことを佐藤と名乗り、私の隣に腰掛けた。会話に出てきた数字を食べるというおかしな動物は、最近見えなくなったらしい。

佐藤は、僕と同じ大学に通っているが、学部が違うので通うキャンパスが異なる、らしい。学年は一つ下だが、浪人生なので年齢は僕と同い年。誕生年で区別するなら年上になる。
「知り合いというか、まあ、顔なじみというか」親子でもないし、仲良くもないということは強調しておいた。

「じゃあ、まだお互いのこと全然知らないんすか」佐藤は驚いた顔で尋ねた。
「佐藤君は、カキフライ理論って知ってるかい」男は質問を質問で返す。
黒のジャケットを羽織り、小さな蝶ネクタイを付ける男は、葉巻を吸いながら佐藤を見ている。慣れない葉巻でちょっとむせた。
「知ってますよ。高校でやりました。村上春樹のやつですよね」
「知ってるなら話は早い。私にとって、名前や年齢、職業や遍歴なんてのは重要じゃない。話すために必要なのはその理論で得られる価値観や考え方だ」
佐藤がカキフライ理論を知っていたことが嬉しかったのだろう、男が纏っていた警戒の目はすっかりなくなっている。



「じゃあ、もうラーメンは二度と食べないんすか」
スマホでカキフライ理論について調べている間に、男と佐藤の話は先に進んでいた。
「え、あ、僕に聞いてるの?」
「だって、言ってましたよ。ダンナが」
男に目を向ける。
「この前言ってただろう。ラーメンは嫌いだ、もう二度と食わないって」
「言ってないですよ。ラーメン好きですし」
僕は男の誤解を解くためにも、少し前の記憶を遡る。




〇一週間前

朝晩は少し冷えるようになったが、昼間は汗が噴き出るほど暑い。駅前のラーメン屋に初めて行った日は、そんな気候だった。

店に入るやいなや、豚骨の臭いが鼻を劈く。
こってりとした味の濃いラーメンこそ本物だ、と評する人もいるが、僕はそう思わない。こってりもあっさりもさっぱりもやっぱり、それぞれの良さがあるから平等に好きだ。そこに差別はない。
「ラーメン・ルーサー・キング・ジュニアだ」男が呟いた。
「でもね、がっかりはダメだと思うんです。こってりもあっさりもさっぱりも良いけど、がっかりするラーメンはいけない。生まれてはじめてですよ、ラーメン屋でがっかりしたのは」
「ラーメンに限らず何であれ、がっかりはしたくないものだが。一体どんなラーメンだったんだい」
「そこ、塩ラーメンしか売ってなかったんですよ」
おっと、と男は顔を伏せた。

出されたラーメンは、先の三つで選ぶとすれば「さっぱり」だった。器の中には輪切りレモンがあるくらいさっぱりしたラーメン。
では店内に入った瞬間立ち込めたあの豚骨の臭さはなんだったのか。「こってり」の気分を搔き立てたあの臭いは。店主の意図が、さっぱりわからない。
店を出るまで、嗅覚と味覚のギャップで脳が困惑していた。

「あれはひどい店です。もう二度と行きません」
「そんなにおかしな店があるのか。私も行ってみたいな」
「ダメです。行ったら多分ラーメン嫌いになりますよ」




「駅前のラーメン屋には、行かないって言っただけですよ」
「そうだったか」男は未だ首をかしげている。
「確かに。あそこのラーメン屋あんまおいしくないですよね。特に餃子がダメでした。俺も二度と行きたくないっすもん」
ダンナも一回行ってみた方が良いですよ、怖いもの見たさで。佐藤が提案すると、男は首を振った。
「行きたいけど、ダメなんだよ。彼に止められたんだ」男は僕を指さしてそう言った。
「そんなこと言ってないですよ。僕は行かないって言っただけで」
「でもそのあと、私にもそれを強要しただろう」
「言ってないですよ」
「言ったさ」
「ああ、確かに言いましたけど」思い出した。
「それよりも、ちゃんと行けない理由があったじゃないですか」



〇一週間前

「どこの店なんだ?なあ、何て名前の店?」
男がしつこく聞いてくるので、僕はスマホを開いた。地図のアプリを開き、男に画面を見せる。
「ふむ、面構えは悪くないじゃないか。ちょっとお洒落でさえある」
「出されたラーメンも、確かに気取ってる感じありましたよ。女子受け狙ってるのバレバレ、みたいな」と、今度は食べる前に撮った写真を男に見せた。
「うん、新しいラーメンの価値観を提示しているようだ。俄然行きたくなってきた」
ネガティブキャンペーンを行っている相手がポジティブになっていくのがこんなにも苛立つとは。新たな発見をしていると、画面を見ていた男が突然、げ、と声を出し、訝しそうな目をした。
「ここ、麦茶じゃないか」




「ダンナ、麦茶無理なんすか」
「そうではない。家でも冷やしてある。それくらい、私にとって麦茶は不可欠なものだ」
しかし飲食店に置いてある麦茶だけは信用できないんだ。男は吸いかけの葉巻はそのまま、内ポケットからラークを取り出す。
「飯に重点を置いてある飯屋が、飲み物に味を付けてどうする。何も言わず麦茶を置くということは、この店は味に自信がありませんと言っているようなものだ。そんな中途半端な店で食欲を満たそうとは思わないだろ」
男は煙草を挟んだ右手で、鼻を少し掻いた。

もう十分だろう。
「大体、分かったかな。僕らのこと」というより、男のこと。
佐藤に尋ねると「すごいっすね。何も聞いてないけど、なんかめっちゃ分かりました」と、なぜか瞳を輝かせながら言った。



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