会話について(2024.1)

日常会話では、「他愛もない会話」が多くの割合を占める。
天気の話、最近のネットニュース、最近観た面白い映画、etc.
上記はある程度全員が切り出せる話題だ。他の例を挙げればキリがないし、私が挙げられる例にも限界がある。人が変わり、関係性や距離感が変われば、内容も大きく変わる。それが会話というものだ。私はそう認識している。


大学の友人に、面白い奴がいる。
ただ、ここの「面白い」には、「可笑しい」という意味が多く含まれている。まあ、変な奴、ということだ。
この「変な奴」という定義も、そういうお前は変じゃないのか、と言われると首を傾げる必要があったり、そもそも世の中に変じゃない奴なんていないだろ、みたいな話になる。そういった「面白い」の細分化はまた今度やろうと思っている。とりあえず、今回の冒頭に現れるのは、私主観で「変な奴」のことだ。仮に山田としておこう。

山田とは履修の関係上、大学内でよく会う。となると話す機会も増える。
私は、友人間で行われる他愛のない会話が好きだ。特に、会話中の私の発言で相手が笑ってくれる時が大好きだ。だからよく、普通の会話の中に、くだらないボケやつまらない言葉遊びをしたりする。勿論、百発打って百笑ってくれる、なんてことはない。私的には百発中、五十、六十当たればGoodだと思っている。

そんな会話を行っていると、徐々に私の影響を受けてか、友人達も会話の中にユーモアパンチを打つようになってきた。いや、元々親睦が深まればそうなっていくもんなんだろう。
山田も例外ではない。まあ思い返せば、山田は出会った頃からしょっちゅうボケたり、おどけた会話をする奴ではあった。
ただ、山田はそこのユーモアセンスが強い人じゃなかった。彼を変な奴と言った理由は、そういう彼の作為的な感性の部分にある。そして彼を面白い奴と言う理由は、彼の育った環境や培ってきた性格、人間的な部分にある。勿論そこには彼のユーモアセンスの部分も内包している。

山田の人物紹介はこの辺にしておこう。大事なのは、ある日彼が放った台詞だ。


他愛もない会話を行っていると、たまに言葉が空を切るようなときがある。
全員がウケ狙い、言葉遊びに重きを置いて話していると、本当に中身のない、ただ口から文字と音を一緒に出しているだけのような時間が流れる。山田の一言が飛び出たのはこのときだ。

「しょうがない、脳使わず喋ってるから」

この「脳を使わずに話す」という表現を、山田は最近よく言うようになった。
例えば、山田がぼそっと言った言葉がよく分からなく、「え?どういうこと?」と聞き返したりする。すると「気にすんな。脳死で喋ったから」と言われる。

私は疑問を持った。

脳を使わずに話す、ってなんだ。
脳死で喋る、ってなんだ。

話す際には言語を使っているんだから、脳を使わず話すってのは無理な話だ。
ましてや、ウケを狙ったのであれば、いや、ウケ狙いでないにしても、思いついたこと、思いついてしまったことが口から流れ出たのであれば、むしろ脳を使っているのではないか。
その発言は正しくは「テキトーに喋る」なのではないか?

いやいや、大事なのはそこではない。
山田は私と同様、隙あらばボケたいタイプなのだと思っていた。実際面白いかどうかは別として。
しかし、そういった発言の原因を「脳を使わず喋っている(テキトーに喋る)」で解決されると、こちらとしては失望してしまう。


これを言うと我ながらとてもダサいのだが、私はボケやおふざけにある程度の覚悟を持ち、会話に取り組んでいる。百発のうち四、五十は外れてもいいとは思っているが、全ての弾丸に「当たってくれればいいな」という希望を持って引き金を引いている。

そしてそれは、山田、ひいては会話中にユーモアを打ち込む人間なら誰しもそうだと思っていた。
しかし彼はそれを「脳を使わず喋っている」と表現した。彼の銃先には、標的がいなかったのだ。
私はこの事実にかなりの衝撃を受けている。そして小さな恐れも。
もし、これまでの会話の中での、私がウケを狙った発言も全て「脳を使わず」繰り出しているものだと、山田が思っているのなら。

これは非常に由々しき事態だ。私にとってではなく、山田にとって。


私にとって「テキトーに喋る」という行為は、「脳の不使用」ではなく「心の不使用」だと思っている。
思ったことを垂れ流したり、テキトーに喋ることは、誰でもできる行為だ。ただしそれは独り言などの「会話でないシーン」での話で、人との会話となると、そうは問屋が卸さなくなってくる。
聞き手という存在がある以上、思案する脳から発言する口の間にフィルターを通す必要がある。そのフィルターの役割こそ、「これを聞いたら相手はどう思うだろうか」という心、気持ちの要素にあると思うのだ。
この、心のフィルターこそ、会話で最も大事なことであり、それは目上の人や仕事関係の人間との会話だけでなく、友人、家族との会話のことでもある。

山田の脳死状態がフィルターの欠如のことを言うのであれば、彼は人間生活のほぼ担っているといっても過言ではない「会話」の面において、烈大なアドバンテージを抱えていると考えている。なぜなら彼と話していて、脳死でない時を見たことがないからだ。
人見知りである私でさえ、山田は非常に会話慣れしていない、と分かる。

来年度から社会人になる山田に、私はとても心配している。
彼がフィルターの存在に気付くのはいつなのだろうか。気づかないまま、とりかえしのつかなくなるところまでいくのだろうか。はたまた、本当に脳を使わず喋っているだけで、社会人としての会話は簡単にこなせるスマート人間なのかもしれない。




人には相性がある。この人好きだな、この人苦手だな、とか。言葉にすると有限になってしまうが、相手に対する好意や嫌悪感などの印象は、抱く人と抱かせる人の数だけある。
そしてそれは、外見を見ただけの第一印象で判断することではなく、会話を経てじわじわと感じていくものだ。

この相性、というものに、心のフィルターの個体差、というものが関与しているんだろうな、と思う。
言葉を産む脳から、言葉を濾す心を経由し、口まで達する。人の印象が決まるのは、その人の心が何を濾すのかによって変わってくる、と思う。
もちろん、中には脳の部分で生み出すものが全て清らかだという聖母のような存在もいる。それはそれで素晴らしい人間だと思うが、私としては、清濁入り乱れた頭の中を、綺麗に見えるように文字に変えられる存在こそ、多くの人に慕われるべき存在だと思っている。

ちなみに私は、この理論で行くと、脳の部分がとても汚い。産む言葉が下品だというのもあるが、考えること、思うものが、濁っているものばかりだ。
心でいくら濾しても、口から発せられるのは陰気で粗悪な言葉だらけになってしまう。

前半では自分を棚に上げ、山田を心配していたが、その心配の矛先は自分自身にも向いている。
社会人として立派に活動できるのだろうか、という不安もあるが、個人的には「今後友達は増やせるのだろうか」という心配の方が大きい。
私の人生において非常に大きい「友人」という存在を、これから増やしていけるのか。孤独に年老いることが、現時点で一番怖い。

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