見出し画像

同じ涙の味がする

お気に入りの手袋があった。
大宮の駅ビルの雑貨屋で見つけて、一目惚れだった。
カラフルな毛糸で編まれていて、指が出る部分も一本ずつ全部違うデザイン。手首の部分に、ミニ手袋の飾りがついていたのも可愛くて気に入っていた。

大学に入学した年の冬にその手袋を買い、それから寒い時期はどこへ行くにも一緒だった。毛糸がほつれてボロボロになっても捨てられず、祖母に直してもらいながら使っていた。見知らぬ人に手袋を褒められると、自分が褒められたみたいで嬉しかった。

そんな大事な相棒を一度なくしてしまったことがある。外食に行って帰宅すると、手袋がない。カバンの中にも車の中にも見当たらない。念のため部屋を探したけど、やっぱりいない。店に電話したけどないという。どこに行ってしまったのか、私の素敵な手袋は。
10年弱分の思い出が蘇り、私はいい年して手袋のために泣いた。グズグズ泣く私をみて、母も妹も呆れた顔をしていた。

どうしていきなり手袋のことを思い出したかというと、内田百閒の「ノラや」を読んだせいだ。

自分の父と同じくらいの歳の男の人が、いなくなった飼い猫を想って毎日泣いて暮らしている。風呂釜の蓋の上で寛いでいたノラの姿を思い出してしまうから、風呂にもひと月くらい入れなかった。新聞広告を何回も出し、似たような猫がいると聞けば、わざわざ確認しに向かった。「ノラや」の原稿も読み返すのが辛いので、自分で校正は出来なかったようだ。

私は自分の父が泣いたところを見たことがない。祖父や義理の父の涙も。だから、大の男が涙を流して泣く姿があまり想像できない。そのかわりに、お気に入りの手袋をなくしただけで子供のように泣いていた20代半ばの自分の姿を思い出した。
可愛い猫とボロボロの手袋を一緒にするなと怒られそうだが、大事なものを失って流した涙は同じ味がしたのではないかと思う。
他人からみたら何もそこまでと思うかもしれないが、どうしても他の何かでは駄目なのだ。
だけど、泣くほど大事なものに、この先あとどのくらい出会えるだろうと考える。だいたいのものは、いっとき悲しくても、そのうち他の何かがやってきて心の穴を埋めていく。いちいち悲しんで引きずっていては心がもたないだろう。

内田百閒は、ノラちゃんやクルちゃんと別れたあと二度と猫は飼わなかったらしい。相当に悲しかったんだろうというのは、文章からこれでもかというくらい伝わってくる。

だから、こんなこと言ってもなんの慰めにもならないだろうが、泣くほど大事なものがあるということは、とても羨ましく、美しいと思う。
ノラちゃんも、クルちゃんも、私の手袋も、そこまで大事に思われて幸せだったんじゃないかと思う。猫の気持ちも、手袋の気持ちもわからないけど、どうかそうであって欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?