ソシャゲの課金の話

少し前、Twitterでソシャゲ課金のし過ぎで自己破産をした人の話が話題になっていた。実際のところ創作なのか実話なのかはわからないが、あってもおかしくはないのかなと思った。もっと言えばさらにグロい話も事実で存在しているんだろうなとも思った。

ゲーム本体よりもガシャを回すことが楽しくなってしまうという気持ちはよく分かる。ソシャゲに触れてない人にとっては本末転倒、手段と目的のはき違えとしか思わないだろうが、実際そうなのだ。どのようなゲームであったとしても、大なり小なりゲームの上達具合や達成具合、イベント結果には差が出る。本人の向き不向きもあるだろうし、時間の都合を始め環境に左右される部分も多々ある。しかしながら、ガシャを回すという行為には結果は二つしかない。引くか引かないかだ。

真っ当な人間なら、この「引くか引かないか」は文字通りの意味だけに映る。ガシャを回すこと自体をするかしないか、ただそれだけ。それが道を踏み外し始めると少し意味合いが変わってくる。「出るまで引くか、諦めて途中で引くのをやめるか」。俗にいう所の天井(=ガシャの上限。ここまで到達すると目的の景品と交換ができる)まで到達すれば必ず目当ての景品に手が届くからだ。当然、それなりの出費もかさむが、ゲーム内で配布されるアイテム等を工夫すれば、ある程度のリアルマネーは温存できる。この天井まで引くという行為が前述の「引くか引かないか」のダブルミーニングとなり、「退くか退かないか」となるのは皮肉なものだ。

大抵のソシャゲは毎週のようにガシャで排出される景品が変化する。ガシャを引くことが目的になってしまうと破滅に一直線になるのは当然だ。スーパーの入り口においてあるようなガシャポンなら、何種類も集めれば集めただけスペースを圧迫し、否が応でも集め続けるのは困難となる。人によってはそれでもなお回し続けるのだろうが、必要なものだけを手元に残すタイプの人なら破滅までの投資はしないだろうし、コレクターを続けることが可能なだけのスペースを維持できる人ならそう簡単に破滅するような財源ではないのだろう。

一方ソシャゲのガシャは不幸なことにいくら回しても場所を必要としない。その戦利品はスマホなりタブレットなりに電子データとして蓄積されていく。何ギガになろうとも何テラになろうとも、サービスが終了しない限りは半永久的に当時の姿のまま保存されていく。だから気付かない。だから気付けない。自分がどのくらいのお金を消費して自分の端末に電子データを集め続けているのかを。歯止めも聞かず、自制もできない人間の行きつく先が自己破産だったのだろう。

刹那的な快楽に溺れガシャを回す。目当ての景品を引き当てる。その瞬間はえも言われぬ幸福感が脳にもたらされる。その時の感動を再び味わうためにまたガシャを回す。次第にゲームはどうでもよくなる。ただただガシャを回すだけ。手持ちの金を使い切ろうが、借金をしようが、ガシャを回すことが全て。人生の全てはガシャを回すためにある。

クリック一つで何千円が一瞬で消える。そこには実感はない。あるのは目の前の電子データだけ。その金を生み出すのに払った対価に見合うだけの成果を本当に得られるのか。その価値は本人にしかわからない。まるでガシャを回すための機会になって日々を生きる。そんなことにならないように、私たちは今日も節度をもってガシャを回すのだ。

(でも○○○○○はいくらなんでもSSR出なさすぎじゃないですかね?天井まで行ってんのにピックアップ二枚ともすり抜けとかおかしいでしょ?あれ排出率絶対ごまかしてるよね?何で他の人は引けてるのにこっちには来ないんですか?)


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