井の中の蛙は井戸も知らない

いつからだろう「普通」の人生からはみ出てしまったのは
いつからだろう「普通」に暮らしていけなくなったのは
誰かが私を普通じゃないと言っても私が不幸な訳ではない。自分の幸福ぐらいは自分自身で感じたいものである。

さて、私には野望があり大器晩成と言えどもそろそろなんとかしたいので日記がてら文章を書くことを習慣にしていきたいと思う。

これが最初の一歩となるのだ。

誰かにとってまだ若く、誰かにとっておじさんの私は誰でもない私が「まだ」と思い続ける限り自分で人生に妥協したりしない。むしろ「まだまだ」なのだ。

 東京で出会った私が尊敬する友人の1人は酒を浴びながら自分がモテる理由を「人の為に生きてるから」と断言していた。

かっこいい…。

半裸で騒いでる彼を見て彼のようになれる気は全くしないのだが彼の存在はある種の私の「大人」の正解に近いとは思う。


 高校三年の時、現代国語の授業で当時担任だった先生は「人間はなんの為に生きるか」という哲学テーマの質問をだした。受験モードでそれどころではないはずだったのにやけに頭に染み付き、気づけばたくさんの思考を繰り返していた。
 私は生まれてまもなく死んでしまう途上国の赤ちゃんを思い浮かべた、死はそんな遠いような感覚。誰もが死ぬことを分かってなお且つ自分も消えてしまいたいと常日頃考えていたはずの私がすぐに浮かんだのは事実であるのにドキュメンタリー番組と基金募集のポスターの中だけの現実味のない現実。

私はプリントに「誰かに何らかの影響を与えるため」と書いた。
担任の先生は私の机の近くで歩みを止め、「これはどうゆうこと?」と聞いた。
私は「生まれたばかりで死んだ赤ちゃんにも何の為か問うのは違和感があって、でも残された親には何かしらの感情を与えただろうと思います。」と述べた。

 先生はあろうことかそれをクラスに紹介してしまいド陰キャラの私は気まずかったし、誰かが「それどっかで聞いたことあるかもw」という声が聞こえた。
しかしクラスの何人かは「おぉ」と関心してくれるような声も聞こえた。蛙の声が井戸中に響いた初めてのことだ。


私の意見や考えは否定されることのないまま受容されうるものなのかもしれないということが今でも禍々しいあの場所で初めて許されたのである。

禍々しい井戸を抜けたら海らしきものは感じたがそれは池や沼やただの水溜りかもしれない。


私は少なくとも居心地のいい場所にいる。
ここが海でなくとも川でなくともいい。
狭さも広さも理解できるこの井戸がとてもいい。
一方でまだ広いところを求める自分がいる。

インターネットの海で流すこの言葉は誰かが拾ってくれるだろうか。
私はまだここがどんな場所ではたして本当に井戸なのかさえわかっていないでただ波を漂うのだ。

今はそうでも泳ぎきって誰かの為になりたい。
誰かじゃなくて顔の浮かぶ人を想って書くしかできない。
そんなやり方でも大海をのぞむことぐらい許して欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?