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第8話 ラストチャンス

 200kmマラソン2日目。

 柔らかな陽の光がカーテンの隙間から差し込む部屋で、あかりはゆっくりと目を覚ました。体は前日の疲れが残っていて、全身が重い。時計を見ると、すでに13時を回っていた。

「寝すぎた…!」あかりは慌てて起き上がった。だが、立ち上がると足が震え、思わずふらついてしまう。その瞬間、救護班の医者が駆け寄り、あかりの身体を受け止める。

「まだ、無理です。脱水症状を起こしています。脱水症状を起こした状態で走り出すと、熱中症になりますよ!」「熱中症になると、今度はこのマラソンどころか、命にかかわります」

「そんな!!!!」あかりは焦る。
「いつになれば、いつまで休んだらマラソンに戻ってもいいんですか?」

「あと半日は身体を休めなければだめです」

 啞然とするあかり。

 あかりは初日に無理をして歩いたことで、2日目のほとんどをベッドで過ごさなくてはいけなくなった。

 同じ頃、千種つみきは66km地点を黙々と歩いていた。

 つみきは昨日、19:00頃まで歩き、30㎞地点の宿に宿泊。2日目は朝7時から歩き始め、着実にあかりのいる70㎞地点まで距離を詰めていた。

 2日目のマラソンは、1日目よりもさらに過酷だった。全身の筋肉が痛みを訴えているが、つみきの気持ちははっきりとしていた。

「このオーディションが最後だから…」

 つみきは5歳頃の自分を思い出していた。

♪~

 5歳のつみきがおばあちゃんの前でおもちゃのマイクを持って歌う。おばあちゃんは嬉しそうに拍手をして、つみきの歌を聴いている。

「つみき、大きくなったら歌手になるの!」

「つみきちゃんは歌が上手いからねえ。絶対、歌手になれるわ」

「つみきちゃんは歌が上手いから。絶対、歌手になれる」
 おばあちゃんの言葉を、つみきはずっと信じていた。自分は歌が上手くて、大人になったら歌手になれる。そういうもんだと思っていた。

 つみきは高校生になると、自分でバイトをしてボイトレに通うようになり、それからライブハウスで歌うようになった。つみきにとって歌うことは楽しく、ライブハウスでの予定がない時は路上でライブをした。そうしていれば、いつかスカウトが来て、歌手になれるのだと思っていた。

 でも、歌手になるのはそんな簡単なことでないことは、ライブハウスに出始めてじわじわと分かってきた。この世界には歌の上手い人間はゴマンといた。個性的な声を持っている人、特別な感性を持っている人、ライブをめちゃくちゃ盛り上げられるバンド。そういう人たちでも、メジャーデビューの声はかからなかった。

 それでも、一度だけつみきにもスカウトの話がきたことがある。ライブハウスで歌うようになって半年が経った16歳の秋。

「キミ、可愛いし、今度オーディション受けにこない?」
「えっ!」
「プロデューサーがあの有名な竹本亨で、今度新しいアイドルグループを作るんだよ」
「アイドル…ですか」
「キミくらい可愛くて歌えるなら、絶対に受かるから。センターだって夢じゃない」
「はぁ…ありがとうございます」

 そう言われてオーディションの詳細が書かれたA4のチラシと、名刺を渡された。

 アイドルに興味はなかった。つみきが憧れたのは、ギター1本、マイク一本で自分で作った歌を歌うアーティストだった。だから、もらったチラシも名刺も興味がなくて、鞄の中に入れっぱなしにしていた。もちろん、オーディションにも行かなかった。

 アイドルオーディションへのスカウトから1年が経った頃、そのアイドル(COLLAR48)がデビューした。COLLAR48のデビューは鮮烈なものだった。お菓子メーカーのタイアップをつけてデビューしたCOLLAR48の曲はすぐに街中のどこでも聴く音楽になった。電車でも、コンビニでも、とにかくどこもかしこもCOLLAR48の広告があって、メンバーの笑顔がつみきに向けられた。

 最初、つみきはわたしがやりたかったのは別にこういう音楽じゃない、と、羨ましくもなんともなかった。だけど、COLLAR48のセンターは歌が上手いともてはやされていた。つみきからしたら、COLLAR48の子よりわたしの方が絶対に歌が上手いのに、と思った。そこまでは良かった。

 でも、COLLAR48のセンターが、歌番組の特番で、つみきが憧れていたアーティストとコラボした時に頭に血が上った。思わず持っていたスマホを壁に投げつけた。

 わたしが、オーディションを受けていたら、あそこに立っていたのは自分だっただろうか?チャンスを掴めなかった自分に腹が立って仕方なかった。悔しくて悔しくて、つみきはそれからほとんどTVを見なくなった。

 オーディションの誘いがあった日から8年が経った。COLLAR48のセンターは昨年、華々しくグループを卒業した。グループでしっかりとファンをつけ、今はシンガーソングライターとして活動している。今年の夏には大型ロックフェスにも呼ばれていた。

 一方、つみきは16歳のあの頃と同じ、小さなライブハウスや路上で歌っている。つみきはずっと、16歳の自分の選択は間違いだったのだろうか、と心の中で問い続けていた。

 他の参加者がつみきを追い越していく。150cmのつみきの歩幅は小さい。でも、つみきは焦らず、自分のペースで歩み続ける。

 つみきは、COLLAR48のことがあってから、どんなチャンスも逃すまいと思うようになった。つみきにとって、BLUE STAGEが初めてのオーディション応募ではない。この8年間で数えられないほどのオーディションに応募してきた。

 19歳まではすんなり通った書類審査は、20歳を超えるとだんだん通過率が悪くなった。年齢が上がれば上がるほど、その傾向は顕著になった。昔より、今の方が絶対にうまく歌えるはずなのに。歌をきいてもらえたら、良さを分かってもらえるはずなのに。

「だから、こんなマラソンで落ちるわけにはいかないっ!」つみきは自分に言い聞かせ、重たい足を一歩一歩、前に進める。胸の中に燃えるような思いが湧き上がる。今回のオーディションは、今まで受けた中で、一番大きな規模のオーディションだ。注目度も桁違い。絶対にここでデビューしたい。

「だって、今回がラストチャンスだから…」

 つみきはオーディションに参加した日の朝を思い出す。

「いい?分かってる?今回でダメだったら…」つみきの母が玄関でつみきのスーツケースを差し出す。
「うん。分かってる。今回ダメだったら、大学に戻って、教員採用試験を受けるよ」

 つみきの家庭は教師一家だった。母も父も、そして兄も教師になった。大学までは自由に音楽活動をさせてくれた両親も、就職の時期になると、つみきが音楽の道に歩むことに難色を示した。それはそうだ、24歳で、芽の出ないミュージシャンを案じない親はいない。

 つみきは音楽をやりたいと大学を3年間、休学させてもらっている。大学を休学できるのもあと1年。今年がラストチャンスだとつみきも分かっていた。

「じゃあ、いってらっしゃい!」と母が言い、つみきは母と祖母に見送られて家を出てきた。

 つみきは84km付近の休憩所で、紙コップに入った水を飲む。ここで少し休んで、今日は90㎞地点のホテルまで歩くことにしよう。

 つみきは簡易テントにあるベンチに腰をかけて、水を飲む。コップの水面に映る自分の姿を見つめた。その中には、小さい頃から「歌手になれるわ」と言い続けてくれたおばあちゃんの優しい顔が浮かんできた。

「歌手になれるわ」

 ーそうだよね。おばあちゃん。

 つみきはあとひと息、頑張るために休憩所に用意されていた富士宮焼きそばを食べようとした。その時、

「その焼きそば、どこでもらえんの?オレも食べたい~!」
 如何にもバンドマン、という風貌のチャラそうな男に声をかけられた。

「これ?水をもらえるところに置いてあったよ」
「おー、サンキュ!もらってくるわあ」

 その男は富士宮焼きそばをもらって上機嫌で戻ってきた。

「もらえたわあ~。隣いい?」
「うん」
「あ、俺、青のカケラってバンドのギター、ヨウヘイ」
「わたしはシンガーソングライターの千種つみき。」
「え、てことは一人参加?ここまで一人で来たの?」「すげー」「普段、どんな感じの音楽やってんの?」
「わたしは…名古屋のライブハウスで活動してるんだけど、アコギの弾き語りがメイン」「ヨウヘイくんのところは?ていうか他のメンバーはどうしたの?」

 辺りを見渡しても一緒にいるメンバーはいなそうだった。

「あ、つみきちゃんもギター弾くんだ!ギター仲間!イェーイ!」
「俺たちは湘南で活動してる5ピースのバンドなんだけど、まだカバーしかやったことないんよ。つみきちゃん、シンガーソングライターってことは曲も作れんの?すげー!!」

「他のメンバーは、今、別々で走ってるんだよね。俺たちのところ、男子3人、女子2人でさ。リーダーの作戦的に、俺以外の男子メンバーがタイム引き上げるために先、走って。で、俺は女子メンと一緒にゴールしてこいってお達しだったんだよ。だから、俺、女子たちと一緒に走ってたんだけどさあ、なんかヨウヘイ、ウザイとか言われちゃってww」「ヨウヘイうるさいから、ちょっとどっか行ってって。ひどくねぇw?」「ま、もう宿までちょっとだから、90km地点の宿集合ーってことでさっきバラけたところ」とチームの戦略をペラペラと喋るヨウヘイ。

「そうなんだ…」
 つみきはこの人なんでも喋るな…と思いながら聞く。

「俺さあ、黙ってらんないの。一生喋っちゃうんだよ」
 
 ここまできて元気なのもすごいなとつみきは思った。ある意味、羨ましい才能だ。(と、同時にずっと一緒にいる女子たちはウザいかもなと思う)

「つみきちゃんは今日どこまで歩くの?」
「わたしも今日は90㎞の宿まで歩いてそこで泊まろうかなと思って」

「へえ、じゃあ丁度いいじゃん!もうすぐ暗くなるしさ、危ないから。送ってく、送ってく」
「送ってくって笑」

 そんな訳でつみきは青のカケラのギター、ヨウヘイと一緒に宿まで歩くことにした。

 ここまで一人で自分を奮い立たせていたつみきにとって、ヨウヘイの底抜けの明るさはありがたかった。

 同じ頃、あかりはようやく、医者のOKが出て、70㎞地点の宿から出ることを許された。

 静かな夕暮れ時、あかりと千種つみきは別々の場所で、前に前に進んでいた。

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