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奇跡の南極観測船『宗谷』

そうや、宗谷を見に行こう――――


南極観測船だけに寒いダジャレで始まった南極観測船宗谷の見学。当初は船の科学館を見学して、その後……と思っていましたが、船の科学館は現在改装リニューアル工事中。屋外展示のみが公開されている状態。

その中で最大のものが、かつてソ連の貨物船として発注され、帝国海軍の特務艦となり、終戦後引揚船を経て灯台補給船となり、更に南極観測船へと変貌を遂げた『宗谷』です。

簡単にこの船の略歴を紹介すると


1938(昭和13)年:ソ連発注の貨物船『ボロチャエベツ』として進水後、辰馬商船の『地領丸』として竣工。

1940(昭和15)年:大日本帝国海軍特務艦『宗谷』として改装を受ける。

1943(昭和18)年:南太平洋海域にて米潜水艦の魚雷が命中。しかし不発のため無事。

1944(昭和19)年:トラック島大空襲時には回避運動中に座礁、一時放棄されるも満潮時に自然離礁して脱出。

1945年:室蘭にて終戦を迎える。以降特別輸送艦として引揚任務に従事。1

1946(昭和21年)年:8月31日付で船主が大蔵省から民間組織の船舶運営会に移籍され特別輸送艦から民間組織の引揚船へ変更。その後1947年から1948年にかけては、大連、朝鮮、樺太からの引揚輸送に従事した。1948年11月に引揚任務を終了するまでに運んだ引揚者の総数は、19,000名以上にも達した。

ほとんどの帝国海軍艦艇はこの時点で解体、もしくは戦時賠償艦として引き渡されていたものの、宗谷はそのまま海上保安庁の灯台補給船として利用されます。

1956(昭和31)年:大改造を受け、わが国初の南極観測船となる。

その後は第1次から第6次南極観測に用いられ、後継艦である『ふじ』にその役目を譲りました。

1963(昭和38)年:海上保安庁巡視船となり、以降1979(昭和54)年の退役まで「奇跡の船」「不可能を可能にする船」「帝国海軍最後の生き残り」「灯台の白姫」「北の海の守り神」など様々な愛称を受けつつ、今は船の科学館横に係留展示されています。


実に41年にも渡る波乱の生涯を経て、今もなおその姿を浮かべているというのが宗谷の奇跡の艦たる所以で、激動の昭和を生き抜いてきた生き字引とも言える存在です。

垂れ幕の通り、まさに強運と奇跡の船です。

現在就役中の『しらせ』、先々代の南極観測船『ふじ』に比べると更に小型の船体です。おまけに竣工が戦前ということもあり、船体構造に時代を感じさせるものがあります。

後部甲板下には予備のスクリュー。ただ単に置かれているだけなのか、航海時にも積んでいたかは不明。

お寛ぎのご様子。なんともリアルな蝋人形が随所に。

ディーゼルエンジン。当初は蒸気タービン艦でしたが、改装の際にディーゼル機関となりました。

排気筒やら何やら。油の臭いが漂います。

通信室。

ファンネル。このマークは海上保安庁のものでコンパスをモチーフとしており、『安全な航海の道しるべ』としての願いが込められているとか。

後部ヘリ甲板。実は宗谷は戦後日本では初となる本格的なヘリコプター搭載船でもあります。

右舷ウイング。両舷幅いっぱいに広がっています。

ブリッジより船首を望む。正面は水産庁の漁業取締船『白竜丸』です。

エンジンテレグラフ。

両舷には大きく張り出しがありますが、これも南極観測船として改造を受けた際に増加されたもの。

フジテレビ本社ビルをバックにした『宗谷』

船首方向より『宗谷』

船体各部の傷みが激しいのも見て取れます。

上部構造を右舷側より。


現在は無料で公開されていますが、入り口では募金を行っています。管理費用も満足なものではなく、ガイドの方のお話では船底部の傷みが激しく、今後どのくらいの間、こうして浮いていられるかも不安だということでした。

歴史あるこの貴重な史料が、いつまでも多くの方に見てもらえるように祈るばかりです。


おまけ

船内展示の隕石、ペンギン。

かつて宗谷と轡を並べて展示されていた青函連絡船『羊蹄丸』のスクリュー。


完全に余談ですが『不可能を可能にする船』と見た瞬間、某・ラ・フラガ大尉の名前が浮かびました。


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