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【この感動を伝えたい】 その⑬ 八木商店著

 あの時と同じ衝動が心を駆け抜けた。そう、この感動を伝えたい! まさにその思いが俺を突き動かしたんだ。

「ええ! そんなのがあるんですか。是非教えて下さい!」

 目の色を変えて間近に迫ってきた花田さんの物凄い形相に、俺は腰を抜かすほど恐怖を覚えた。物の怪と化した花田さんの興奮を鎮めるためにも、俺はあの話をしてやることにしたのだ。

「ただの本なんですけどね。小さな文庫本です。でも、あの本は魔法の本でしたね。

 今から約3年前のことです。私は幸運をもたらす本だと言って、或る本を友人たちに読ませまくりました。かなり衝撃を受けた本だったから、皆んなにもこの感動を共有してもらいたかったんです。それであからさまに嘘を吐いたんです」

 花田さんは俺の顔をじっと見つめたまま、静かに呼吸をしていた。俺は遠く先に視線を向け、けっして花田さんに顔を向けないように注意した。

「最初は本当に冗談のつもりでした。でも現実に次々と幸運が舞い込んできたのには、正直驚きましたよ。

 あの本と出逢った頃、私は大学四年生で、不況にもかかわらず、内定を数社からもらっていました。卒業までの数ヶ月を何に勤しむことなく、暇に思いながらだらだら過ごしていたんです。そんな暇な私に不幸が訪れました」

 話が進むにつれ、花田さんは更に俺に擦り寄るように近づいてきた。しかし俺は瞑想する坊主のように語りに集中した。

「私は事故で腕を骨折してしまい、一月半入院しました。季節は晩秋でした。入院中、私は未知な人々と知り合いました。主婦です。彼女たちに出逢わなければ、あの本にも出逢えなかったでしょう。

 或るとき、私は主婦たちと接する中で、彼女たちの入院生活にあって、私にはない時間の使い方があることに気づいたんです。それは読書の時間でした」

「読書?」

「ええ。それまでにも話題本を読んで、会話の種にしたことがありました。でも大体2ページ目の中頃で瞼が重たくなって、それでまた今度読む時は最初からやり直し。だから、結局一冊の本を最後まで読んだ例はありませんでした。そこでこの入院を機に、何でもいいから一冊最後まで読んでやろうと思ったんです」

「入院中って時間ありますもんね。読書でもしてなきゃ暇で退屈ですよね」

 俺は花田さんの話を無視して話をつづけた。

「私は外出許可をもらって、病院近くの本屋に行きました。どの本にしようかと迷いました。迷いに迷って、童話なら読めるんじゃないかと思ったんです。当時童話の原作本は結構ヘビーな内容だと聞いていたので、私は迷わず聞き覚えのある童話を探しました。でも、なかなかこれはというのは見つかりませんでした」

 コンパの席は坂上の演説と、俺の回想が不思議なくらい調和を保って響いていた。俺には坂上の話はとても小さな音に聞こえていた。恐らく坂上にも俺の声は小さなものだっただろう。

 

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