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【あんなぁ、ママ、今日なぁ】 その5   八木商店著

由美ちゃん、その子の傍に寄られん! ものいうたらいかんで!〉

 

 あの子とは一年生から途中で転校した三年生まで同じクラスだった。ピンクのワンピースがお気に入りで、洗濯もせず毎日そればかり着てくるものだから、至る所に土や食べ零しの染みを作っていた。今でもピンクのワンピースを着た女の子を見ると、あのとき嗅いだあの子の体臭とドロの混ざった吐きそうな匂いを思い出す。私は臭いあの子が嫌いだった。クラスの皆んなも誰一人相手にしなかった。なのに、あの子は皆んなから嫌われていることにも気づかず、ちょっかい出してきた。だから余計に嫌われた。

 

「ダメよ! そんなこといっちゃ!」

 活き活きと楽しそうに話す愛を見るのは初めてだ。私は末恐ろしいものを感じた。

「もし愛ちゃんがマコちゃんだったらどう? お家のことや服装のことでそんなこといわれたら嫌でしょ」

「うん。でも、いいよんはほかのお友だちよ。わたしはあんまり知らんけん、なんにもいうてないよ」

「他のお友だちがいってたら注意してあげないとダメよ。わかった?」

「うん」

 

 私は愛を叱りながら自分を偽って見せていた。愛を叱りながら、偽った自分を見抜かれやしないかとハラハラした。愛の話を聞きながら、愛に恐ろしさを感じる反面、見世物を楽しむように想像力を働かせていた。私は密かにマコちゃんにストレスの捌け口を見つけようとしていた。昔、あの子を見ていたときと同じように。悲惨な生活を送るマコちゃんは、私の心を癒すだけの条件を揃えていた。私より弱い立場の人間がいることを見つけられたことに喜びを感じていた。でもそんな自分を恥ずかしく思う自分もいた。それは私に纏わり付く亡き両親や祖父母の霊に申し訳なく思ったからだ。

 でも、いくら懺悔したところで、一瞬でも楽しんだことを、彼らは許してはくれないだろう。その証拠に私は今愛に恐怖を抱いている。愛も私と同じように自分よりも弱い立場の人間を見つけて喜んでいるとすれば、この子はこの先成長していくにつれ、もっともっとドロドロしたものを心の内に溜め込むようになるかもしれないのだ。それはある日突然何かの拍子で破裂して彼女を破滅の渕に引きずり込むに違いない。怖い。そうならないでほしい。マコちゃんとの出会いが愛にとって良いものであるように、母親として努めていかなければ愛もマコちゃんも取り返しのつかないものになるように思えて震えた。

 

「マコちゃんにも、嘘はいっちゃダメよって注意してあげるのよ」

「うん。でもね、わたしにはあんまりウソいわんよ」

「信用されてるんだね。マコちゃん、愛ちゃんのこと好きだから嫌われたくないのよ。大切なお友だちなんだから、愛ちゃんが守ってあげなきゃね」

「でもねぇ、ほんとはわたしのこと好きじゃないかも?」

「どうして?」

「だって、ママの悪口いうもん」

 え?

「ママって私のこと?」

「うん」

 なぜ私の……?

「なんで? だって、ママ、マコちゃん、知らないよ?」

「ママは知らんけど、お迎えのときにマコちゃんはママのこと見たことあるんよ。マコちゃんのおばあちゃんみたいじゃないけん気持ち悪いんやって。おかしいよねぇ? マコちゃんのおばあちゃんのほうがお化けみたいやのに。あ、そうそう、あんなぁ、ママ、今日なぁ、マコちゃんがマコちゃんのおばあちゃんのお話してくれたんやけどなぁ」

「うん」

「ねえねえ、うんこって食べれんよねぇ?」

「え?」

 うんこって……、ええっ! 何?

「当たり前でしょ! そんなの食べられないわよ!」

「マコちゃんのおばあちゃんってな、うんこ食べれるんやって。汚いよねぇ」

 私はどう応えていいのか言葉が見つからなかった。マコちゃんはまだ一年生だ。お味噌をそう思っているのかもしれない。

「それマコちゃんの見間違いよ。お味噌って見た目うんこみたいだからそう思ったのよ。そうでなければ、マコちゃん、愛ちゃんをビックリさせようと嘘いったんじゃない」

「わたしもね、ウソつくなぁっていうたのにね、うんこってほんとに食べれるんよってうるさかったんよ。マコちゃんが赤ちゃんのときにね、マコちゃんのおばあちゃん、マコちゃんのうんこ舐めよったんやって。ほやけん、うんこって食べてもだいじょうぶなんよっていうたんよ。でね、じゃあ、マコちゃんも食べれるんってきいたらね、食べれるよっていうたけん、食べてみてやっていうたら、ほんとに食べたんで。気持ち悪いやろ?」

「赤ちゃんのうんこ舐めて体調を診る人っているらしいけど、ママはできないなぁ。マコちゃん、まさかそれを真似したの?」

「わからんけど。校舎の裏の木ぃがいっぱいあるとこあるやろ?」

「うん」

「マコちゃんなぁ、あそこで食べたげるっていうたんよ。それで、ちっちゃい木の下でうんこしたんよ。なんかねぇ、サトイモみたいなんが二つでてきたんやけどね、ちょっと血ぃがついとった。マコちゃん、おしりが痛いっていいよった」

「ええ!」

「うんこ硬かったけんね、焼き鳥みたいに落ちとった木の枝で刺して舐めたんよ。すっごい臭かったんでぇ。わたし、ゲェ吐きそうになったんやけど我慢した。うんこ舐めよるマコちゃん、すっごい気持ち悪かった」

「ちょ、ちょっとそれ先生知ってんの?」

「知らんよ。わたしいわんかったもん。マコちゃんな、うんこ舐めたら気持ち悪ぅって、すぐにゲェ吐いたよ。なんかねぇ、給食のオカズがいっぱいでてきた」

「嘘でしょっ!」

「マコちゃん、ゲェがとまらんなってね。病気になったみたいやったけん、わたし先生にいいに行ったんよ」

「何て?」

「マコちゃんのゲェがとまりません。先生急いできてくださいって。ほんなら先生、保健室の先生ときてね。マコちゃんに気分悪いのってきいたら、気持ち悪いっていうたけん体温計はかったんよ。お熱はなかったんやけどね、マコちゃんお家に帰りたいって泣いたけん、先生、マコちゃんちに電話したんよ。ほんなら、おばあちゃんがきてくれてね、帰った。だーかーら、今日、ママ、二番やったんよ」

 まさか本当にそんなことをするなんて……。一年生ならうんこが食べ物じゃないってことくらいわかるでしょうに。吐いたってことは、食べたのは今日がはじめてだったんだわ。

「マコちゃんって、頭おかしい子なの?」

 

 ハンドルを握る手が震え、自転車がフラついた。この町の何処かにマコちゃん家族が住んでいるのかと思うと、頬の毛が逆立ち身震いを覚えた。幼い頃の良い想い出が詰まったこの町が好きだったのに。母と父、そして祖父が土に眠るこの町が好きだったのに。これ以上マコちゃんの話を聞けば完全に嫌いになりそうだった。いったい何なのよ、マコちゃんも、その家族も!

 

「マコちゃんは変じゃないとおもうんやけどね、おばあちゃんが変なんよ。内緒やけどね、わたしねぇ、マコちゃんのおばあちゃんって、本物のお化けやとおもう。ママ、このこと絶対にいわんとってよ! あのねぇ、ほんとにねぇ、マコちゃんのおばあちゃんの顔、うんこ色しとんよ。わたし、はじめて見たときビックリしたもん。歯ぁもねぇ、ぜんぜんないんよ。笑ったらすごい変な顔になるんでぇ。ママも見たらビックリするとおもう。あぁ! じゃけんやとおもう! 硬いもん食べれんけん、うんこ食べるんじゃない?」

「もぉ、ママ、やだよ。そんな人に会いたくないよ」

「でも、明日は参観日やけん会うよ」

「あっ」

 

 そうだった。明日は入学以来初めての参観日だ。保育園のときには仕事の合間に抜けて服装も気にせず職場の征服のまま行ってたけど、小学校の場合はそうはいかないわよね。他のお母さん方はどんな格好で行くんだろう? 学校だものスーツとかの方が良いのかなぁ?

 愛と話しているうちに気づくと、家のすぐ近くまで帰っていた。何時灯ったのか街灯が行く先を照らしている。家が見えたとき、門戸に人影が見えた。街頭の明かりを背に大小二つの影が立っている。大きい方の影が一瞬小さくなった。どうやら私たちに気づいてお辞儀をしたようだ。

 

「ごんばんわぁ」

 喉を拷問されたようなガラガラにしゃがれた声が路地を這ってきた。

「あ、マコちゃんとマコちゃんのおばあちやんや!」

「え、嘘っ!」

 愛が背中越しに身を乗り出して無邪気に手を振った。近づくにつれ二つの影の輪郭がはっきり見えてきた。挨拶をした老婆が痩せこけているのは、薄れゆく夜闇の中でも容易にわかった。何かようかしら? そう思いながら、急いで言葉を繕った。

「あ、どうも娘の愛がいつもお世話になっておりますぅ」

「うぢのまごがお世話になっでまずぅ」

 

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