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【あんなぁ、ママ、今日なぁ】 その4   八木商店著

 子供は親の気持ちはわかってくれない。私は悲しかった。寂しかったと言ってくれればどんなに救われただろう。子供とは親が思うほど親を必要としないのだろうか? そう思うと何のために生きているのか、その意味が蜃気楼のように遠くに霞んで揺らいだ。

夕焼けのような娘の心に私は翻弄され、絶望感と儚さに手先が痺れた。オレンジに染まる空はいつしか紫に変わっていた。悲しい色はもう消えていたのに、私は途轍もない寂しさから解放されないでいた。私は話題を替えることにした。

 

「ずっとお外で遊んでたの?」

「うん。先生がね、隠れんぼしよっていうたんやけどね。マコちゃんがやったらいかん! って怒ったんよ。それで、ブランコしかできんかった」

「あら、そう。マコちゃん、よっぽど愛ちゃんのことが気に入ってるんだね」

「でもなぁ、わたしはほかのお友だちともいっぱい遊びたいんよ」

 一人でも娘を慕ってくれる友達がいるのは素直に嬉しかった。

「じゃあ、明日マコちゃん誘って、皆んなと遊ぼうっていってみたらどう? マコちゃん一人っ子だから恥ずかしいのよ」

「うん。でもねぇ、ぜったい嫌っていうよ」

「どうして?」

「だってお友だち皆んなマコちゃん気持ち悪いっていうもん。わたしにね、マコちゃんと遊んだらいかよって。あの子と遊んだら皆んなから嫌われるよって」

 

 入学してまだ日が浅いというのに、どういうことだろう? マコちゃんを嫌うということは、以前からマコちゃんを知っていたということだ。皆んなマコちゃんと同じ幼稚園だったのかしら? 愛の保育園にはいなかったけど、余所の保育園だったのかしら?

 

「マコちゃんって幼稚園、何処だったの?」

「どこもいってないよ」

 え?

「保育園にも?」

「うん。ずっとおばあちゃんと一緒におったんやって」

「へぇ……、今時珍しいね」

 

 私が子供の頃ですら皆んな保育園なり幼稚園には行っていたのに。行かなかったってことは経済的事情か、あるいは身体が弱いかのどちらかだと思うけど、本当のところはどうなんだろう? 私は知らぬ間に好奇な目でマコちゃんちの生活状況を思い描いていた。

 

「マコちゃんって身体弱いの? よく学校休む?」

「わからんけど、たぶん元気やとおもう。学校休んだことないよ。給食もすごいいっぱいおかわりするし。ほかのお友だちが残したオカズがあるやんかぁ。皆んなの集めてタッパーに入れて持って帰るんよ。お家でおばあちゃんとおじいちゃんの三人で食べるんやって」

「ええっ、何それっ! そんなことしていいの? 先生、何もいわない?」

「なんもいわんよ。先生もマコちゃんのタッパーに入れてあげよる」

「あら、そう……」

 

 マコちゃんの行動を蔑むのは間違っていた。面白がって話す愛はそんなマコちゃんをどう思っているのだろう。ニヤリと笑みを目に浮かべる愛が、私にはまるで犬や猫と同じ扱いでマコちゃんを見ているように思えた。無理もないのかもしれない。六つの愛にマコちゃんの家庭状況まで考えてやれる知能はない。愛は完全にマコちゃんを好奇の目で見ている。このことでマコちゃんに嫌な思いをさせなければいいけど。私の懸念は無知な愛の振る舞いだった。子供は何でも不思議に感じたものをすぐに口にする習性がる。今こうして愛が私に話したように、クラスの友達は家に帰って親に見たままを報告するのだろう。ほんと、子供は何処で何を喋るかわからないから恐ろしい。

 

「愛ちゃんもあげたの?」

「わたしは全部食べた」

「そう……」

 

 それを聞いてホッとした。マコちゃんは自分の行動に恥ずかしさなど微塵も思っていないだろう。その逆に褒められることをしていると誇らしげに思っているはずだ。恥ずべきは無知な子供にタッパーを持たせる保護者。共に暮らせないマコちゃんの御両親はこのことを知っているのだろうか? もし知っていてさせているのであれば最悪だ。

おばあちゃんはどうなのかわからないけど、おじいちゃんは酒乱だそうだから、家庭環境は豊かとは言えないだろう。孫に残飯を集めさせて、罪悪感や羞恥心に苛まれないのだろうか? 小学生の頃、その日休んだ子のパンを届けるように言われた子が、学校の帰り届けずに食べているのを見たときは腹立たしさを覚えたけど、マコちゃんの場合はそのときの子とは明らかに違った感触で私の心を刺激していた。私はマコちゃんには悲しみを、マコちゃんの保護者には強い憤りを覚えた。

 

「マコちゃんを嫌ってるお友だちって、皆んなマコちゃんちの近くに住んでるの?」

「わからん」

「残った給食を持って帰るから嫌われてるの?」

「たぶんねぇ、マコちゃん、鼻クソ皆んなに付けるけんかもよ。それにいっつもウソつくけんやとおもう」

 マコちゃんの幼稚な行動に加えて、嘘をつくのであれば嫌われても仕方ないと思った。

「貧乏やのに、お金持ちっていうけんよ」

「貧乏って、そんなこと誰がいったの!」

「マコちゃんのお家知っとるお友だちは皆んないいよるよ。すっごくボロいんやって。お風呂もないんよ。いっつもおんなじ服やし。なんかねぇ、臭いんよ。うんこみたいな匂いがする。おばあちゃんの顔、お化けみたいやし。ボサボサ頭で顔が茶色なんよ。となりの席の子がいいよったんやけどね、マコちゃんのおばあちゃん、うんこでお化粧しよんやって。おじいちゃんはいっつもパジャマ着とってね、いっつも怒っとんやって。マコちゃんちの近くのお友だちはママからマコちゃんと遊んだらいかんっていわれとんやって」

 

……マコちゃんと遊んだらいかん

 

愛の声の裏で誰かの声が微かに聞こえたような気がした。すると忽ち忘れていた嫌な光景が蘇ってきた。忌み知れぬ不安に辺りが歪んで見える。小学校に上がるまで、マコちゃんのことを知らなかったのが愛一人だとすれば、これは何を意味しているのだろう? もしそうだとすると……。嫌な予感が走った。昔、小学校の入学式の帰り、父方の祖母から注意されたあることを思い出した。もう顔すら憶えていないのに、あの声だけははっきり耳に焼き付いていた。それは人間味を欠いた牛馬に言うような途轍もなく冷酷なものに聞こえた。

 

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