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【この感動を伝えたい】 その⑧ 八木商店著

「あ、あの、山路さん」

 料理がくるのをただ黙って待っている俺に、緊張した声の花田さんが小声で話し掛けてきた。

「山路さんは、御仕事は何をされてらっしゃるの?」

 お見合いの席で交わされそうな質問だと思いながらも、勤めてる銀行を教えてやった。すると途端に花田さんの表情が柔らかなものになった。

「ええ、そうだったんですか! 私、先日坂上さんに紹介して頂いてあそこで口座開いたばかりなんです。偶然ですね! あそこにお勤めだっただなんて。私は保険会社に勤めてるんです。生命保険です」

 坂上をうちの銀行のお客にしたのは俺だ。そしてお客の坂上が知人にうちの銀行を紹介して、そのお客が俺と出逢ったことが偶然なわけないだろっ! 至って普通のことだ。何でそんなに感動してんだこのおばさん? 俺は花田さんが不思議でならなかった。

 それはそうと二十代の男女の中で、この花田さんは誰が見ても浮いていた。俺よりも遥かに年上の彼女は物腰は静かだったが、不快感を誘う香水が邪魔して面と向かって話したい気分にはなれなかった。多分あの日の料理の味を覚えてないのも、あの香水のせいだと思う。花田さんは俺に顔を向けていたけど、俺は正面に座った坂上の胸の辺りに視線を向けたまま、意識して花田さんには振り向かなかった。

 次第に料理が運ばれてくるようになり、俺は食べることに専念したが、坂上は箸も持たずに演説をつづけていた。

「今まで通りのやり方にこだわってちゃいけないんだよ! 型にはめては進展はありませんからね。いいですか、僕たちは新たな物にチャレンジしなければならないんです! ところで来年の今頃、自分がどんな生活をしてるかなんてこの中でわかる方いますか?」

 黙々と食べつづける俺を無視して、坂上は何やら得意げに話していた。

「僕はわかりますよ」と言って、坂上は不敵な笑みを浮かべ、皆んなを見渡してから、「来年の今頃、僕は北海道にいるでしょうね。来年、僕はもう一つ夢を実現します! そうなるように行動してますから。来年には北海道で牧場のオーナーになってるはずですよ」

 俺は思わず口に詰め込んだ料理を吹き出しそうになった。

 

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