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【あんなぁ、ママ、今日なぁ】 その1 八木商店著

「マーマー!」

 

 小学校に上がると、娘の愛はその日あったことを話してくれるようになった。保育園の頃は人見知りが激しく、自分から人に話しかけることはなかった。母親の私が訊いてもなかなか話してくれなかったのに、一年生になった途端に自立心が芽生えたのだろうか、逆に私に訊いてくるようになった。

 

……あの子は父親の顔を知らない

 

 不思議とあの子は父親のことを訊いてこない。内心ホッとする反面、いつか訊いてこないかと不安に駆られるときがある。できることなら触れられたくない話題だ。でも、決して避けられるものではない。そのときがいつくるのかわからない。今日がその日だったらどうしよう……。

死ぬまで彼の傍にいたい。何度そんな幻影に惑わされただろう……。彼との時間はほんの束の間でしかなかった。それでも長かったと思う。私はそれ以上を求めてはいけなかったのだ。あの子の父親にはあの子の他に随分と年の離れた兄弟がいる。愛の存在を彼は知らない。もちろん彼の家族も。彼には妻がいる。だから彼から妻と呼ばれることはないのはわかっていた。家族にいくら煙たがられようとも、彼は一族の中心であり柱だった。割り切ってはじまった関係で、彼を破壊したくはなかった。

 彼の家族は彼と私の関係を否定し、事実を全て無きものにしようとした。彼らがそうしたのも無理はない。私が彼らの立場でも同じようにしたはずだ。私もそれが一番良い方法だと思う。結局、彼は家族から守られていたのだから。私はそのことを証明する道具でしかなかったのだ。ずっと彼を不憫に思っていた。でも、それは私の都合の良い見方でしかなかった。そのことに気づいたのは、あの子を身篭ってからだ。それを遅かったとは思わない。日を追うごとに大きくなっていったお腹。あの子は時折内側から強く蹴り上げ、私に訴えてきた。

 

「マーマー! もうパパに近づいちゃダメ!」

 

 羊水があの子の叫びに波を立てた。お腹の中で愛は何度も理性を失いかけた私を諭してくれていた。恐らくあの子には私が惨めに思えたのだろう。

 

……愛は彼との時間が幻想でなかった証

 

昔、夜眠るとき母がよくおとぎ話を読んでくれた。私はすぐに眠りに就くことができた。どんな物語を読んでくれたのか忘れてしまったけど、母の声のぬくもりに安心して眠れたのは憶えている。彼との想い出には母の声に似たぬくもりがあった。今はもう、夜彼はいない。でも寂しさは押し寄せてこなかった。私は横で眠る愛の寝顔に彼の面影を探して眠る。それが今の私の至福の時。彼との想い出、それは互いに血肉を分けた愛がいる限り決して色褪せはしない。

 

 仕事を終えると一息吐く間もなく、すぐに小学校へ向かう。放課後の児童クラブに預けた愛に早く会いたいがために、買い物はいつも後回しだ。小学校に通いはじめてまだ数えるほどなのに、随分前からこのリズムで過ごしてきたように感じる。正門を潜り抜け、所定の場所に自転車を停めると鍵もかけずに教室へ急ぐ。愛がいる教室を見上げると、窓越しに手を振る愛の笑顔が飛び込んできた。その笑顔に今日も一日何事もなく無事に過ごせたことを神に祈り、感謝する。

一気に階段を駆け上り、廊下を曲がると開いた教室のドアを背に、先生に手を引かれて愛が待っていた。背負ったランドセルが小さな肩からはみ出している。今は大きいこのランドセルも、卒業までの六年間で小さくなってしまうのか……。駆け寄る娘を抱き寄せると、ほのかに香る土の匂い。保育園のお迎えのときには気づかなかった匂いに、ふと娘の中を流れた時を思い描く。この匂いも愛に纏わりついていられるのは永遠ではないのだ。

 

……私も低学年の頃は児童クラブだった

 

夕方、教室の窓越しに、迎えにくる母を見つけたとき、今まで張り詰めていた緊張感が瞬時に解け、無我夢中で母を呼んだ。愛もあの頃の私と同じなのかもしれない。

 普段あの子がどんな風にしているのか知らないだけに、自分の昔を思い重ねてしまう。私は誰とでも話せる明るい子じゃなかった。仲の良い友達も少なく、親友と呼べる人は結局この年になってもできないでいた。遅くまで看て頂いた先生方には本当に感謝している。私が迎えにくるまでの間、母親の役目までして頂いているのかと思うと感謝の気持ち以上に気の毒に思えてならなかった。先生方にも家庭があるのだ。中には私と同じ境遇の方もいるだろう。

 先生方に深々と頭を下げ、下駄箱まで愛を負ぶってゆく。ずしりと背に食い込む愛の重さ。子供の成長の早さにはいつも驚かされる。嬉しい反面、その重みに足を取られて手すりにしがみついた四〇目前の我が身の衰えにこの先の不安が過ぎる。不意に今はもう触れることの叶わない亡き母が、私の少し手前を幼い私を負ぶって階段を下りてゆくのが見えた。

 昔、私を負ぶってくれた母は今の私よりも一回りは若かった。こうして愛を負ぶってやれるのも後何年もないのかと思うと、背に伝わる温もりがかけがえのないものに思え、肩越しにかかる小さな手をギュッと握り締めた。そのときふと昔母もこうして私の手を確かめるかのように握ってくれたことを思い出した。すると忽ち当時母の背から見た肩越しの景色が目の前に広がった。当時、母は何を思い私を負ぶっていたのだろう? 私は娘の温もりに彼を思い浮かべている。母もそうだったのだろうか……

 でも、あの頃はまだ父は母の傍にいた。

 

……父の顔はどんな風だったろう?

 

 母が父と別れたのは私が小学校の三年生のときだった。父と暮らした家を出たのは夜中だった。眠い目を擦って表に出ると、外は驚くほど真っ暗だった。夜中突然外に連れ出された私は、怖さのあまりずっと震えていた。恐くて恐くて横浜の祖父宅に着いても震えは収まらなかった。幼い私はこのまま死んでしまうのではないかと思った。

 父と過ごした四国と、母の郷里の横浜とではあまりにも環境が違っていた。横浜の言葉に耳が慣れ、発音もできるようになった頃には、もうあの日の恐ろしい顔のこともすっかり忘れていた。なのに、数年後不意に蘇った想い出に再び苦しめられようとは思いもしなかった。私は母に起こされた。でも、そのことに気づいたのは随分経ってから。高校になって何かの拍子にあのときを思いだしたときだった。それまで私は長い間、あの日私を起こしたのは鬼だと本気で思い込んでいた。

 

 あの日、暗闇に目の前に迫ってきた顔。できることなら忘れたい。なのに、あの死人のような色のない顔が何の前触れもなく不意に現われてくるときがある。世の中には不気味に描かれた肖像がある。でも顔に震えたのはあの顔だけだった。それが他の誰でもない最愛の母だと知ったとき、私は心の底から人という生き物に恐怖を覚えた。もしあれが赤の他人だったらここまで怯えたりはしなかったろうに。私は今でもあの顔を思い出すたびに全身に鳥肌が立つ。

 

……おぼろげに父の輪郭が目に浮かぶ

 

 だけど、どんな顔立ちだったのか思い出せない。忘れちゃいけない顔なのに、いくら思い出そうとしてもどうしても浮かんでくれない。無理に思い出そうとすると、代わりに母のあの嫌な顔が出てくる。奇妙なことに父と母の並んだ姿を思い描けない。父は私の想像の中ですら母と一緒にいたくはないのだろうか。ふとそんなおかしなことを考えてしまう。

 

……思い出せない父の顔

 

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