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2024年、心身掃除

燕雀安知鴻鵠之志哉 されど、大空を知らず。

2024年、休学をする。2月19日の今日、3年次最後のレポートを提出したため、愈々学生の身分を一旦失うことになる。まあ実際は失わないが、失うということにしておく。
2024年の意思を明確にするために、記録として書き記す。

一.抵抗、後悔

 端的に言えば、この大学生活が過去に類を見ないほど劣悪なものであったからである。長い夜の時代に二度差し込んだ光は、それを全て照らすには至らなかった。照らす準備すら怠っていたから。頭の中には常に靄がかかり、矛盾を抱え、見るべき方向も見定まらないまま、徒に時を過ごし、気づけば最後の年を迎えようとしていた。どこに立ち、どこを見、何に触ろうとしているかもわからず、暗い部屋に閉じ込められた2023年にあって、自分は咄嗟に目の前に現れたものを縋るように掴んだ。それが休学であった。このまま終えることはあってはならない、やり残したことがある、もっといい生活が送れると後から正当化するには十分だった。現時点でどこに立っているのかもわからないのに、1年間を踏み台にして未来の立ち位置を決めようとしているのだから、ヘンなものだ。
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 休学の決断から3月ほどが経つが、珍しく正しい決断だったように思う。正しいというか、妥当というか、マシというか。大学生活二度目の良き決断だ。いや、良いかどうかはまだ決まっていない。だが、このまま4年次を迎えても仕方なかっただろう。同じように1年間を過ごす。碌に就活もしていないので、その辺の企業に入るか、あるいは公務員試験の勉強を続けていたか。恐らく卒業式の日には、高校のそれほどの喪失感は生まれないだろう。そもそも出席していないかもしれない。家に帰って、寝る前にふと思い返すくらいだ。そして大学生活を振り返っても「馬鹿」、の一言で終えるだけだ。
 思えば3年間、手ごたえのないものを掴みもできず、何とかして手を伸ばして触っていただけだった。四年次進級に一旦待ったをかけたこの冬、総括をするにあたって「この3年間は駄目でした(笑)」の一言で片づけることは簡単だが、それはあまりにも傲慢で、何も学んでいない。同じ歴史を繰り返すだけだ。
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二.破綻

 人間関係の破綻を、3度くらい経験した気がする。そのほとんどが自分のせいであるというあたりに、要因が詰まっているように思われるが。承認欲求、被害妄想、組織への諦め。このあたりだろうが、その全てにインターネットが関わっているということは、気に留め置かなくてはならない。この「馬鹿げた」3年間の後に得られたものは、「インターネットは向いていない」というただ簡単な答えだけだった。なんだ、結局一言で終えてしまうではないか。内に自覚する大きな過ち、反省、喪失感を語ろうにも、その一言以上に言い表す言葉が見つからないということは、実にシニカルだ。その一方で、少ない成功にインターネットは関わっていない。そのうちの一つで関わった人間が、インターネット人間であることを考慮しなければの話だが。とはいえ、失敗の方がはるかに多い。そして、壊れたものを直すことができるほど自分は器用ではないし、やるべきでないと思う。反省をし、二度と繰り返さないことができる最大限のことだ。そして、取り返しようもない過去に囚われてはならない。
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 不思議とというか、当然というか。幸か不幸か成績の方は破綻したわけではなかった。この3年間で一度も落単はしていないし、GPAも3点台半ばと、まあそれなりにやっている方ではあると思う。可もなく不可もなく、といったところだ。今季に初めてのCを取得することになったのは痛恨と言うべきだが、別に気にならない。

三.心身掃除

 心身掃除と題したのは、これまでの過去への精算を指す。多分に、自分はこの3年間であまりに多い「自分」を散乱させてしまったように思う。各コミュニティ用の自分を用意し、使い分けていた。ある時の自分は、またある時の自分にとっては嘘の自分だ。ある時に言わないようなことを、またある時には平気で言う。それらを一掃し、あるいは統合するのが2024年の大きなテーマの一つである。他者を慮っていたつもりだったが、本当に余裕がないのは自分であったとようやく気付くことができたのでまず前進だろう。人格の大きな成長は、学生からの脱出前に必要である。
 そして、世界をどう作るかを掃除する。いや、これに限っては散らかす方が正しい。掃除は散らかしを伴う。己の世界を形作る手段である「世界のつくり方」は、大いに翼を広げて散らかすべきである。やりたいことはたくさんある、それに気力が伴えばの話ではあるが。具体的な話で言えば、創作、映像、作曲、言語、渡航など。だが、最終的には掃除が必要だ。迂闊に将来を適当に決め、右往左往したのが2023年末期であった。最後には決断しなければならない。
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 今思うに、自分が求めているのは己が世界観なのだと自覚する。やるべきこともわからないし、どこに立っているのかもわからない。だが、大きくて、それでいてぼんやりとした、何か欲しいものだけが見えている。その道筋はこれから開拓しかなければならないし、道は自分で作るものだ。自分の世界を作る、が最近のテーマである。だからこそ創作の世界に入り込んだし、引き込まれたともいえる。クリエイティブが自分を救う可能性は高い。
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 今、かつての自分とは少し変わったという自覚がある。他者に囚われなくなったことがその一つである。自分の内面に矢印を向け始めたことで、自分の内部が外部となり、それまでの外部が内部となった。非自分から得られるものを用いて、自分を構築する。

 どうやって?
 そりゃあ、まだわからないですよ

四.現在地

最近、夢を見る。いや夢は元から見るが。その夢に現れるのはかつての、もう会わないであろう友達と、かつての光景である。懐かしんでいるのか?
最近、ふとした時にヘンな景色が浮かぶ。その景色に見るのはかつての、もう会わないであろう友達と、かつての光景である。懐かしんでいるのか?
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 もう20歳になったから、「大人」というものになる時期になっている。自分にも少なからずその兆候は現れているし、同い年の友達なんて明確に現れているなと感じることが往々にしてある。まず、話題が変わった。久しぶりに中学、ないし高校の友達と会ってみれば話題は将来の話とか、異性がどうとか。どうもこれが、自分にとっては面白くない。だからどうと言うわけではないし、それが普通なのはわかっているし、それ以上の話をされない時点で自分が面白くない人間であることの証左ということも理解している。
でも、一介の寂しさは覚える。たくさんのバッググラウンドから、横に横に広がっていったはずのそれぞれの人生のレールが、だんだん同じことをするようになって、同じようなことを言うようになって、普通という大きな線に収斂されていって、次々に隣の人は真ん中に合流していって、それから大きな汽車に乗せられて、社会の歯車になっていくさまを、見ている気がして。

 いや、でもそれは、君は社会というものを敵視しすぎで、人生ってそれだけじゃないよ ほら、もっと他にもさ、 

 それは、ちゃんとわかっているから。それ以上言わないで

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五.現在地2

 一応、学生の身なので学問についても言及せねばなるまい。3年次になり、政治学主専攻という場に狭めることとなった。自分は学問領域を狭めたつもりは全く無いが。国際政治学の講義に出席し、世界の見方(ただしい)をある程度見繕いつつ、まあそこそこといった感じだ。だが、我ここに在らずという感じがぬぐえないので、復学後は国際政治からは離れ別の領域に移ろうと思う。話を戻すと、特段学問領域を狭めたつもりはない。今でも社会学や法学には興味を保っているし、憲法関連のゼミにも出ている。政治学主専攻という一極集中ではなく、興味がそこらへんに広がって、それをいろんな視点から見るのが自分らしい。コレが学際的、というコト?(なお、3年次春のゼミ論では憲法9条について執筆し、かなり右派的な議論になった。)
 最近の興味は趣味のサッカーに関連した社会問題にある。3年次秋のゼミ論ではサッカーの世界における人種差別問題について取り扱い、同系統の講義では同じくサッカー界の国籍問題について扱った。恐らく、卒論もその系統で書くことになりそうだ。あえてサッカーにしているのは、国際性が最もあるスポーツだと理解するのと、普通に事例を知りやすいからだ。まあ、興味なんてそんなもんだし全然いいと思おう。机に置いた簡易本棚はほとんどが2024年になってから買ったもの。合間を縫って読むようにしている

『蹴球学』はサッカーの戦術の話だ

六.未来。a.k.a 不安

 何をするにも自分次第、というのが大学生活だ。自分から動かなければ暇だと、入学前に教わった。その通りだと思う。大学生活の前半はパンデミック渦中であったことから、その場しのぎの言い訳くらいにはなった。だが、今年はいよいよそうもいかない。何もしなければ、週3日のバイトに行くだけで1年は終わってしまう。1日はかなりあっと言う間だ。こう自覚し、明日こそはと毎夜自責する。だが、それに付きまとう不安と無力感は計り知れない。先が全く開拓されていないことのわくわく感よりも、今は恐怖と不安の方が大きい。現に、この2か月は失敗の様相を呈しているようだ。何も成し遂げていないわけではないが、やはりこのままだと先行きが不安である。負のスパイラルから脱却する機会が、導火線に火を付ける作業が必要だ。
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 4000字もつらつらと書き連ねたが、はっきり言って不安だ。何をするにも不安だし、何をすればいいのかもわからない、スパイラルに陥っている。ここから人生曲線が上向くも、下向くも、この1年次第であることを自覚している。それゆえに、大学卒業後の自分の姿が全く見えない。さながら、星新一が書いたところのゼロ日時のように。将来のことになると、完全に思考が停止するのは、たぶん世界が形作られていないからだろう。自分は今、他人よりも曖昧な世界で生きている。具体を伴わない、概念的な考えのもとで生きている。だが、その概念的なそれが何なのかもわからないし、それを表面に出す方法もないし、そもそもそれが概念的な考えなのかもわからない。
 文章が迷走しているように、何がしたくて、何をすればいいのかわからないので、とりあえずやりたいこと・できることをやってみて、そこから考えたい。何をするにも、未定。今は、空白です。何色にもなれるし、何色にもなれない。
 今は、肩に力を入れてやってやるぞと意気込むよりも、今自分ができることを最大限やることが大事だというマインドでいようと思っている。それが全力であり、それが即ち成長なのだ。
  *
 今、自分は過渡期にいる。この1年をミスっても死ぬわけではないし、気軽に行こう。
手をポッケに突っ込んで、後ろを振り返ることなく、夜の坂を下っていく。
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燕雀安知鴻鵠之志哉。
曹操の言葉だ、俺の           は誰にも解れない。

やること(進行形、未来形)
・サッカーを観る
・本を読む
・サッカーを観に、渡英
・動画を作る ←2週連続挫折中!
・Adobe
やりたいこと
・英語、ドイツ語
・作曲に手を伸ばす(続けるかは別として)
・外に出て、感性を磨く
・人間との邂逅
・放浪

2024年2月23日未明、記す。
もう少し書ける気も、まとめられる気もするが、いったんこれで2024年の決意としたい。
敢えて硬い文体にすることで、あとで軽く笑い飛ばせるようにした。
そんな不安にならなくても、未来は明るいよと1年後の自分に言ってもらえるように。

2025年2月の漏れへ 夜明けは迎えられていますか。笑えていますか?



あるいは











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