ヒナのつぶやき

こんにちは。
月島校アドミンの渡邊日菜です。いつもアウル生の皆様には温かく見守っていただいており、この場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございます。

第2回の今回は私自身の人生においての英語との関わり方と、生きる上でいかに英語を必要としてきたかをお話させて頂きたいと思います。

私は福島県いわき市生まれで、小学生の時は学校帰りには田んぼに行ってザリガニ釣りをしたり、川に行って給食の残りのパンを魚に与えながら帰ったり(当時はまだ給食の持ち帰りが認められていました笑)、時にはそのままダイブしてびしょびしょになって帰ったりと自然に囲まれてのびのびと育ちました。

そんな田舎では英語に触れる機会はまだまだ珍しい時代ではありましたが、ありがたいことに私の母の都合で、幼い頃は海外によく連れて行ってもらいました。また、地元の学校に来るALTの先生の受け入れをしたり、留学生もよく家にいたので、私にとって英語はいつの間にか身近なものとなっていました。

しかし、私の母は私に自身で英語を教えるということは早々に諦めたと言います。
いくら話しかけても全く英語で返す気がない私に教えていくのは難しく、結局母は私を2歳ごろから英会話スクールに通わせることにしました。しかし、週に1回1時間の英会話レッスンはなかなか英語が身に着くものではなく、5歳くらいの時にアメリカの友人宅に滞在しているとき、そのお家のおばあちゃんに“なんでこの子は全然英語が話せないの?”と言われ、子どもながらに傷ついたことを覚えています。当時の私と同い年くらいの今のアウルの子たちを見ていると、この子たちが今、アメリカに行く機会があれば、きっと当時の私より楽しく過ごすことができるのだろうな~と思います。

小学校5年生になり、いよいよ中学校に入る前に英語を、となった母は、私を英会話教室ではなく、英語塾に通わせ始めました。週2回2時間ずつ、ひたすら英語を書いて勉強する塾でした。その2時間の間、何度時計を見たでしょうか。とても長い時間だと感じていました。しかし、ありがたいことに幼い頃からの友人が一緒にいたため、どちらがどれだけ早くテキストを進められるかをいつも競い合い、テキストを進めるスピードは速かったです。そして、地元の市立中学校に入るとABCからのスタートとなり、“あ、私英語できる!”と英語が得意教科となりました。

私立の高校に入ると、入学した瞬間から大学受験に向けて勉強を開始しなければならず、毎日テスト三昧でした。英語も毎朝単語テストがあり、合格できないと放課後に再テストがあったため、毎日必死で単語を覚えました。とても辛かったです。しかし、この時に覚えた英単語だけで、その後の私は様々な場面を乗り越えてきました。この時、必死で何千もの単語を覚えてよかったなと思っています。実は、この時の受験勉強だけで、全く対策もせず英検2級に合格することができました。今となっては奇跡です。

無事に大学生となり、私は勉強そっちのけで、やりたいことだけをやって過ごしていました。
この時のことはまた次回お話させて頂ければと思います。

大学に入ると、当たり前のように英語ができる同級生が周りにたくさんおり、焦りを感じつつも、勉強はしませんでした。元々、英語は好きだけど、英語を学習したい!勉強しなくちゃ!という意欲はなかったんですね。そして、“私、英語そんなにできない、でも海外で勉強したい!” そう思った私は、発展が凄まじかった(当時私はそう思っていました)ブラジルに留学することを決めました。私の大学はブラジルのどの学校とも提携していなかったため、完全な個人戦で、自分で大学に書類を送り、数回のやり取りを経て、無事に留学権を得ました。それから、ポルトガル語を勉強して単身、ブラジルに行きました。私はポルトガル語ができないため、半年間はポルトガル語クラスだけしか受講ができず、一番下のクラスに入ったのですが、それが私にとっての人生を大きく変えるきっかけとなることでした。そのクラスにいる人たちはみんな大学院生や博士、もしくは先生で世界中からブラジルに派遣されている優秀な人たちでした。そのため、全員が英語をネイティブのように話し、ポルトガル語ができない私たちの共通語は英語となりました。そこで私はみんなといろんな話がしたいために、そこで初めて英語を勉強しようと自ら思ったのです。そして、私のブラジル留学は英語もポルトガル語も勉強ができるとても素晴らしいものとなったのです。

そして私は帰国後、世界にでて仕事がしたいと思い、公務員試験を受けることを決意して大学と並行して塾に通い勉強をしましたが、こちらはあまりにもハードルが高く、1年未満で挫折してしまいました。一番の挫折要因はなんとも悲しいことに“英語”でした。同じ受験生は帰国子女が多く、私の英語レベルではどうにも太刀打ちできるようなものではなかったのです。そしてこれから就職をどうしようかと悩んでいるときに、CAなんてどう?という友人のアドバイスを受け、大学卒業を目の前にして、今度はCA受験のための対策を始めました。ここでは今度はTOEICのスコアが必要となり、必死でTOEIC対策をして、ギリギリスコアを取って受験を続け、大学卒業後半年後にやっと外資の航空会社のクルーとなることができました。留学とCA受験を通して英語をそれなりには話せるようになったため、一人での旅行も全く怖くなく、世界中を旅して貴重な経験をさせて頂きました。

2020年に入り、急速にコロナウィルスが世界中に広がり、航空業界は大打撃を受けました。私はもちろんその影響を受けた一人です。この先CAとして働くことに見通しがつかず、今後のことを考えたときに子どもが好きで、せっかくなら英語を使える仕事をしたいと思っていたところ、アウルインターナショナルスクールとご縁があり、こうして働かせていただいております。毎日当たり前に英語を学ぶことのできる環境の中で日々過ごしている子ども達をみていると、とても恵まれているなと思います。まっさらな状態で、“英語を勉強しなければならない”というプレッシャーがない中で自然と英語を学ぶ環境にいられることは本当に幸せなことだと思います。

人それぞれ目指すものが違うため、どんな知識が必要かそれは違うと思いますが、私の人生において、自分がやりたいことをするためには英語が必須科目でした。そして、英語が少しでもわかることによってできる・挑戦できることの幅広さは際限ありません。そして今現在も英語の勉強をもっとしてくればよかった、という後悔と、もっとしたいと日々感じております。アウル生のみんなには、やりたいことにはたくさん挑戦してほしいと思うので、アウルでしっかり英語を身に着けてほしいと思っております。

長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。
留学についてや、海外で働くこと、私の世界珍道中など気になることがありましたら、いつも月島校の受付におりますので、気軽に話しかけてください!

今年も皆様よいお年をお迎えください!


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