悲しまないで

 山肌を埋めるかのように所狭しと生える草木、息を吸うたびに心地よい重みを感じるほどに空気は湿っていて、鳥の羽音や森の囁きや風にふかれ落ち葉が舞う音がこの空間を丸々飲み込んでしまったかのような崇高な場所。そんな場所にまるで世界から切り取られた逸れものようにポツンと古い一軒の家が立っている。僕はそこで生まれ育った。
 僕の家族は姉ひとりで、父も母も物心ついた頃にはもうどこにいなかった。大部屋の日当たりの良い場所、そこにある小さな木製のテーブルの上には、一輪挿しの花瓶と季節の花、それと、赤子の頃の僕と幼い頃の姉と両親が写る家族写真が額縁に収められ飾られている。その写真が唯一両親の存在を証明するものだった。
 両親は文学や芸術に興味があったらしく、両親の部屋には、壁一面に置かれた棚を埋め尽くすほどの本や絵を描くための道具一式が置いてある。部屋の隅には両親が描いたであろう油絵や水彩画のキャンバスがいくつも置いてあり、作業用に使われたであろう机の上には、棚に入りきらなくなった本が山積みにされている。両親の遺したものは僕たちの心を育んでくれた。
 姉はとても物静かな人で頑張り屋で優しくて絵を描くことが大好きだった。僕よりも早く起きて家事を一通り終わらせ、朝食を準備してくれる。そして、ふたりきりの朝食を済ませると、
「絵を描いてくるね。」
と言って大荷物を抱えながらバルコニーへと向かう。そこからは緑の生い茂ったこの場所からは想像できないほど広くて大きな青い海が見えた。姉はイーゼルを立ててキャンバスを乗せると、木製の丸椅子の上に腰を下ろし、陽が暮れるまで飽きることなく海と向き合いながら黙々と絵を描き続ける。そして、陽が暮れると夕飯の支度をしてくれて、僕のお世話を全てしてくれた。僕はそんな姉を心から尊敬していた。
 僕は本を読むことが好きで両親の部屋の本棚から本を取り出して読んでいた。絵本や小説、資料集や図鑑などたくさんのものを読んできたが、その中でも一番好きなのは見開きのページが目一杯に真っ青に染められ、白い波が立ち、導くような太陽の光が薄い膜のように広がり、神秘的な煌めき放っている海の絵が描かれている絵本で、僕は取り憑かれたかのように何度も何度も読み返した。いつしか思いを馳せるほど海へ憧れを抱き、大人になったら必ず海をこの目で見るのだと心に決めた。その時には姉を一緒に連れて行って素敵な絵を描いてもらおうとも考えていた。そして、かわり映えしない日々を何年も重ねていった。
 四季はものすごい速さで何度も巡り、僕はもういい大人と言えるほどの年齢になった。
 今日は3年前に死んだ姉の命日。はじめの年は悲しくて哀しくて仕方がなくてやりきれなかったが、人間とは非常に便利で都合の良い作りをしているらしく、心に空白はあれど、いつしかすっかりと慣れてしまった。本当に僕は情けなく、救いのない人間だな。そんなことを思いながら、姉がキャンバスに描き遺した大量の海の絵の中から一枚だけを選びだし、サラサラと肌触りの良い大きな布で包んだ。そして年季の入った茶色の鞄の中にあるだけのお金、小さなテーブルの上に置かれていた唯一の家族写真、少しの食糧、幼い頃に何度も読んだ海の絵が描かれた絵本を入れ、カーキ色の薄手の上着を羽織り、姉の絵と荷物を抱え、僕は生まれ育ったこの家をあとにした。
 僕は知っていた、姉が毎日描いていたものが海ではないということを。姉が信じ続けて描き続けてきたものは本物にはなれないということを。けれど、もしも海ではないことを知っていながら毎日絵を描いていたのだとしたら姉があまりにも報われないじゃないか、僕はそんな姉を見過ごすことで満足していたのかとひどい罪悪感に襲われた。贖罪のためにもどうしても海がどんなものなのかを、そして、姉のためにも幼かった頃の僕のためにも確かめなければいけないと思った。深い森を抜けてやっとの思いで山を降り、道ゆく人々へ人が賑わう場所を教えてもらい、行き交う人に声をかけ、海のある場所を訪ね続けた。
 そして、ついに海へと辿り着いた。山奥の家を出てきてからどれだけの月日が経ったのかわからないが、数十年越しに僕の夢が叶った。全身の力が一気に抜け、その場にしゃがみ込み、心の底から湧き上がる喜びがものすごい勢いで体から溢れ出し、視界が揺らぎだすととめどなく涙がこぼれた。薄汚れた鞄の中から海の絵本と家族写真を取り出し、姉の絵を包んでいる布を丁寧に解いて砂浜へ一緒に並べた。
 その直後、電池が切れたかのように視界が暗転し、胸のあたりに切り裂くような鋭い痛みを感じた。その答えは簡単だった。念願だった海をこの目で見たということは僕の生きる意味がなくなったことを示し、姉の存在とこの世に遺してくれたもの全てを否定することになる。そして何よりも、僕はこの果てしなく広い世界のほんの一欠片の住人でしかなく、それ以上でもそれ以下でもないということに気付かされた。
 理性を失い壊れてしまった頭は僕の意思に反して体へ指示を出すが、もぬけの殻のようになってしまった体には当然力はなく、立ち上がることすらできなかった。家から持ち出してきた諸々を砂浜の上に置き去りにしたまま、体を引き摺り、情けない姿で地面を這いながら海辺まで進んでゆき、棒のような足を地面に突き立て、生まれたての子鹿のように震えながら立ち上がり、海へ足をつける。息が止まるほどに冷たかったが遥かに遠いどこかで触れたことのあるような温もりを感じ、何故かバルコニーで楽しげに絵を描くあの頃の姉の姿と死んで冷たくなってしまった姉の姿が脳裏に浮かんだ。
 水平線の先を見つめると細く白い腕でゆっくりと手招きをする姉とその少し先を歩く両親の姿が見えた。
「僕は…とことん不幸せな人間だな…。」
ポツリとこぼした言葉は漣の音と強い潮風でかき消され、僕の名前は藻屑の中へ消えていった。